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ミッション

今日はぼくにとって重要な日となった。
個人のミッションステートメントを変更したのだ。

新しいミッションステートメントは「ひとのために生きる」である。

これまでのミッションステートメントは「0から1を、1つでも多く生み出す」であった。2014年、とあるイベントで人前で宣言してしまい、それ以来従事してきたミッションだ。それに従って数多くの物事を生み出してきて、クリエイティブな思考の鍛錬と、多くの人々をつないできた。

しかし数を追う思考になってしまい、集中力の欠如、配慮の欠如、作り手中心の目線、自己中心的な心理、サステナビリティの欠如、家族との時間が減る、などの弊害も生み出してきた。

とはいえ物事はすべて表と裏、トレードオフがあるものだ。弊害があったとしても、それを反省、後悔してミッションを変えるに至ったわけでもない。

ただ、スタートアップ創業者という立場によって集中を余儀なくされ、ミッションを字義通りに追いかけていくことが難しくなったこと、そして何より、ミッション・ステートメントから力を得られなくなっていたことが問題であった。

ミッションとは、自分の行動を一貫させ、意思決定のコストを減らし、物事を迅速に進めるためにある。そうした力を得られないミッション・ステートメントは、かえって弊害にしかならない。実際、ここ最近、謎のストレスと不完全燃焼感に付きまとわれていた。

そうしたとき、自分が最もやる気が出ることに思いを馳せると、「人が喜んでくれるのが嬉しい」というシンプルなことであった。自分の行動や言動で、人が笑顔になってくれることが嬉しい。その笑顔のためなら、自分は限界以上の力を出せる。

だから、「ひとのために生きる」である。

きれいすぎるフレーズなのは自覚している。個人のミッションは、あくまで自分のためのものなので、人にどう思われるかはどうでもいい。

コピーライターとして一つだけ工夫したのは、「ひと」をひらがなで開いたことだ。この「ひと」には、どんな漢字を充てても良い。「他人」でもいいし、「人」でもいいし、「人間」でもいい。

ただ、「ヒトノタメニイキル」というフレーズを耳にしたら、まずは「他人のために生きる」という漢字を想起するだろう。まずはそれでいい。その後、自分を含む「人」のために生きるというのもありだな、とか、「人間」もありだなとか、思い至ればいい。この、「『他人』…

到達点

チームには、点としての目標が必要である。その到達点に向けてただひたすら邁進する。それ以外の物事はすべてムダ。この「点としての目標」の重要性に、今の今まで気づけなかった。OKR本が、3つのKRの設定を許していたこと、それに従っていたことも大きな間違いの元だった。複数の目標があると、チームはブレる。どの目標も達成できなくなってしまう。測定可能な数値目標ただ一点を、遠くの目標に掲げる。そこから沢山のKPIが派生するだろうが、それらはすべて、ただ一つの目標を達成するためだけにある。

白石は、経営者に転職しました

たまには自分の考えをまとめがてら、決意表明がてら、真面目な近況など。
弊社が運営してるテックフィードは、順調にDAUとか伸ばしてるものの、もっともっと勢いが欲しい。

何が足りないのか。考えた挙げ句、一番足りないのはぼくの経営スキルだと気付きました。

これまでエンジニア、ライター、エディター、コミュニティマネージャー、コピーライターなど色々やってきましたが、思えば真面目な会社経営というのは初めての経験。初心者です。

そこを深く反省し、経営に全力を投じられるよう、身辺整理を始めてます。バックオフィス兼秘書を雇い、なるべく開発から自分を遠ざけて、事業計画に時間を割こうとしています。コミュニティマネージャーを卒業するときに「0から1を生み出すことに人生を費やしていく」と、宣言してからもう5年。

「コンセプトメイカー」を名乗り、「関心で世界をつなぐ」という(企業)ミッションを打ち立て、いろんな企画ごとを作りまくった末に自分に足りなかった「経営」というスキルを今、全力で身につけたいと渇望しております。

これで経営もできるようになれば、より多くの、より面白いゼロイチが作れるようになるはず。ぼくに経営の才覚があるかはわかりませんが、精一杯頑張ります☺️
白石は、経営者に転職しました!(今さらですが)

目覚め

昨日、社員が初めて退職するという出来事を経て、1つの目覚めがあった。

経営者としての目覚めだ。

この目覚めを得るまで、非常に時間がかかってしまった。
ぼくに残された時間はあとどれくらいだろう?
間に合うと良いのだが。


詳細を省いて大局でものを考えること従業員に対して、「あなたはかけがえのない人です」というメッセージを伝え続けること。善なる意志を持って事業を組み立て、その最大限の拡大を図ること 最初の2つが今回得た目覚め。3番目はわかっていたつもりだったが、その重要性を再度確認した。
あとは実践あるのみ。全力で邁進するしかない。

「本好きの祭典」東京読書サミット#4を開催します!

