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解釈、推量

前回の記事で、ぼくはもう二度と「頭が悪い」という言葉を人に当てはめることはしないと決めた。

ならば、「頭が悪い」という言葉をより詳細に分析し、乱暴なカテゴライズとレッテル貼りを人に対して行わないようにしなくてはならない。

で、ここ数日考えていたことをざっとメモしておく。

「頭が悪い」を仕事の文脈で使う場合、「仕事ができない」という言葉になるだろう。その言葉を無自覚に使った場合、「自分は仕事ができる」という傲慢さを抱え込んでしまうので注意が必要だが、とりあえず今の論理展開上では置いておく。

仕事の能力とは、意思決定スキルと極めて深い関連がある。重要な意思決定を任せられるかどうかが、仕事の能力である。仕事のできない人には、意思決定の必要がないような単純作業しか任せられない。

意思決定には様々なモデルがある。OODAループなどがその例だ。

OODAとは以下の頭文字である。

Observe…データを集める
Orient…データを解釈し、情報へと変換する
Decide…情報を評価検討し、決断を行う
Act…行動する

このうちOrientは非常に重要(ビッグO)で、データに妥当な解釈を与えるだけでなく、足りないデータを推量で補う必要もある。

そしてぼくが発見したのは、ビッグOはコミュニケーション能力とも深い関連があるということだ。他者が発するメッセージに妥当な解釈を与え、言外のメッセージを推量する力が、良質なコミュニケーションを行う上では非常に重要だ。この「解釈」「推量」は、Orientで求められる能力とそのまま対応している。

つまり、「解釈」「推量」は、コミュニケーションにおいても、意思決定においても非常に重要な能力だと言える。この2つを高いレベルで備えているかどうかが、仕事の能力と強く関連していると言っても過言ではあるまい。

では、この「解釈」「推量」の力を高めるにはどうすればよいか?

・バイアスの排除…バイアスは解釈を歪める一番の原因となる
・いろんな立場の経験を積む…人は、経験したことのないことを推し量ることは難しい。逆に言えば、いろんな立場の経験を積みたいと思うような好奇心があるかどうかが重要だと言える

・共感能力…人に共感できる能力は、人の気持ちを推し量る上で役に立つ。ただし、それが強すぎると、それが認知バイアスの原因にもなり得るので、適切な度合いである必要がある

・過信しない…バイアスの排除も正しい推量も、おのずから限界があることを素直に認め、誤った思い込みをしない

ざっとこんなところか。
「解釈」「推量」が仕事(そしてコミュニケーション)の能力で大きな比重を占めることを発見したのは大きな実りである

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虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

アキレスが亀に追いつけない」という逸話で有名なゼノンのパラドックスや、「クレタ人はみな嘘つきである」で有名なエピメニデスのパラドックス、そして先ほどの集合はラッセルのパラドックスから着想した問題らしいが、現実世界では問題にならないことが、思考で捉えようとすると、論理として成立せず、真とも偽とも言えない状態が…