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自分

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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きゃりーぱみゅぱみゅの記事を読んでて

https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/kyarypamyupamyu-10

――「いろんなモノや音楽を肯定するのって、自分がない」みたいな意見ってあると思うのですが、きゃりーさんはどうですか?

って質問を読んで、はっと気づいた。そういえば昔ぼくもこんなふうに思っていた。だから、自分のこだわりを捨て去っていくことに、自分がなくなってしまうのではないかという恐怖を感じていたことを思い出した。こだわりや思い込みを捨てる、エポケーするということ自体は、途中から難しくはなくなっていた。難しかったのは、自分を失うかもしれないという恐怖を克服することだった。

今はそんな恐怖は何もない。多くのこだわりを捨て、残ったものはごくわずか。なのに、ぼくはどうやら在る。自分とはいったい、なんだ?

答えは自明のことであるかのように思える。自分とは、私という存在そのものだ。自分というものを定義付ける必要などない。

では何が問題なのか?それは、上の質問文に表れている。
「いろんなものを肯定するのって、『自分がない』」
そう、物事を肯定「できない」ことこそが「個性」であり「自分」だという思い込みが我々にはあるのだ。
自分は自分であって他人ではない。自分と他人を分かつのは、何を肯定し何を否定するか、その価値観である。すべてを肯定する、いわば価値観という物差しを捨てることは、自分を捨てることに等しい。そんな思い込みだ。

実際にいろんなこだわりを捨て、すべてを肯定する自分に近付こうと努力する過程である現在思うのは、そんな心配は杞憂であった、ということだ。

物事を否定するのと同様に、肯定することもまた個性の一つであった。そもそも、そうしてすべてを肯定しようとすることそのものがどうやら今の自分の個性と見なされているようである。

それに、本当にすべてを肯定することなど、どれほど望もうともできはしない。人間である以上、事物に対する根本的な好悪の感情がどうしてもどこかに残る。ぼくにできることは、そうした感情、特に悪感情と向き合い、解きほぐす必要があれば解きほぐし、その必要がなければ、下手に解釈したりせず、そのままの形で置いておくことのみだ(「ぼくはこれが嫌いだ。理由はない」)。

そして、人を他人と違わせるのは価値観のみではない。価値観は、外見、能力、クセ、経験など、数限りないパラメーターの一つに過ぎない。あり得ないことだがもし、あらゆる人が「すべてを肯定する」ように価値観が均質化したとしても、依然として人はそれぞれ個性的であり続けることだろう。

人は、埋没することを恐れる。人と違うか、人より著しく劣っていないか、人の記憶に残ることのできる自分であるか、をいつも気にして生きている。そうした呪縛から、ぼく自身も逃れたとは言い難い。

ただ、そうした呪縛から逃れようと、「埋没してもいいから、すべてを肯定できる自分でいたい」「自分の人生に意味も価値もいらない」「人から忘れ去られることを恐れない」と常日頃から自分に言い聞かせていることが、結果として個性を生んでいるようなのは、人間社会にどうやら普遍的な、皮肉な現象である。すなわち、「求めよ、さらば与えられん」ではなく、「求めよ、そして諦めよ。さらば与えられん」というやつだ。

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両端

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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。