今週土曜(7/6)、「東京読書サミット」というイベントを開催します📖

このイベントは今回で4回目。
毎回「本」と「本好きの人々」に囲まれた、幸せな空間を演出しております。
どんなイベントか? 今回で4回目ですので、だんだんイベントの「型」も定まってまいりました。
毎回こんな構成で行っております。

16:00-16:30 受付
16:30-16:35 はじめに
16:35-17:20 トークライブ
17:20-17:50 ビブリオトーナメント(予選)
17:50-18:00 10分間休憩
17:55-18:20 ビブリオトーナメント(決勝)
18:20-18:30 結果発表・写真撮影・終了
18:30-19:30 懇親会

ビブリオトーナメントとは?
ビブリオトーナメントとは、参加者同士をつなぐために考案された東京読書サミットの目玉企画です。

このワークショップでは、まず参加者の皆さまをグループに分けたあと、グループ内で「わたしの大事な一冊」をテーマにプレゼン&ディスカッション。

その後投票を行い、一番「読んでみたい」と思わせる本の紹介をした方は、決勝プレゼンに進むことができます。
(決勝プレゼンと言っても、司会者との対談形式で進めますので、あがり症の方でも安心です)



決勝プレゼン後の投票で一位に選ばれたら、その方と、その方を輩出したグループの皆様にはちょっとした景品を贈呈いたします。
ちょっとしたゲーム要素があるおかげで、会話が盛り上がること、グループのメンバーと仲良くなれることは請け合いです😊
トークライブトークライブは、ゲストが「わたしの大事な一冊」をテーマにして、縦横無尽に語り尽くします。

陳腐

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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「非」言語化の過程について想いを馳せてみる。身体化などとも呼ばれる、いわゆる「身につく」「血肉になる」という過程のことだ。ある概念を獲得した当初は、目新しさや知識を獲得した嬉しさもあって、しょっちゅう口にする。ぼくのようなお調子者は特にそうだ。だがそのうち、口に出さなくなってくる。自分の中で「当たり前」になってくるからだ。改めて口にするまでもない、という感覚が芽生えてくる。例えばぼくは「人生は一度きりだから、やりたいことをやったほうがいい」というようなことを一時期よく言っていた。しかし今は、ほとんど言うことはない。あまりに当たり前で、改めて言葉にすると陳腐に思えて、口にするのが気恥ずかしいような気さえするのだ。この状態が長く続くと、いずれ忘却する。その後待っているのは、一度得た教訓をも忘れた状態か、それとも、教訓が身体化した状態か、だ。もちろん、自分にとって価値のある教訓だったなら、身体化することが望ましい。そのためには、教訓に基づいた実践を繰り返すしかない。

反省

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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反省すべき、時期が来た。そういう時期が来る前は、物事が周りで軋みだす。ぼくの慢心、過信、怠惰などが原因で、周りの色々な人に迷惑がかかり始める。それを気付かせてくれるのは他者、特に妻だ。ぼくがギリギリのところで踏みとどまれているのは、妻の存在に依るところがとても大きい。心の底から感謝している。さあ、明日、反省から始めよう。

笑み

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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今この瞬間にしか書けないことを書く(だからこそあとで見ても意味がわからない、たぶん)。ちゃんと笑っている。ちゃんと無意識に笑みを浮かべている。ぼくの意見を否定されたのに。そのことに気付いたとき、ものすごく嬉しかった。ぼくは今、くだらない自尊心が心のどこにも無かった。目的が達成できるなら自分の意見や存在などどうでもいいと思っていた。そして、人が遠慮ない意見をぼくにくれる、この状況を心から楽しんでいた。40年生きて、ようやくここまで来た。第一歩だ。自分のことを健やかに軽んじることができた。ありがたし。

