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不確実性のコーン

「見るのとやるのは大違い」という言葉もある通り、実践してみて初めて分かること、実践してみないとわからないことがたくさんある。

不確実性のコーンはそこから発生している。実装に近づけば近づくほど、リスクやコストが具体化し、正確に見積もれるようになる。

しかし、コーンの左側、不確実性が高いときに下された意思決定ほど重要性が高く、やり直しが利きにくい。やり直そうとすると多大なコストが必要になる。そのコストは、プロセスが先に進めば進むほど大きくなる。できることなら、プロセスが先に進む前に、前のプロセスで決定した事項のミスを修正できるようにすべきだ。

では、必要になるのは、以下の3つだ。

1. 早期の意思決定の精度をなるべく高めること。これを行うために、綿密なリサーチなどを行うのも良いだろう。またここでは、経験という要素も馬鹿にならない。全く経験したことのない人々にとっては不確実なことも、経験豊富な人にしてみたら何度となく繰り返されたパターンであるかもしれないのだ。ただ、経験の力を盲信することもまた危険である。その人が経験してきた状況と、今直面している状況は、前提条件が大きく異なるかもしれないからだ。経験者(専門家)の経験を頼るのは、データが揃っていないときに頼る指針として利用し、できるだけ早期にデータを集めることを考えるべきだ。

2. なるべく早く不確実性のコーンを収束させること。実際に「やってみる」まで、リスクやコストが正確に見積もれないのであれば、できるだけ早く「やってみる」べきだ。ただし、具体化に必要とされる手順を省略し、とにかく実践を優先することもまた、効率を損なう。デザインや設計を疎かにしていきなりプログラミングを行っても、本来前のプロセスで必要だった意思決定をプログラマーが全部行う(そして、だいたい意思決定の精度が高くないので、あとから手戻りして修正するハメになる)ことになり、全体としてのコストは増加するばかりだ。必要な手順は省略せず、できるだけ早く実装と運用までこぎつける。そのためには、手順と手順の間の受け渡しを可能な限り効率化しつつ、そもそものターゲットを小さくする。これがアジャイルプロセスの真髄である。

3. 次のプロセスから前のプロセスに適切なフィードバックを返せるようにすること。不確実性のコーンの左側、不確実性が高い状態で、不可逆性の高い意思決定を行わねばならないという困難を乗り越えるには、次のプロセスで判明した前のプロセスのミスをフィードバックできるようにすることだ。
そのために必要なのは、以下の2つをプロセスに組み込むことだ。
一つは、フィードバックのための対話。もう一つは、次の工程からのフィードバックを受けて初めて完成する、という認識だ。
見積りも、そうしたフィードバック行為の一つだろう。前のプロセスで決定したことを、実際に形にするための工数という、非常に重要なフィードバックだ。その工数見積りに従って、上流で行った意思決定に調整を加えていく。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

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注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。