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「頭が悪い」

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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一緒に作業(仕事でも、趣味でも)していると、「?」と思う人がいる。どうしてそんなふうに考えるのか?どうしてその結論に至るのか?どうして理解できないのか?そんな疑問を抱くような人だ。

そういう人を総じて「頭が悪い」と断じてしまう人がいる。ぼくはそれに違和感があった。頭が悪いという言葉は、「知能が低い」という言葉とほぼ同義に聞こえる。が、本当にその人は知能が低いのだろうか?

などと考えるのは、「?」と思うような人でも、ぼくよりはるかに高い知能を持っているのだろうな、という人がよくいるからだ。びっくりするほど勘の鋭い女性とか、すごいプログラミング能力を持っている男性とか。そういう人の知能、知性に感服しながらも、一方で「?」と思っていたりもする、そんな相手を「頭が悪い」の一言で片付けることにはとにかく違和感がある。

とは言え、経営者として採用や人事評価をせねばならなくなった身としては、人を素早く判断するという能力を磨きたい気持ちもある。仕事できるかどうかを素早く正確に判断できるなら、それは企業として大きな強みになる。そこで、人を「頭の良し悪し」で二分する経験を積み重ねて、ひと目でそういう人を見抜く力を得られたならば、これほど心強いことはあるまい。

などと、人を「頭が悪い」と断じることの是非についてあれこれ頭を巡らせていたのだが、今朝、やはりそれはやめておこうという結論が出た。

それは、「頭が悪い」というフレーズに感じていた違和感の正体に気付いたからだ。「頭が悪い」と人のことを断じるのは、単に「自分と同じ考え方をしない」と言っているだけに過ぎないと。

自分と同じ論理展開をしない、自分と同じ結論を出さない、自分と同じ行動を取らない。そういうことがあったとき、人は人のことを「こいつ頭が悪いな」と感じたりする。その裏にあるのは、「自分の考え方が正しい」という傲慢な思い込みだ。そんな思い込みをする人間になってしまったが最後、鼻持ちならない偏狭な、自分と同じ価値観を持つ人間しか認めないような人間へと転がり落ちていくのは火を見るより明らかだ。そんな大失敗は、20代の頃にさんざんしてきた。今更同じ過ちを繰り返すこともあるまい。

ということで、ぼくは「頭が悪い」という表現を一生涯封印する。そう感じることがあったら、もっと深くその人のことを知り、考えるべきというサインだ。先程述べた、経営者として人を選ぶ直感は、そうした事の積み重ねの先にある。

「頭が悪い」だけでなく、人にレッテルを貼る行為全般に気持ち悪さを感じるのも、もしかすると「自分と違う」としか言ってないのを心の何処かで見破っていたせいかも知れない。

コメント

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

符号

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。