思い込み

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、落ち込むことがあった。まだ立ち直れてはいないが、その原因を追求すると、そこには過信があった。まだよくわかってもいないことを分かっているかのように錯覚してしまったのだ。こうした過信が、どうして心の中に忍び込んでくるのだろう。そして、その過信を強く諌めようとすると、今度は過度な自信喪失を引き起こしそうになる。先日は、久しぶりに人に対する恐怖感などを覚えていた。まあでも、よく考えればよくあることだ。ぼくはアホだから、昔からすぐに過信してタカをくくり、失敗するタイプ。それを多少なりとも客観視できるようになったことが、昔に比べて多少マシになったところだ。過信に限らず、物事に対して期待値を高く持ちすぎるとか、誤った思い込みは、油断するとすぐに忍び込んでくる。一時期は気を付けてエポケーを心がけていたが、最近は少し怠けていたからかもしれない。気を引き締めねば。

資本主義と存在

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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資本主義は、「人がお金を払ってまで存在を望むもの」とそうでないものに事物を切り分ける。お金が払われないものには、存在は許されない。もちろんこれは非常に単純化したものの見方だ。ただ、マクロな視点で見たとき、この傾向は疑う余地がない。一つ紛れがあるとすると、ウェブという無限の情報空間が、「失われた存在」の保持と発見を容易にしていることである。ウェブがそうした情報をどれくらい保持していられるのか、その耐久度については、人類はまだ知らない。こう考えていくと、世の中に物を存在させているのは人々の関心である。事物は、関心を向けられている時のみ存在する。人々がお金を払うかどうかは、関心のバロメーターである。人が関心を失うと、その事物の存在は過去のものになる。「ある」ではなく「あった」になる。資本主義が物事の生成と消滅を加速させるのは、自由競争のゆえである。どのような市場においても、激しい競争の末生き残れるのはごく一握りのプレーヤーのみで、それ以外は忘れられていく。そうして生き残ったとしても、破壊的イノベーションにより、市場そのものが忘れられていく。存在とは、人々の記憶だとも言える。関心を向けられた対象は、人の記憶に留まれる可能性がある。多くの関心を強く集め続けること、それは存在という本質的に不確かなものを、少しでも確固たるものにしたいという、人間の根源的な欲求に思える。こんな欲求を抱くのはおそらく人間だけだ。なるほど、ハイデガーが人間を「現存在」と呼び表した意味はここにあったか。またこうした欲求こそが、存在に対する執着であり、この執着が人間を苦しめる。この執着を解体しようとするのが、仏教における「空」の思想なのだろう。西洋哲学と東洋哲学は、存在論という根源的なレベルで深くリンクしていると今気付いた。

無知

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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今日は、自分が一番物を知らなくて、一番物分りが悪くて、一番ピントがズレてて、そこに居た皆さんが先生で、ずっと緊張してて…最高に楽しかった。ぼくはなんだか、自分の世界を常に広げ続けていたいタイプらしい。願わくば、死ぬまで世界を広げ続けていたいものだ。自分に価値を求めないことで心の安寧を得ている人間としては、自分の慢心を打ち砕き、自分が一番無知であるような場は本当にありがたい。そんな場では、誰もぼくに特段の関心を払わない。なぜなら、その場で一番無価値な人間だからだ。
もちろんそんな場は居心地が悪い。逃げ出したい。不安だ。疲れる。つらい。
しかし、そんな場で素直に自分の無知を認め、自分よりも遥かに年下の人たちに教えを乞うという体験が、最高に刺激的で、生きていると言う実感さえ得られる。逆に言えば、居心地のいい場所でのんびり構えている時は、半ば死んでいるようなものとすら感じられる。願わくば死ぬまでこういう経験をしていきたいものだ。死ぬほど、生きろ。悪くないコピーじゃないか?

