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2月, 2019の投稿を表示しています

ボーダーライン

言葉は境界を作り出す。言葉が指すものと、そうでないものに世界を分割する。時に人は、「そうでないもの」にも名前を付ける。善と悪。真と偽。地上と地下。右翼と左翼。有機物と無機物。などなど。二項対立の誕生である。言葉によって分かたれたあと、概念はその両極に向かって独り歩きを始める。その歩みを進めるのは、人間の意思だ。人間はなぜそんな意思を行うか?まず最初に関心があり、情報を得る。面白いと思えば更に調べ、情報は知識となり、知識は理解となり、理解は身体化して血肉となる。この過程で、人は自分の進む道、獲得しようとしている概念に愛着を抱きがちだ。特定の概念に愛着を抱くことは、反対概念の否定と隣合わせである。多くの場合人は、反対概念の否定という誘惑から逃れられない。だから人は、自分の好む概念を肯定し、愛着し、正当化し、時に信仰する。反対概念については否定し、遠ざけ、時に憎悪する。この「信仰と憎悪」は激しい対立を生み出すことから、戦争をする理由の正当化と世論形成の手段として、為政者によく利用されてきた。言葉が生み出すこうした現象は、古来より問題視され、解消する手段がいくつも提案されてきた。禅、中庸、止揚、エポケー、(キリスト教の)愛…これらのメソッドはそれぞれに説得力を持ちながらも、言語が二項対立を生み出すという「自然な」流れに抗おうとするものであることから、実践できている人はごく少数だ。おまけに、それらのメソッドそのものが言語で語られており、愛着や信仰の対象になりがちであるという、とんでもない矛盾を含んでいる。これらの有用な教えを全人類が真に理解するような日は、未来永劫期待できそうもない。とはいえこうした現象は、言語を獲得した人間の業とも言えるが、極めて豊潤で肯定すべき営みであるとも言える。知的活動は言語なしには成り立たない。混沌とした世界の中にあるパターンを見出し、言葉をあて、記憶し、記録し、他者や次世代に語り継ぐ。その言葉が持つ概念を突き詰める中で、今まで気づかなかった微細なパターンを更に見つけ、細分化していく。世界を限りなく言語で単純化しつつ分類していくこと。それが知的行動の要諦だ。言語の指示作用による世界の分断は、知性とのトレードオフなのだ(とはいえ、言語を持たぬ動物が同種同士で争っているのを考えると、分断や闘争は生物にとってそもそも不可避なのだろうとも思う)。さて、こう…

教える

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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教えることに関心がある人とない人がいる。ちなみにぼくはない方だ。教えるという行為が楽しくないわけではない。ただ、人に教えている時間があったら、もっと自分をどうにかしたいのだ。学んでも学んでも、そこらへんの石ころと同じくらい世間に暗い。本当にそうかはどうでもいい。そう思っていたいのだ。だからぼくは、一生涯人にものを教えることはあるまい。教え始めたとしたら、「人に物をおしえるような何者か」に自分がなったと思い上がってしまったときだろう。最近関わっているアーティストも、教えることには一切関心がない。アーティストとはそういうものかも知れぬ。アーティストは独りよがりでなくてはならぬ。自分だけの表現を突き詰めなければならぬ。自分と似たものを作る人を増やすことも、自分を高めたり創作したりする時間を削ることも、一切関心がない。当然だ。生涯未熟な者、もしくは未熟であり続けんとする者は、人に物を教えることはできぬのだ。

アート

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、アーティストと関わることが少しずつ増えてきた。自然と、アートについて考える機会も増える。ぼくが思うにアートとは、根本的に、自我の発露である。自分が心から表現したいと思ったことを表現すれば、それがアートである。アートとは、根本的に独りよがりなものだ。では、アートでないものとは何か。上の定義に従うなら、「独りよがりでないもの」だろう。だとすればぼくはアーティストではない。他者の関心を惹きつけたい、そればかり考えているからだ。もっと正確に言うと、他者の関心を惹きつけることと、自分のやりたいことを絡み合わせ、止揚することばかり考えている。と、ここで、語ることがなくなってしまったことに気づく。アートとは独りよがりだ、というフレーズが、書き始めるまで思いついていなかったのだが、思いついた瞬間にこのエントリーは終わってしまった。一応確認のために言っておくと、独りよがりというのは褒め言葉である。この世の中で、独りよがりを通し続けることがいかに大変なことか。食えない。理解されない。それどころか、否定される。いや、否定され「続ける」。下手をすると死ぬまで。凄まじすぎる。ある意味、途方もない天才か、途方もない狂人にしか、真のアートはなし得まいとすら思える。そんなぼくが、アーティストにはなりきれないぼくが、アーティストと「コラボする」と言う形でなにかするかも知れぬ。それについてはまた機会を改めて記そう。

