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成長

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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成長という言葉を嫌っていた時期があった。というか、今もまさにこの言葉に対して警戒する自分がいる。

なぜ嫌っていたか。それは、この言葉が肯定的であるからだ。その肯定的なニュアンスが、極めて頻繁に、利己的な意図を隠蔽するために使われるからだ。

「成長」に限らず、肯定的な言葉というのは同様の利用がなされる宿命にある。正義。愛情。平和。真実。などなど。

昔は、ぼくも成長という言葉をただ肯定的にしか捉えていなかった時期もある。成長は良いことだ、と。しかし、自分自身が、その言葉を、自己の利己的な目的のための免罪符として、自身の「正しさ」の根拠として使っているのに気付いてからは、この言葉にすっかり嫌気が差してしまった。

そして、「成長」という言葉の持つ「志向性」も嫌った原因だ。まるでその先にゴールがあるように。そしてそのゴールを目指すことが「正義」であるかのように。やりたいことをやる、というランダムさを好むようになったぼくとしては、この単純な目的意識と正義感が、ニュアンスとして鼻につくようになってしまったのだ。

しかし今日から、成長という言葉を積極的に使っていくこととした。経営のためだ。

最近考察している中で得た定義としては、経営とはルールづくりであるということだ。ルールは、それを作る動機が重要である。ルールは、その動機を形にした一つのインスタンスでしかない。
では、経営のためのルールづくりをしようとするモチベーションは、一体何なのか?

ミッション?いや、営利企業は、社会的なミッションだけでは片手落ちだ。

利益?営利企業だから当然ではあるが、それだけでは片手落ちだ。自身の利益だけを追求するという姿勢は、他者との軋轢を生む。軋轢自体は悪いものではない。しかしそこに、公共善的な意志がなくては、社会に淘汰される存在になってしまう。

こうしたことを考える中で、結局思い至ったのが、「力への意志」である。ニーチェの手によるこの言葉は、人間の行動全てにおける根幹を表す言葉として、あまりに力強く、あまりに的を射ている。力への意志に、理由はない。そして、ミッションも利益も、この力への意志を実現するために必要な要素だ。

ただ、この「力への意志」が、著作(というか遺稿集)の名前としては「権力への意志」とされたように、「力」という言葉には他者をねじ伏せるという否定的なニュアンスがある。「力への意志」を経営の動機であるとは大っぴらには掲げにくい(し、「ねじ伏せたい」という誤解を生むのも嫌だ)。

だから、「成長」である。この文章の前段に述べたことを全て引き受けつつ、敢えて成長という言葉を使っていこうかと思う。「成長への意志」。「力への意志」に比べるとキレが足りないが、誤解を減らすためには致し方ないレベルの妥協か。「成長」という言葉には他者をねじ伏せるというニュアンスがなく、自己目的的であるのがよい。

ここまで書いて、ワンピースの大きなテーマの一つを思い出した。力への意志には、その先がある。「支配」か、「自由」か、である。支配は他者をねじ伏せ、自分の思い通りにするための意志。自由は、自分がやりたいと思ったことを実現したい、という意志。

どちらを得るにも力が必要だ。そしてぼくは、間違いなく自由のために力を欲している。

本当は「自由への意志」を経営の目的に掲げたいところだが、それは「力への意志」よりもさらに伝わりにくくなりそうだ。今は「成長への意志」で留めておこう。

ただ、ルフィが「海賊王」を目標に掲げているのは、絶妙この上ない。「海賊王」という、単純に見える単語でありながら、実は造語であるゆえに、「海賊王とは何か?」という問いに対し、キャラクターそれぞれが答えを探るという構図が素晴らしい。

この「成長への意志」にも、分かりやすい目標とする単語を当てられると良いのだが…「GAFAに並び立つ企業を作る」とでもしようか。

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両端

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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。