単純化

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近読んだ本にこんな文章があり、なかなか秀逸な表現だと舌を巻いた。> 人間は物事を考えるとき、必ず理想化して単純に考える。
> 単純化することそれ自体が理解したということになるのかもしれない。これは普段「抽象化」という伝わりにくい表現になってしまったり、ホフスタッターがGEBで「同型対応」と呼んだりした概念を、見事にわかりやすく表している。そう、人間が言語を介して物事を理解するのはまさに「単純化」と言って良い。複雑な事象をコンパクトな単語にまとめ、記憶にしまい込むという作業は、まさに単純化以外の何者でもない。「単純化こそ理解の本質」という立場に立つと、「知ってはいるけど理解はしていない」「知りすぎていて、言葉で表せない」と言った現象もすんなり説明できる。前者は「単純化された言葉とその意味は知っているが、その裏にある複雑さに相対していない」という状態。後者は、事象の複雑さに何度も相対して学習し、もはや言語ではない情報で理解(これを「身体化」と呼ぼう)してしまっている状態である。更に考察を進めよう。プログラミングとは、言語化の作業である。物事を単純化し、言語化し、理解し、それをプログラム言語に翻訳する。ここでは、人による「理解」が必要になる。第2次人工知能ブームでの「エキスパートシステム」が失敗に終わったのは、身体化してしまっている知識を言語化しなくてはならなかった、つまり単純化しなくてはならなかったからだ。その単純化の過程で、多くの大事な情報が抜け落ちてしまう。また、言語化のスキルが低い人が事象を単純化すると、誤ったシステムが出来上がってしまう。しかし第3次人工知能ブームでは、ビッグデータと機械学習のおかげで、複雑な事象をそのままアルゴリズムにできてしまう。そのアルゴリズムを人間が理解できないと言うのは、そこには言語化できない知識が大量に含まれているからだ。機械学習により、もしかすると言語化という活動は不要になるのだろうか?「手でプログラミングする」時代は終焉を迎えるのだろうか?
通り一遍のことを言うなら、「機械に代替されないものも残る」と言うのが答えだろう。しかし、それは何なのか?複雑な事象を、言語を介さず学習してしまう機械に対し、言語化という作業に…

ボーダーライン

言葉は境界を作り出す。言葉が指すものと、そうでないものに世界を分割する。時に人は、「そうでないもの」にも名前を付ける。善と悪。真と偽。地上と地下。右翼と左翼。有機物と無機物。などなど。二項対立の誕生である。言葉によって分かたれたあと、概念はその両極に向かって独り歩きを始める。その歩みを進めるのは、人間の意思だ。人間はなぜそんな意思を行うか?まず最初に関心があり、情報を得る。面白いと思えば更に調べ、情報は知識となり、知識は理解となり、理解は身体化して血肉となる。この過程で、人は自分の進む道、獲得しようとしている概念に愛着を抱きがちだ。特定の概念に愛着を抱くことは、反対概念の否定と隣合わせである。多くの場合人は、反対概念の否定という誘惑から逃れられない。だから人は、自分の好む概念を肯定し、愛着し、正当化し、時に信仰する。反対概念については否定し、遠ざけ、時に憎悪する。この「信仰と憎悪」は激しい対立を生み出すことから、戦争をする理由の正当化と世論形成の手段として、為政者によく利用されてきた。言葉が生み出すこうした現象は、古来より問題視され、解消する手段がいくつも提案されてきた。禅、中庸、止揚、エポケー、(キリスト教の)愛…これらのメソッドはそれぞれに説得力を持ちながらも、言語が二項対立を生み出すという「自然な」流れに抗おうとするものであることから、実践できている人はごく少数だ。おまけに、それらのメソッドそのものが言語で語られており、愛着や信仰の対象になりがちであるという、とんでもない矛盾を含んでいる。これらの有用な教えを全人類が真に理解するような日は、未来永劫期待できそうもない。とはいえこうした現象は、言語を獲得した人間の業とも言えるが、極めて豊潤で肯定すべき営みであるとも言える。知的活動は言語なしには成り立たない。混沌とした世界の中にあるパターンを見出し、言葉をあて、記憶し、記録し、他者や次世代に語り継ぐ。その言葉が持つ概念を突き詰める中で、今まで気づかなかった微細なパターンを更に見つけ、細分化していく。世界を限りなく言語で単純化しつつ分類していくこと。それが知的行動の要諦だ。言語の指示作用による世界の分断は、知性とのトレードオフなのだ(とはいえ、言語を持たぬ動物が同種同士で争っているのを考えると、分断や闘争は生物にとってそもそも不可避なのだろうとも思う)。さて、こう…