つなぐ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ぼくの人生の主要なテーマである「生み出す」ことと「つなぐ」こと、この2つにどんな関係があるのだろう、とふと考えた。1つ前に書いた文章で、ぼくのしていることが「1人でも多くの人生を花開かせること」と接続されたことが、この問いを生み出したようだ。ぼくは誰か他者と繋がって、何かを生み出そうとする。それはなぜか。ぼく1人では生み出せるものに限りがあるからだ。いや、もっと厳密に言おう。激しい生みの苦しみを乗り越えてまで、生み出したいと思えるものが、ぼく1人では限られてしまうからだ。生みの苦しみは、叶えたい願望の大きさに比例する。大きな願望を叶えようとすれば、それはそれだけ大きな生みの苦しみを味わうことになる。その苦しみを乗り越えられるかどうかは、自分がそれをどれほど強く望んでいるか次第だ。それほどの強い願望を、自分が関心を向けるすべてのものに対して抱くことはなかなか難しい。それまでの人生で、何に時間を費やしてきたかが、想いの深さには重要だからだ。だからぼくは、そうした思いを持つ人々と繋がって、彼らの想いをかたちにする手伝いをすることで、大きな価値のある1を生み出したいのだろう。ほら、「繋がる」と「生み出す」がつながった。おそらく、創造という行為は1人ではできないのだ。創造は、必ず他者を必要とする。一緒に作る人、という意味の他者だけではない。1人のアーティストであっても、その作品を見る他者が必要だ。創造という行為は、常に他者の存在を前提としている。だから、創造には繋がりが不可欠なのだ。だから、ぼくは繋がりを作るのだ。

後半

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、知り合いの起業話に付き合っていて、1つ気付いたことがある。ぼくはコンセプトメイキングの手伝いをしているのだが、結局そこでやっているのは、相手のやりたいことやなりたい姿を具現化するお手伝いであるということ。そして、その過程でコピーライティングを行うのだが、それは相手のやりたいことやなりたい姿を言語化するということである。つまり気付いたことというのはこうだ。
ぼくがコピーライティングしているのは、人の人生そのものだ。これが最近、いろんな人に肩書を贈呈してたり、起業するにあたって、その人のやりたいことをヒアリングすることを重視していた理由だった。他人の人生をコピーライティングするなんて、これほどコピーライター冥利に尽きることはない。そして、これほど重要なこともない。ぼくは、「若い頃こんな人に出会いたかった」と思える人になりたいのかもしれない。そうすれば、ぼくの人生はより早く花開いていたかもしれない(ぼく自身の人生は未だ花開いていないが)。0から1を1つでも多く生み出し、1人でも多くの人生を花開かせる。ぼくの人生のミッションに、後半部分のフレーズが、今日書き加わった。

心を開く

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、とても嬉しい変化がある。人が、心を開いてくれがちなのだ。普通だったら初対面の人間には打ち明けなそうなぶっちゃけ話を聞かせてもらえることが多い。そのことに気付いたらつい嬉しくて調子に乗ってしまいそうになるが、一方でそれを強く諌める自分がいる。なぜそこまで強く諌めるのか、と不思議になるくらいに、心の中でブレーキがかかる。その理由を探っているうち、人に心を開いてもらうための「4つのK」を編み出したので、合わせて述べておく。その「4つのK」とは次のようなものだ。・敬意
・肯定
・関心
・開示相手に心から敬意を払うこと。どんな人にも敬意を払うようにするには、余計な価値観を投げ捨て、自分の価値への執着を投げ捨て、相手の長所を尊敬し、短所を愛する姿勢が重要である。肯定すること。あらゆることを無条件で肯定するには、特定の価値観になるべく与しないようにすることが重要だ。関心を抱くこと。好奇心を持つことが重要だ。知らないことに触れ合うことを喜ぶのだ。自ら開示すること。自分の弱みや恥を積極的に開示していく。人間には返報性がある。自分が開示した程度に合わせて、相手も開示してくれるのだ。これらのKを根底で支えているのが、1つ目のKである「敬意」である。 敬意を抱いた相手には、肯定することも、関心を抱くことも、開示することも容易いからだ。そして、この敬意を万人に払える存在でいたいからこそ、ぼくは自分の驕りを諌めていたのである。驕るということは、自分に特別な価値があることを望むことである。「自分に価値がある」などと考えた瞬間、人と自分の価値を比較する思考が生まれてしまい、人に対して純粋な敬意を払いにくくなるからだ。「自分には価値などいらない」「無価値な人生で構わない」という健全な開き直りが、人に純粋な敬意を抱く上で重要と考えるのである。

