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創造と規則

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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規則には様々なものがある。ぼくの中では、何事かを「決める」ことがそのまま規則を生むと思っているので、人は数え切れないほどの規則を、日々生み出していることになる。(例えば「右に曲がる」と決めた瞬間に「私は次に右に曲がらねばならない」という規則を生み、守るも守らないも自分次第という状況であると捉える)

そうした、数多ある規則の中でも、ぼくが特に注目したいのは創造における規則である。ここでいう規則とは、創造における定式化、パターン化、「型」と言ってもよい。

創造における規則は、創造を促進する。創造とは、個人の脳内に表れたイメージを、具体的な形に落とし込むことである。具体化するためには、多くの意思決定が必要になる。ここで「意思決定」という言葉を使ったのは意図的である。先に述べたように「決める」とは規則を生むことである。つまり、創造とは多くの規則を生み出すことを伴う。いや、この文章における規則の定義から言えば、規則を生み出し実践すること、それこそが創造と言ってもよい。

型を定めることは、そうした意思決定の多くを省略できる。だからこそ、創造にかかるコストを大幅に抑え、生産性を向上できるわけだ。

こうした生産性向上は、ソフトウェア開発の現場では日常的に行われている。その例を挙げていく。

フレームワークは、まさにパターンの塊だ。フレームを定めた上で、ベストプラクティスをパターン化し、生産性の向上に大きく寄与してくれる。

一方ライブラリやコンポーネントは、創造的行為に共通する処理をひとまとめにした存在だ。もちろん大幅な生産性の向上をもたらすが、規則やパターン化という観点からすると、少し違う。

再利用という観点から言うと、フレームワークはパターンの再利用を促すが、ライブラリやコンポーネントはひとまとまりの処理の再利用を促す。

パターンの再利用という点では、デザインパターンもその一つだと言えるだろう。

他に重要なのはプログラム言語だ。言語は、まさにその言語を使うときの思考形式を決定する。動的な言語を使っているときはパターンを好まず、静的な言語のときはパターン化を好む、など、根本的な思考(嗜好)様式にすら大きく影響する。

メタプログラミングはどうか?メタプログラミングという用語自体が非常に曖昧であるが、ここでは「プログラムコードを実行時に動的生成する」という意味に限定しよう。

プログラムコードを動的に生成するのだから、生産性は著しく向上する。静的なコード生成も同様の生産性向上をもたらすが、一度生成したコードの修正が困難である。一方、動的なコード生成はそうした制限とも無縁である(ただし、実行時のパフォーマンスに影響する)。

しかし、なんの入力もなしで動的なコードを生成できるわけではない。コード生成に必要な、最小限の情報提供が必要である。そうした情報から、多量のコードを出力可能にするには、入力と出力の間に多数の対応付け、つまり規則が必要になる。要は、この規則の発見こそがメタなのである。より小さな入力から、より大きな出力を得られるような規則を定義することで、生産性の向上は途方もないレベルになる。そうした規則を定義するには、またたくさんのルールを前提としなくてはならないが、そうした基盤を作ることこそアーキテクトの腕の見せ所である。

「創造には多くの意思決定を伴う」「定式化により、そうした意思決定の多くを省略できるため、生産性が大きく向上する」ということを述べてきた。

最後に現代アートについて。現代アートは、そうした「創造における定式化」を破壊する試みだ。先日読んだ「絵画論」という古い書物で、「絵画とは目で見たものを書くこと」という記述があったが、現代に生きる我々は、その前提がとっくに覆されていることを知っている。

人間は、知らず知らずに創造という行為をパターン化し、それを前提と思い込む生き物である。その思い込みに気付き、パターンをいかに鮮やかに破壊してみせるか。そして、その破壊と言う名の創造すらも、パターン化してしまう可能性を無限に秘めており、それが次世代の芸術家による破壊の対象となる。それが現代アートに課された宿命なのである。

コメント

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。