教える

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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教えることに関心がある人とない人がいる。ちなみにぼくはない方だ。教えるという行為が楽しくないわけではない。ただ、人に教えている時間があったら、もっと自分をどうにかしたいのだ。学んでも学んでも、そこらへんの石ころと同じくらい世間に暗い。本当にそうかはどうでもいい。そう思っていたいのだ。だからぼくは、一生涯人にものを教えることはあるまい。教え始めたとしたら、「人に物をおしえるような何者か」に自分がなったと思い上がってしまったときだろう。最近関わっているアーティストも、教えることには一切関心がない。アーティストとはそういうものかも知れぬ。アーティストは独りよがりでなくてはならぬ。自分だけの表現を突き詰めなければならぬ。自分と似たものを作る人を増やすことも、自分を高めたり創作したりする時間を削ることも、一切関心がない。当然だ。生涯未熟な者、もしくは未熟であり続けんとする者は、人に物を教えることはできぬのだ。

アート

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、アーティストと関わることが少しずつ増えてきた。自然と、アートについて考える機会も増える。ぼくが思うにアートとは、根本的に、自我の発露である。自分が心から表現したいと思ったことを表現すれば、それがアートである。アートとは、根本的に独りよがりなものだ。では、アートでないものとは何か。上の定義に従うなら、「独りよがりでないもの」だろう。だとすればぼくはアーティストではない。他者の関心を惹きつけたい、そればかり考えているからだ。もっと正確に言うと、他者の関心を惹きつけることと、自分のやりたいことを絡み合わせ、止揚することばかり考えている。と、ここで、語ることがなくなってしまったことに気づく。アートとは独りよがりだ、というフレーズが、書き始めるまで思いついていなかったのだが、思いついた瞬間にこのエントリーは終わってしまった。一応確認のために言っておくと、独りよがりというのは褒め言葉である。この世の中で、独りよがりを通し続けることがいかに大変なことか。食えない。理解されない。それどころか、否定される。いや、否定され「続ける」。下手をすると死ぬまで。凄まじすぎる。ある意味、途方もない天才か、途方もない狂人にしか、真のアートはなし得まいとすら思える。そんなぼくが、アーティストにはなりきれないぼくが、アーティストと「コラボする」と言う形でなにかするかも知れぬ。それについてはまた機会を改めて記そう。

つなぐ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ぼくの人生の主要なテーマである「生み出す」ことと「つなぐ」こと、この2つにどんな関係があるのだろう、とふと考えた。1つ前に書いた文章で、ぼくのしていることが「1人でも多くの人生を花開かせること」と接続されたことが、この問いを生み出したようだ。ぼくは誰か他者と繋がって、何かを生み出そうとする。それはなぜか。ぼく1人では生み出せるものに限りがあるからだ。いや、もっと厳密に言おう。激しい生みの苦しみを乗り越えてまで、生み出したいと思えるものが、ぼく1人では限られてしまうからだ。生みの苦しみは、叶えたい願望の大きさに比例する。大きな願望を叶えようとすれば、それはそれだけ大きな生みの苦しみを味わうことになる。その苦しみを乗り越えられるかどうかは、自分がそれをどれほど強く望んでいるか次第だ。それほどの強い願望を、自分が関心を向けるすべてのものに対して抱くことはなかなか難しい。それまでの人生で、何に時間を費やしてきたかが、想いの深さには重要だからだ。だからぼくは、そうした思いを持つ人々と繋がって、彼らの想いをかたちにする手伝いをすることで、大きな価値のある1を生み出したいのだろう。ほら、「繋がる」と「生み出す」がつながった。おそらく、創造という行為は1人ではできないのだ。創造は、必ず他者を必要とする。一緒に作る人、という意味の他者だけではない。1人のアーティストであっても、その作品を見る他者が必要だ。創造という行為は、常に他者の存在を前提としている。だから、創造には繋がりが不可欠なのだ。だから、ぼくは繋がりを作るのだ。

