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単純化

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近読んだ本にこんな文章があり、なかなか秀逸な表現だと舌を巻いた。

> 人間は物事を考えるとき、必ず理想化して単純に考える。
> 単純化することそれ自体が理解したということになるのかもしれない。

これは普段「抽象化」という伝わりにくい表現になってしまったり、ホフスタッターがGEBで「同型対応」と呼んだりした概念を、見事にわかりやすく表している。そう、人間が言語を介して物事を理解するのはまさに「単純化」と言って良い。複雑な事象をコンパクトな単語にまとめ、記憶にしまい込むという作業は、まさに単純化以外の何者でもない。

「単純化こそ理解の本質」という立場に立つと、「知ってはいるけど理解はしていない」「知りすぎていて、言葉で表せない」と言った現象もすんなり説明できる。

前者は「単純化された言葉とその意味は知っているが、その裏にある複雑さに相対していない」という状態。

後者は、事象の複雑さに何度も相対して学習し、もはや言語ではない情報で理解(これを「身体化」と呼ぼう)してしまっている状態である。

更に考察を進めよう。プログラミングとは、言語化の作業である。物事を単純化し、言語化し、理解し、それをプログラム言語に翻訳する。ここでは、人による「理解」が必要になる。

第2次人工知能ブームでの「エキスパートシステム」が失敗に終わったのは、身体化してしまっている知識を言語化しなくてはならなかった、つまり単純化しなくてはならなかったからだ。その単純化の過程で、多くの大事な情報が抜け落ちてしまう。また、言語化のスキルが低い人が事象を単純化すると、誤ったシステムが出来上がってしまう。

しかし第3次人工知能ブームでは、ビッグデータと機械学習のおかげで、複雑な事象をそのままアルゴリズムにできてしまう。そのアルゴリズムを人間が理解できないと言うのは、そこには言語化できない知識が大量に含まれているからだ。

機械学習により、もしかすると言語化という活動は不要になるのだろうか?「手でプログラミングする」時代は終焉を迎えるのだろうか?
通り一遍のことを言うなら、「機械に代替されないものも残る」と言うのが答えだろう。しかし、それは何なのか?複雑な事象を、言語を介さず学習してしまう機械に対し、言語化という作業に残された価値とは何なのか?

「人間にしかできないこととは何か」というよくある問いを、「言語化という単純化する行為の価値とは何なのか」という問いに進めることができたところで、一旦筆を置くこととしよう。

コメント

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

符号

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。