オルト・ファクトフルネス

ファクトフルネスは、事実を表す「データ」を巡る、人間が犯しがちな過ちを「10個の本能」という形でまとめ上げている。素晴らしいアプローチであり、ユーモアと楽観的なメッセージに溢れた同書籍は、今度イベントを開こうとするぐらいにファンである。ただ、ぼくはエンジニアだ。「10個の本能」のような「列挙型」のアプローチも嫌いではないが、エンジニアの本能として、論理的にMECEだと自信を持てる説明のアプローチがないか探ってしまう。そこで色々探った結果、問題はただ一つだという結論に達した。それは、事実を尊重する価値観である。できるだけ正確なデータの収集、主観を交えない解釈、偏りや恣意的な編集のない情報発信、そうした情報を先入観なく受け入れる情報受信など、全ては突き詰めると「事実を尊重する」価値観次第だと言っていい。しかし先にに述べたすべての過程で、人間は誤りうる。人間の認知能力の限界故か、資金が充分に割り当てられないためか、資本主義が引き起こす衆愚化の故か、それとも「本能」ゆえか。限界を超えるにも、資金を割り当てるにも、衆愚化に抗うにも、本能に抗うにも、意志の力が必要だ。事実を尊重する意志が。思考も行動も事実に基づくべし、とする価値観が。つまり、本当にすべきことは、事実を尊重する価値観をひたすら人々に刷り込むことだ。今はそんな教育が成されていないことが問題なのだ。だから、ファクトフルネスという書籍が、新しいものとして世界中に驚きを与えているのだろう。

不確実

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、不確実性のマネジメントに関心が強くある。不確実なものを確実にすると言う過程が、創作活動のすべてだと思うようになったからだ。しかも、一人での作業にも、チームでの作業にも当てはまる汎用性がある。不確実性を下げるのに必要なのは、物事をどんどん定めていくことだ。何を作るか、なぜ作るかすら定まっていない状態から、大小様々な意思決定を経て、全てが定まり人の手で触れる状態まで落とし込むのが、創造というプロセスだ。ここで、「意思決定」の話題が出たが、これは「メタとは規則である」「規則とは意思決定の産物である」という、ぼくが最近関心を抱いている事柄に通ずる。…と、一足飛びに結論めいたものを導き出してこの文章を終わらせることもできるのだが、ふとした思いつきで、不確実性について少し違う角度から考えてみたい。というのは、「物事をどんどん定めていく」つまり確定させていくというところから、逆に「不確実≒不確定」という図式が思い浮かび、更には「不確定性原理」まで連想したことから、少し知識遊びをしたくなったのだ。20世紀初頭、科学上3つの発見が人々の価値観を大きく変えた。相対性理論、不確定性原理、不完全性定理である。この3つの原理は、巨視的現象にも、ミクロな現象にも、論理体系にも、どこにも一切「絶対」「確定」「完全」「無矛盾」はあり得ないことを示し、絶対なるものへの信仰を還付なきまでに叩き壊した。ぼくがこれからしようとしているのは、不確実性の源泉をこれらの概念に求めてみるという遊びである。こうした遊びをしてみることで、単に「不確実性のコーンを早期に収束させるには、精度の高い意思決定をいかに速く行うかに掛かっている」などという通り一編の理屈を超えた、更に面白い洞察を期待するものである。とはいえこの文章はだいぶ長くなってしまったので、今日はここまで。続く。

ソフトロジカル

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ここ数ヶ月、心のどこかで常に意識していた概念がある。それは、非論理をも内包する論理は可能か、と言うものだ。ぼくは今「可能だ」と考えている。そして、そんな論理的思考のことをとりあえず「ソフトロジカル」と呼び始めている。ソフトロジカルとは、以下のような事象を積極的に肯定する論理的思考だ。・偶発的な事象
・感情
・(揺れ続ける)価値観
・宗教など、あらゆる非科学的な物事
・反論理的な思考(アートなどに顕著)
・…まとめると、非論理、非科学、反論理、偶然性、相対性、不完全性、不確定性などを積極的に肯定する論理的思考、と言うことになろう。一方、今よりもっとバカだったぼくの若い頃、論理的思考というものは上記のような非論理を排除して考えるものだと思いこんでいた。いわばこれは「ハードロジカル」である。ぼくがハードロジカルな思考だったのは、若い頃エンジニアとして、全てが論理的な記号の中で成り立つプログラムの世界に長く没頭していたせいだろう。しかしそれは、世の中を完全に捉え間違える。非論理を排除して考えることは、世の中を単に理想化し、捻じ曲げて解釈しているだけに過ぎない。