後半

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、知り合いの起業話に付き合っていて、1つ気付いたことがある。ぼくはコンセプトメイキングの手伝いをしているのだが、結局そこでやっているのは、相手のやりたいことやなりたい姿を具現化するお手伝いであるということ。そして、その過程でコピーライティングを行うのだが、それは相手のやりたいことやなりたい姿を言語化するということである。つまり気付いたことというのはこうだ。
ぼくがコピーライティングしているのは、人の人生そのものだ。これが最近、いろんな人に肩書を贈呈してたり、起業するにあたって、その人のやりたいことをヒアリングすることを重視していた理由だった。他人の人生をコピーライティングするなんて、これほどコピーライター冥利に尽きることはない。そして、これほど重要なこともない。ぼくは、「若い頃こんな人に出会いたかった」と思える人になりたいのかもしれない。そうすれば、ぼくの人生はより早く花開いていたかもしれない(ぼく自身の人生は未だ花開いていないが)。0から1を1つでも多く生み出し、1人でも多くの人生を花開かせる。ぼくの人生のミッションに、後半部分のフレーズが、今日書き加わった。

心を開く

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、とても嬉しい変化がある。人が、心を開いてくれがちなのだ。普通だったら初対面の人間には打ち明けなそうなぶっちゃけ話を聞かせてもらえることが多い。そのことに気付いたらつい嬉しくて調子に乗ってしまいそうになるが、一方でそれを強く諌める自分がいる。なぜそこまで強く諌めるのか、と不思議になるくらいに、心の中でブレーキがかかる。その理由を探っているうち、人に心を開いてもらうための「4つのK」を編み出したので、合わせて述べておく。その「4つのK」とは次のようなものだ。・敬意
・肯定
・関心
・開示相手に心から敬意を払うこと。どんな人にも敬意を払うようにするには、余計な価値観を投げ捨て、自分の価値への執着を投げ捨て、相手の長所を尊敬し、短所を愛する姿勢が重要である。肯定すること。あらゆることを無条件で肯定するには、特定の価値観になるべく与しないようにすることが重要だ。関心を抱くこと。好奇心を持つことが重要だ。知らないことに触れ合うことを喜ぶのだ。自ら開示すること。自分の弱みや恥を積極的に開示していく。人間には返報性がある。自分が開示した程度に合わせて、相手も開示してくれるのだ。これらのKを根底で支えているのが、1つ目のKである「敬意」である。 敬意を抱いた相手には、肯定することも、関心を抱くことも、開示することも容易いからだ。そして、この敬意を万人に払える存在でいたいからこそ、ぼくは自分の驕りを諌めていたのである。驕るということは、自分に特別な価値があることを望むことである。「自分に価値がある」などと考えた瞬間、人と自分の価値を比較する思考が生まれてしまい、人に対して純粋な敬意を払いにくくなるからだ。「自分には価値などいらない」「無価値な人生で構わない」という健全な開き直りが、人に純粋な敬意を抱く上で重要と考えるのである。

オルト・ファクトフルネス

ファクトフルネスは、事実を表す「データ」を巡る、人間が犯しがちな過ちを「10個の本能」という形でまとめ上げている。素晴らしいアプローチであり、ユーモアと楽観的なメッセージに溢れた同書籍は、今度イベントを開こうとするぐらいにファンである。ただ、ぼくはエンジニアだ。「10個の本能」のような「列挙型」のアプローチも嫌いではないが、エンジニアの本能として、論理的にMECEだと自信を持てる説明のアプローチがないか探ってしまう。そこで色々探った結果、問題はただ一つだという結論に達した。それは、事実を尊重する価値観である。できるだけ正確なデータの収集、主観を交えない解釈、偏りや恣意的な編集のない情報発信、そうした情報を先入観なく受け入れる情報受信など、全ては突き詰めると「事実を尊重する」価値観次第だと言っていい。しかし先にに述べたすべての過程で、人間は誤りうる。人間の認知能力の限界故か、資金が充分に割り当てられないためか、資本主義が引き起こす衆愚化の故か、それとも「本能」ゆえか。限界を超えるにも、資金を割り当てるにも、衆愚化に抗うにも、本能に抗うにも、意志の力が必要だ。事実を尊重する意志が。思考も行動も事実に基づくべし、とする価値観が。つまり、本当にすべきことは、事実を尊重する価値観をひたすら人々に刷り込むことだ。今はそんな教育が成されていないことが問題なのだ。だから、ファクトフルネスという書籍が、新しいものとして世界中に驚きを与えているのだろう。