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1月, 2019の投稿を表示しています

反自動化

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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今、業務や個人的なことを徹底的に自動化しようとしているが、しないほうが良いことがあると気付いた。自動化とは、考えなくても良くすることである。考えなくても良いということは、記憶にとどまらなくなる。記憶にとどまらないということは、ルールを守るような自発性も生じない。ルールを守るためのルールは存在しない。ルールを守るのは、いかなる手段を講じたとしても、最終的には人間の自発性なのだ。例え面倒でも、考えたほうがいいこともある。ダイエットがその代表的な例だ。本能の赴くままにしておくと、たくさん食べてしまう。他にも、ヒューリスティックに抗うなどもその例だ。放っておくと、脳は思考をショートカットしようとする。安易なレッテル貼りなどを行ってしまう。こうした例を検討すると、結局「脳の自動化プログラム」に抗うべきところが、反自動化すべきところなのだと思える。自動化すると、脳はすぐに適応し、そこについて考えなくなる。その適応には、ほとんど時間はかからない。2度ほど自動化の恩恵を受ければ、脳はその回路をショートカットしてしまう。このショートカットを起こさせないように、わざと反自動化するのだ。依存症も、ヒューリスティックも、本能も、脳内で自動的に動作するスクリプトだ。しかも、一度インストールされてしまうと、除去は非常に難しい。スクリプトが起動してしまえば、その処理を押し止めるのは至難の業だ。できればインストールしない、インストールしてしまったなら、起動しないような習慣づけ(これにも反自動化が必要)を行うしか方法はあるまい。

解釈、推量

前回の記事で、ぼくはもう二度と「頭が悪い」という言葉を人に当てはめることはしないと決めた。ならば、「頭が悪い」という言葉をより詳細に分析し、乱暴なカテゴライズとレッテル貼りを人に対して行わないようにしなくてはならない。で、ここ数日考えていたことをざっとメモしておく。「頭が悪い」を仕事の文脈で使う場合、「仕事ができない」という言葉になるだろう。その言葉を無自覚に使った場合、「自分は仕事ができる」という傲慢さを抱え込んでしまうので注意が必要だが、とりあえず今の論理展開上では置いておく。仕事の能力とは、意思決定スキルと極めて深い関連がある。重要な意思決定を任せられるかどうかが、仕事の能力である。仕事のできない人には、意思決定の必要がないような単純作業しか任せられない。意思決定には様々なモデルがある。OODAループなどがその例だ。OODAとは以下の頭文字である。Observe…データを集める
Orient…データを解釈し、情報へと変換する
Decide…情報を評価検討し、決断を行う
Act…行動するこのうちOrientは非常に重要(ビッグO)で、データに妥当な解釈を与えるだけでなく、足りないデータを推量で補う必要もある。そしてぼくが発見したのは、ビッグOはコミュニケーション能力とも深い関連があるということだ。他者が発するメッセージに妥当な解釈を与え、言外のメッセージを推量する力が、良質なコミュニケーションを行う上では非常に重要だ。この「解釈」「推量」は、Orientで求められる能力とそのまま対応している。つまり、「解釈」「推量」は、コミュニケーションにおいても、意思決定においても非常に重要な能力だと言える。この2つを高いレベルで備えているかどうかが、仕事の能力と強く関連していると言っても過言ではあるまい。では、この「解釈」「推量」の力を高めるにはどうすればよいか?・バイアスの排除…バイアスは解釈を歪める一番の原因となる
・いろんな立場の経験を積む…人は、経験したことのないことを推し量ることは難しい。逆に言えば、いろんな立場の経験を積みたいと思うような好奇心があるかどうかが重要だと言える・共感能力…人に共感できる能力は、人の気持ちを推し量る上で役に立つ。ただし、それが強すぎると、それが認知バイアスの原因にもなり得るので、適切な度合いである必要がある ・過信しない…バイアスの…

