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窮屈

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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窮屈な規則とそうでない規則の間には、どのような違いがあるだろうか?

まず、規則が「窮屈かどうか」を感じるのは、当たり前の話であるが、人間である。人は一様ではない。だから、規則を窮屈と感じるかどうかには、大きく個人差が表れることになる。

個人の感覚とは相対的で、移ろいやすいものだ。「今」より不自由かどうかで、その規則を窮屈に感じるかどうかが決まる。ある規則に馴染んでいたとしても、他のコミュニティがもっと自由だという話を聞けば、途端にその場を窮屈に感じ始めるかもしれない。

規則を守るコストも、非常に重要な要素だ。規則を守るために多くの作業が必要となると、そのコストを支払うことがバカバカしくなってしまい、どんな規則であっても従うことが馬鹿らしくなってしまう。どれほど良い規則であっても、だ。だから、規則に従うコストはできるだけ最小化したほうが良い。システムによる自動化などがその有力な選択肢だ。また、規則に従うための手順を学習するコストも、なるべく減らしたほうが良い。最初にレクチャーをきちんと行う、UXを改善するなど。

更に、メンバーの心理にも配慮したほうが良い。人間は外部から刺激を与えられるとき、「心の準備」ができているかどうかで反応が全く変わる。心の準備ができていないときに刺激を受けると、「驚き」という感情が発生する。その刺激が心地の良いものであれば、その驚きも快いものとなるだろうが、そうでない場合は不快な驚きとなる。忘れていたミーティングの予定を知らされ、作業を中断させられる。いきなりルールの締め付けが厳しくなる。唐突に降格を告げられる、などなど。

心理という面から言うと、規則を厳しくしていくのは、規則を緩めていくことよりずっと難しい。与えられていた自由を奪うことになるからだ。だからといって、どんな規則も最初は厳しく…というガイドラインは、到底受け入れられるものではない。必要なのは、ベストな塩梅のルールを最初から策定しようと試みること、しかしそれでも最初は塩梅を間違えることもあろうから、「ルールは変えうる」ということを成員全員が理解することだ。

また規則の制定者は、往々にして規則をきつく締め付けがちだ。自由を奪うことで、メンバーの動きを予測可能なものとし、全体が効率的に動作することを望む。それは、規則を制定する側が、多くの場合より高い視点、より広い視野を持っているからこそ陥りがちな全体主義の罠である。

営利企業は、容易に全体主義の罠に陥りやすい。組織の効率化を最大化しようと常に強く望むからだ。しかし、そうして成員の自由を奪うことは、結局の所逆効果であることが多い。規則に頼り、コミュニケーションを疎かにすることによる信頼の毀損、意思の伝達性低下、そして離職。こうしたことが繰り返されると、企業文化にとっても取り返しのつかない悪影響を与える。

逆に、人を規則で縛るのではなく、対話を尽くすようにしてはどうか?先ほどとは逆に、信頼のレベルが高く保たれ、意思の伝達が効率的になり、離職リスクが減る。
管理するな、対話せよ。


コメント

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。