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1月, 2019の投稿を表示しています

不確実性のコーン

「見るのとやるのは大違い」という言葉もある通り、実践してみて初めて分かること、実践してみないとわからないことがたくさんある。

不確実性のコーンはそこから発生している。実装に近づけば近づくほど、リスクやコストが具体化し、正確に見積もれるようになる。

しかし、コーンの左側、不確実性が高いときに下された意思決定ほど重要性が高く、やり直しが利きにくい。やり直そうとすると多大なコストが必要になる。そのコストは、プロセスが先に進めば進むほど大きくなる。できることなら、プロセスが先に進む前に、前のプロセスで決定した事項のミスを修正できるようにすべきだ。

では、必要になるのは、以下の3つだ。

1. 早期の意思決定の精度をなるべく高めること。これを行うために、綿密なリサーチなどを行うのも良いだろう。またここでは、経験という要素も馬鹿にならない。全く経験したことのない人々にとっては不確実なことも、経験豊富な人にしてみたら何度となく繰り返されたパターンであるかもしれないのだ。ただ、経験の力を盲信することもまた危険である。その人が経験してきた状況と、今直面している状況は、前提条件が大きく異なるかもしれないからだ。経験者(専門家)の経験を頼るのは、データが揃っていないときに頼る指針として利用し、できるだけ早期にデータを集めることを考えるべきだ。

2. なるべく早く不確実性のコーンを収束させること。実際に「やってみる」まで、リスクやコストが正確に見積もれないのであれば、できるだけ早く「やってみる」べきだ。ただし、具体化に必要とされる手順を省略し、とにかく実践を優先することもまた、効率を損なう。デザインや設計を疎かにしていきなりプログラミングを行っても、本来前のプロセスで必要だった意思決定をプログラマーが全部行う(そして、だいたい意思決定の精度が高くないので、あとから手戻りして修正するハメになる)ことになり、全体としてのコストは増加するばかりだ。必要な手順は省略せず、できるだけ早く実装と運用までこぎつける。そのためには、手順と手順の間の受け渡しを可能な限り効率化しつつ、そもそものターゲットを小さくする。これがアジャイルプロセスの真髄である。

3. 次のプロセスから前のプロセスに適切なフィードバックを返せるようにすること。不確実性のコーンの左側、不確実性が高い状態で、不可逆性の高い意思決定を行わ…

窮屈

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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窮屈な規則とそうでない規則の間には、どのような違いがあるだろうか?
まず、規則が「窮屈かどうか」を感じるのは、当たり前の話であるが、人間である。人は一様ではない。だから、規則を窮屈と感じるかどうかには、大きく個人差が表れることになる。
個人の感覚とは相対的で、移ろいやすいものだ。「今」より不自由かどうかで、その規則を窮屈に感じるかどうかが決まる。ある規則に馴染んでいたとしても、他のコミュニティがもっと自由だという話を聞けば、途端にその場を窮屈に感じ始めるかもしれない。
規則を守るコストも、非常に重要な要素だ。規則を守るために多くの作業が必要となると、そのコストを支払うことがバカバカしくなってしまい、どんな規則であっても従うことが馬鹿らしくなってしまう。どれほど良い規則であっても、だ。だから、規則に従うコストはできるだけ最小化したほうが良い。システムによる自動化などがその有力な選択肢だ。また、規則に従うための手順を学習するコストも、なるべく減らしたほうが良い。最初にレクチャーをきちんと行う、UXを改善するなど。
更に、メンバーの心理にも配慮したほうが良い。人間は外部から刺激を与えられるとき、「心の準備」ができているかどうかで反応が全く変わる。心の準備ができていないときに刺激を受けると、「驚き」という感情が発生する。その刺激が心地の良いものであれば、その驚きも快いものとなるだろうが、そうでない場合は不快な驚きとなる。忘れていたミーティングの予定を知らされ、作業を中断させられる。いきなりルールの締め付けが厳しくなる。唐突に降格を告げられる、などなど。
心理という面から言うと、規則を厳しくしていくのは、規則を緩めていくことよりずっと難しい。与えられていた自由を奪うことになるからだ。だからといって、どんな規則も最初は厳しく…というガイドラインは、到底受け入れられるものではない。必要なのは、ベストな塩梅のルールを最初から策定しようと試みること、しかしそれでも最初は塩梅を間違えることもあろうから、「ルールは変えうる」ということを成員全員が理解することだ。
また規則の制定者は、往々にして規則をきつく締め付けがちだ。自由を奪うことで、メンバーの動きを予測可能なものとし、全体が効…