気遣い

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ぼくは、とことん気遣いが苦手だ。もともと人の心を読むのがとても苦手で、大人になってからもずっと、自分以外の他人に、自分と同じような(か弱い)自我があることを信じられていなかったほどだった。加えて、仕事(特にプログラミング)で培った合理的思考がある。直接的にものを作る以外の時間を惜しむあまり、人への気遣いに時間を使うということに価値を感じられなくなってしまっていた。おかげでぼくは今、とても合理的な人間だ。すべてを理内に収めようとする欲求がとても強く、だからこそこうしてひたすら考えている。気遣いという、合理性とは真逆にある概念すらも。ただ、コミュニティのおかげで人と関わるのが好きになれたことで、昔よりはだいぶマシだ。多少だが、気遣いめいた行動も取るようになった。ただ、まだまだ全然足りない。経営者を始めたこともあって、細かな人の感情をすり潰してしまうことも多々ある。その度に深く後悔し、反省し、許しを乞うている。こんなことではいけない。ぼくは、もっと気遣いに人生の時間を割くべきだ。最近ずっとそんな思いをどこかで感じていたが、今日、決心した。ただ、「合理性」という呪いにかかってしまったぼくは、もう逃れられそうもない。だから、合理的に気遣いをしていこう。気遣いをする時間を生み出すため、自分の人生の時間の使い方を徹底的に合理化するのだ。合理的な人間は、短期的な結果を望む。「情けは人のためならず」はいいが、長期的なリターンを見込んで動けるほど忍耐力がない。だから、「気遣いをすることで自分が幸せな気持ちになれる」という結果に喜びを感じるようにしよう。完全な自己満足だから、一瞬で結果が得られる。そこに、相手からの感謝なんかが加わった日には、望外の喜びだ。幸せを得るにも合理性から逃れられない。ひどい宿命だ。だがまあ、文句を言ってもしょうがないから、ひとまず結論も出たことだし、ひとまず受け入れるとしよう。

ビョーキ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、心理的なものに興味がある。ぼく自身、子供の頃から明らかに自閉症スペクトラムの傾向が強く、大人になってからも無感情、コミュニケーションにおける過緊張、想像力の欠如、共感力の欠如などに悩まされてきた(悩んでいるときは自分で気づかないのだが)。それが変わるきっかけになったのは子供が生まれたことと、コミュニティ活動だ。どちらもこの10年の出来事。深くて広い他者との関わりが、前述の欠損を埋めてくれた。発達障害持ちにありがちな極端さから、今では他者を好きになりすぎるほどに振れてしまった。周りの反応を見る限り、これはこれで正常値を外れてしまっているようだが、今のところメリットのほうが大きいので、正すつもりはない。で、心理学などを見るに、どうしても難しく感じるのが診断とラベリングだ。ラベリング(に限らず言語の指示作用)は、物事を「それ」と「それ以外のもの」に分ける働きがある。人の特徴や精神状態に、病名としてのラベリングを行ってしまうことが、差別や濫用という副作用を生むのは如何ともしがたい(この問題に対処すべく、スペクトラム状であることを表すネーミングを行ってはいるが、それとて一般人や当の患者相手にはほとんど功を奏していないように思える)。ただ最近は、ラベリングのメリットにも目が向くようになってきた。適切なラベル(名詞)を与えることで、その対象の存在を喚起し、研究対象とすることができるようになる。
研究対象になれば、対処法も生まれる。対処が難しくとも、少なくとも多くの言語化が行われる。そのテクストを読んで共感や納得することもできる。困ったちゃんの相手をしているとき、そのものズバリのテクストにWebで出会えることの、なんとありがたいことか!そしてなんといっても、優しくなれる。その「人のせい」ではなく「ビョーキのせい」と思うことができ、人そのものを否定せずに済む。ビョーキというラベリングを拒絶していたこともあったが、今ではそのメリットもわかり、適切に付き合いさえすれば有用だということだ(適切に、がなかなか難しいのだが)。また一つ学びを得た。

「頭が悪い」

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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一緒に作業(仕事でも、趣味でも)していると、「?」と思う人がいる。どうしてそんなふうに考えるのか?どうしてその結論に至るのか?どうして理解できないのか?そんな疑問を抱くような人だ。そういう人を総じて「頭が悪い」と断じてしまう人がいる。ぼくはそれに違和感があった。頭が悪いという言葉は、「知能が低い」という言葉とほぼ同義に聞こえる。が、本当にその人は知能が低いのだろうか?などと考えるのは、「?」と思うような人でも、ぼくよりはるかに高い知能を持っているのだろうな、という人がよくいるからだ。びっくりするほど勘の鋭い女性とか、すごいプログラミング能力を持っている男性とか。そういう人の知能、知性に感服しながらも、一方で「?」と思っていたりもする、そんな相手を「頭が悪い」の一言で片付けることにはとにかく違和感がある。とは言え、経営者として採用や人事評価をせねばならなくなった身としては、人を素早く判断するという能力を磨きたい気持ちもある。仕事できるかどうかを素早く正確に判断できるなら、それは企業として大きな強みになる。そこで、人を「頭の良し悪し」で二分する経験を積み重ねて、ひと目でそういう人を見抜く力を得られたならば、これほど心強いことはあるまい。などと、人を「頭が悪い」と断じることの是非についてあれこれ頭を巡らせていたのだが、今朝、やはりそれはやめておこうという結論が出た。それは、「頭が悪い」というフレーズに感じていた違和感の正体に気付いたからだ。「頭が悪い」と人のことを断じるのは、単に「自分と同じ考え方をしない」と言っているだけに過ぎないと。自分と同じ論理展開をしない、自分と同じ結論を出さない、自分と同じ行動を取らない。そういうことがあったとき、人は人のことを「こいつ頭が悪いな」と感じたりする。その裏にあるのは、「自分の考え方が正しい」という傲慢な思い込みだ。そんな思い込みをする人間になってしまったが最後、鼻持ちならない偏狭な、自分と同じ価値観を持つ人間しか認めないような人間へと転がり落ちていくのは火を見るより明らかだ。そんな大失敗は、20代の頃にさんざんしてきた。今更同じ過ちを繰り返すこともあるまい。ということで、ぼくは「頭が悪い」という表現を一生涯封印する。そう感じるこ…

バイアス

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
====話題のFACTFULNESSを読んだ。素晴らしい本である。マクロデータを元に、「世界は良くなっている」というメッセージを伝えようとする。こんなシンプルで楽観的なメッセージ、ついぞ聞いたことがない。この本は、つまりはバイアスとの戦いだ。人間の本能に根ざしたバイアスが、認識をいかに歪めるかを雄弁に語っている。ただし、だ。この本が教えてくれないことが1つある。それは、「バイアスと戦わない方法」だ。この本がいかに売れようとも、いかに読みつがれようとも、人間がバイアスまみれで間違いだらけなのはきっと変わらない。そんな人間相手に、正しい知識を持ったからと言って、一体どうしたら正しく導けるのだ?正しいマクロデータより、心を揺さぶるミクロな事象が共感を集めるという現象と、どう付き合えばいい?ものをよく知っている人の説く事実より、ものをよく知らない人の感情論が、より多くの共感を集めるという現象をどうしたらいい?「知っている人」と「知らない人」の間にある途方もないギャップをどう埋めればいいと言うのだ?1つの解決策は、諦めることだ。もちろん、情報をひた隠すわけではない。だが、正しく理解してもらうことを諦める。些末な情報として扱ってみせるのもいい。相手が好みそうな感情論に翻訳してみせるのもいい。とにかく、正確さは犠牲にする。もう1つの解決策は、根気よく教えることだ。相手が正しく理解するまで、きちんと伝える。これはとても難しく、コストのかかる話だ。だが、もしそれができたならば、大きな効果は期待できる。グーグルは、社内教育でバイアスといかに戦うかを叩き込まれるそうだ。だからこその、あの成長ぶりである。企業活動における現実解は、これらのハイブリッドだろう。まずは、いきなり正確に伝わることは諦めて、感情に訴えかけてでも行動を変えてもらう。それと並行して、バイアスを排した見方を根気よく啓蒙していく。FACTFULNESSの著者は、地球温暖化に関するアル・ゴアからの「ドラマティックな資料づくり」という依頼を断ったそうだ。それが彼の使命だったのだ、それで良い。

不確実性のコーン

「見るのとやるのは大違い」という言葉もある通り、実践してみて初めて分かること、実践してみないとわからないことがたくさんある。

不確実性のコーンはそこから発生している。実装に近づけば近づくほど、リスクやコストが具体化し、正確に見積もれるようになる。

しかし、コーンの左側、不確実性が高いときに下された意思決定ほど重要性が高く、やり直しが利きにくい。やり直そうとすると多大なコストが必要になる。そのコストは、プロセスが先に進めば進むほど大きくなる。できることなら、プロセスが先に進む前に、前のプロセスで決定した事項のミスを修正できるようにすべきだ。