自分

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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きゃりーぱみゅぱみゅの記事を読んでてhttps://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/kyarypamyupamyu-10――「いろんなモノや音楽を肯定するのって、自分がない」みたいな意見ってあると思うのですが、きゃりーさんはどうですか?って質問を読んで、はっと気づいた。そういえば昔ぼくもこんなふうに思っていた。だから、自分のこだわりを捨て去っていくことに、自分がなくなってしまうのではないかという恐怖を感じていたことを思い出した。こだわりや思い込みを捨てる、エポケーするということ自体は、途中から難しくはなくなっていた。難しかったのは、自分を失うかもしれないという恐怖を克服することだった。今はそんな恐怖は何もない。多くのこだわりを捨て、残ったものはごくわずか。なのに、ぼくはどうやら在る。自分とはいったい、なんだ?答えは自明のことであるかのように思える。自分とは、私という存在そのものだ。自分というものを定義付ける必要などない。では何が問題なのか?それは、上の質問文に表れている。
「いろんなものを肯定するのって、『自分がない』」
そう、物事を肯定「できない」ことこそが「個性」であり「自分」だという思い込みが我々にはあるのだ。
自分は自分であって他人ではない。自分と他人を分かつのは、何を肯定し何を否定するか、その価値観である。すべてを肯定する、いわば価値観という物差しを捨てることは、自分を捨てることに等しい。そんな思い込みだ。実際にいろんなこだわりを捨て、すべてを肯定する自分に近付こうと努力する過程である現在思うのは、そんな心配は杞憂であった、ということだ。物事を否定するのと同様に、肯定することもまた個性の一つであった。そもそも、そうしてすべてを肯定しようとすることそのものがどうやら今の自分の個性と見なされているようである。それに、本当にすべてを肯定することなど、どれほど望もうともできはしない。人間である以上、事物に対する根本的な好悪の感情がどうしてもどこかに残る。ぼくにできることは、そうした感情、特に悪感情と向き合い、解きほぐす必要があれば解きほぐし、その必要がなければ、下手に解釈したりせず、そのままの形で置いておくことのみだ(「ぼくはこれ…

整え

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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心を整える。最近使っているフレーズだ。人のあらゆる言動は心より生じる。そしてその言動が周りに影響し、自身を中心としてさざなみのように世界を変えていく。「私」はそうした世界を両の目で眺め、解釈し、心に留め置く。つまり、自分がどんな言動を取るかも、世界をどう解釈するかも、ひとえに自分の心次第なのだ。心を変えれば世界が変わる。では、自分の望むことを見据えて、心を変えていくことができれば、世界は自分の望みどおりではないか。少なくとも、自分が発するさざなみと、自分が抱く世界像は、自分の制御化に置くことができる。とはいえ、自分の心を思い通りにするのは、易しいことではない。思い込み、思考のクセ、無意識のバイアスなどにより、思考は容易に硬直する。
自分を取り巻く環境、立場、他人の言動などにより、思考は容易に揺れ動く。だから、意識的に「整える」のだ。何事かに取り組むとき、ひと呼吸置いて、自分の望むことを見据え、そこに向けて一直線に向かえるように、心を方向づける。自分のためと人のためを同時に考え、利己を否定することなく、利他を忘れぬよう。

2019

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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一年の計は元旦にあり、というので、何か練ってみるとしよう。と言っても、今の立場から言うと、当面目標は一つしかない。事業計画を達成することだ。この目標のためには、個人の経営スキルと、企業組織の双方に、加速度的な成長が求められる。一年が過ぎた頃には、全く異なるプロダクト、異なる組織、異なる経済的環境にいることだろう。そしてその過程で、企業のミッションステートメントとして掲げた「関心で世界をつなぐ」、及び事業ミッションである「日本を世界一のIT国家にする」に向けて、大きな進展を経ていようし、そうあらねばならない。つまり、今よりもっと多くの面白いこと、面白い人に囲まれているだろうし、たくさんの人を集められる存在になっているだろうし、IT業界において、個人的にも会社的にも大きなプレゼンスを獲得しているだろう。このように、未来のことについて断定的な口調で語るようになったことは、昨年自分に起きた大きな変化である。一昨年までのぼくは、未来は不確定なものとしか認識しておらず、未来について語ろうとすることすらなかった。今は、未来というものを達成すべき目標として捉えるようになっており、語ることにためらいがなくなった。目標とは、自らが成したいことである。語ることに躊躇いが生じるとすれば、達成不可能な目標の場合のみであるが、それは目標の掲げ方次第でどうとでもなる。あとは、こうした目標を数値として落とし込めるようにならねばならない。そのためには、常日頃から物事を数字で捉えるクセをつけていかねば。そんなクセすら身についていない今は、経営者としてまだまだ未熟すぎる。やるべきことは山積している。