では、必要になるのは、以下の3つだ。

1. 早期の意思決定の精度をなるべく高めること。これを行うために、綿密なリサーチなどを行うのも良いだろう。またここでは、経験という要素も馬鹿にならない。全く経験したことのない人々にとっては不確実なことも、経験豊富な人にしてみたら何度となく繰り返されたパターンであるかもしれないのだ。ただ、経験の力を盲信することもまた危険である。その人が経験してきた状況と、今直面している状況は、前提条件が大きく異なるかもしれないからだ。経験者(専門家)の経験を頼るのは、データが揃っていないときに頼る指針として利用し、できるだけ早期にデータを集めることを考えるべきだ。

2. なるべく早く不確実性のコーンを収束させること。実際に「やってみる」まで、リスクやコストが正確に見積もれないのであれば、できるだけ早く「やってみる」べきだ。ただし、具体化に必要とされる手順を省略し、とにかく実践を優先することもまた、効率を損なう。デザインや設計を疎かにしていきなりプログラミングを行っても、本来前のプロセスで必要だった意思決定をプログラマーが全部行う(そして、だいたい意思決定の精度が高くないので、あとから手戻りして修正するハメになる)ことになり、全体としてのコストは増加するばかりだ。必要な手順は省略せず、できるだけ早く実装と運用までこぎつける。そのためには、手順と手順の間の受け渡しを可能な限り効率化しつつ、そもそものターゲットを小さくする。これがアジャイルプロセスの真髄である。

3. 次のプロセスから前のプロセスに適切なフィードバックを返せるようにすること。不確実性のコーンの左側、不確実性が高い状態で、不可逆性の高い意思決定を行わ…

窮屈

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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窮屈な規則とそうでない規則の間には、どのような違いがあるだろうか?
まず、規則が「窮屈かどうか」を感じるのは、当たり前の話であるが、人間である。人は一様ではない。だから、規則を窮屈と感じるかどうかには、大きく個人差が表れることになる。
個人の感覚とは相対的で、移ろいやすいものだ。「今」より不自由かどうかで、その規則を窮屈に感じるかどうかが決まる。ある規則に馴染んでいたとしても、他のコミュニティがもっと自由だという話を聞けば、途端にその場を窮屈に感じ始めるかもしれない。
規則を守るコストも、非常に重要な要素だ。規則を守るために多くの作業が必要となると、そのコストを支払うことがバカバカしくなってしまい、どんな規則であっても従うことが馬鹿らしくなってしまう。どれほど良い規則であっても、だ。だから、規則に従うコストはできるだけ最小化したほうが良い。システムによる自動化などがその有力な選択肢だ。また、規則に従うための手順を学習するコストも、なるべく減らしたほうが良い。最初にレクチャーをきちんと行う、UXを改善するなど。
更に、メンバーの心理にも配慮したほうが良い。人間は外部から刺激を与えられるとき、「心の準備」ができているかどうかで反応が全く変わる。心の準備ができていないときに刺激を受けると、「驚き」という感情が発生する。その刺激が心地の良いものであれば、その驚きも快いものとなるだろうが、そうでない場合は不快な驚きとなる。忘れていたミーティングの予定を知らされ、作業を中断させられる。いきなりルールの締め付けが厳しくなる。唐突に降格を告げられる、などなど。
心理という面から言うと、規則を厳しくしていくのは、規則を緩めていくことよりずっと難しい。与えられていた自由を奪うことになるからだ。だからといって、どんな規則も最初は厳しく…というガイドラインは、到底受け入れられるものではない。必要なのは、ベストな塩梅のルールを最初から策定しようと試みること、しかしそれでも最初は塩梅を間違えることもあろうから、「ルールは変えうる」ということを成員全員が理解することだ。
また規則の制定者は、往々にして規則をきつく締め付けがちだ。自由を奪うことで、メンバーの動きを予測可能なものとし、全体が効…

自分

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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きゃりーぱみゅぱみゅの記事を読んでてhttps://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/kyarypamyupamyu-10――「いろんなモノや音楽を肯定するのって、自分がない」みたいな意見ってあると思うのですが、きゃりーさんはどうですか?って質問を読んで、はっと気づいた。そういえば昔ぼくもこんなふうに思っていた。だから、自分のこだわりを捨て去っていくことに、自分がなくなってしまうのではないかという恐怖を感じていたことを思い出した。こだわりや思い込みを捨てる、エポケーするということ自体は、途中から難しくはなくなっていた。難しかったのは、自分を失うかもしれないという恐怖を克服することだった。今はそんな恐怖は何もない。多くのこだわりを捨て、残ったものはごくわずか。なのに、ぼくはどうやら在る。自分とはいったい、なんだ?答えは自明のことであるかのように思える。自分とは、私という存在そのものだ。自分というものを定義付ける必要などない。では何が問題なのか?それは、上の質問文に表れている。
「いろんなものを肯定するのって、『自分がない』」
そう、物事を肯定「できない」ことこそが「個性」であり「自分」だという思い込みが我々にはあるのだ。
自分は自分であって他人ではない。自分と他人を分かつのは、何を肯定し何を否定するか、その価値観である。すべてを肯定する、いわば価値観という物差しを捨てることは、自分を捨てることに等しい。そんな思い込みだ。実際にいろんなこだわりを捨て、すべてを肯定する自分に近付こうと努力する過程である現在思うのは、そんな心配は杞憂であった、ということだ。物事を否定するのと同様に、肯定することもまた個性の一つであった。そもそも、そうしてすべてを肯定しようとすることそのものがどうやら今の自分の個性と見なされているようである。それに、本当にすべてを肯定することなど、どれほど望もうともできはしない。人間である以上、事物に対する根本的な好悪の感情がどうしてもどこかに残る。ぼくにできることは、そうした感情、特に悪感情と向き合い、解きほぐす必要があれば解きほぐし、その必要がなければ、下手に解釈したりせず、そのままの形で置いておくことのみだ(「ぼくはこれ…

整え

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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心を整える。最近使っているフレーズだ。人のあらゆる言動は心より生じる。そしてその言動が周りに影響し、自身を中心としてさざなみのように世界を変えていく。「私」はそうした世界を両の目で眺め、解釈し、心に留め置く。つまり、自分がどんな言動を取るかも、世界をどう解釈するかも、ひとえに自分の心次第なのだ。心を変えれば世界が変わる。では、自分の望むことを見据えて、心を変えていくことができれば、世界は自分の望みどおりではないか。少なくとも、自分が発するさざなみと、自分が抱く世界像は、自分の制御化に置くことができる。とはいえ、自分の心を思い通りにするのは、易しいことではない。思い込み、思考のクセ、無意識のバイアスなどにより、思考は容易に硬直する。
自分を取り巻く環境、立場、他人の言動などにより、思考は容易に揺れ動く。だから、意識的に「整える」のだ。何事かに取り組むとき、ひと呼吸置いて、自分の望むことを見据え、そこに向けて一直線に向かえるように、心を方向づける。自分のためと人のためを同時に考え、利己を否定することなく、利他を忘れぬよう。

2019

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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一年の計は元旦にあり、というので、何か練ってみるとしよう。と言っても、今の立場から言うと、当面目標は一つしかない。事業計画を達成することだ。この目標のためには、個人の経営スキルと、企業組織の双方に、加速度的な成長が求められる。一年が過ぎた頃には、全く異なるプロダクト、異なる組織、異なる経済的環境にいることだろう。そしてその過程で、企業のミッションステートメントとして掲げた「関心で世界をつなぐ」、及び事業ミッションである「日本を世界一のIT国家にする」に向けて、大きな進展を経ていようし、そうあらねばならない。つまり、今よりもっと多くの面白いこと、面白い人に囲まれているだろうし、たくさんの人を集められる存在になっているだろうし、IT業界において、個人的にも会社的にも大きなプレゼンスを獲得しているだろう。このように、未来のことについて断定的な口調で語るようになったことは、昨年自分に起きた大きな変化である。一昨年までのぼくは、未来は不確定なものとしか認識しておらず、未来について語ろうとすることすらなかった。今は、未来というものを達成すべき目標として捉えるようになっており、語ることにためらいがなくなった。目標とは、自らが成したいことである。語ることに躊躇いが生じるとすれば、達成不可能な目標の場合のみであるが、それは目標の掲げ方次第でどうとでもなる。あとは、こうした目標を数値として落とし込めるようにならねばならない。そのためには、常日頃から物事を数字で捉えるクセをつけていかねば。そんなクセすら身についていない今は、経営者としてまだまだ未熟すぎる。やるべきことは山積している。