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規則

GEBで何度も取り上げられていた事柄であるが、メタ階層とは規則の階層でもある。ゲームに対するルール、社会とルール、言語と文法規則、形式システムと生成規則、etc...

しかし、すでにこのブログでも何度か検討したように、メタ階層とは「意味の階層」でもある。機械語とアセンブリ言語、そして更に上位のC言語やオブジェクト指向言語。DNAと、リボソームがその塩基配列の「意味」を解釈してタンパク質を合成する仕組み。形式システムの記号列に「解釈」を与えることで、記号が意味を持つという構成。

そして、意味が一対一にならないようなメタ階層もある。コンセプトとネーミングはその例だ。名前は、コンセプト全体の情報を保持してはいない。しかし明らかに、名前はコンセプトに対してメタレベルを異にする(どちらのレベルが上か、は重要だがここでは保留)。ネーミングがそういうことだというのであれば、言語という行為は、ものに名前を付けるという行為は、全てこの類だ。シニフィアン・シニフィエの関係そのものがメタレベルを構成する。

規則と意味。これはなんなのだ?違うのか?同じなのか?
規則と意味をつなぐ抽象概念があるはずだ。一体それはなんだ?

そもそも意味とはなんだ?記号を読み取る側が、あらかじめ保持している概念。それが意味というものだ。記号を解釈して意味を読み取るというのは、「自分の知っている概念への翻訳」という作業にほかならない。

そして記号とその概念の間には、シニフィアン・シニフィエというゆるいが強固な規則がある。ここでも規則という単語が出てきた。

となれば、メタとは、おそらく規則の階層なのだ。ここに、記号とその解釈というプロセスが絡み合うことで、ときに意味の階層を成すように見える(というか意味の階層そのもの)こともあるということだ。

そして規則とは、物理的規則のように不変のルールもあれば、人文的な、あるいは社会的な、可変のルールもある。ルールを変えるとき、隣接する階層に大きな影響を与える。

面白い、実に面白い。

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16:00-16:30 受付
16:30-16:35 はじめに
16:35-17:20 トークライブ
17:20-17:50 ビブリオトーナメント(予選)
17:50-18:00 10分間休憩
17:55-18:20 ビブリオトーナメント(決勝)
18:20-18:30 結果発表・写真撮影・終了
18:30-19:30 懇親会

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ビブリオトーナメントとは、参加者同士をつなぐために考案された東京読書サミットの目玉企画です。

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その後投票を行い、一番「読んでみたい」と思わせる本の紹介をした方は、決勝プレゼンに進むことができます。
(決勝プレゼンと言っても、司会者との対談形式で進めますので、あがり症の方でも安心です)



決勝プレゼン後の投票で一位に選ばれたら、その方と、その方を輩出したグループの皆様にはちょっとした景品を贈呈いたします。
ちょっとしたゲーム要素があるおかげで、会話が盛り上がること、グループのメンバーと仲良くなれることは請け合いです😊
トークライブトークライブは、ゲストが「わたしの大事な一冊」をテーマにして、縦横無尽に語り尽くします。

無知

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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今日は、自分が一番物を知らなくて、一番物分りが悪くて、一番ピントがズレてて、そこに居た皆さんが先生で、ずっと緊張してて…最高に楽しかった。ぼくはなんだか、自分の世界を常に広げ続けていたいタイプらしい。願わくば、死ぬまで世界を広げ続けていたいものだ。自分に価値を求めないことで心の安寧を得ている人間としては、自分の慢心を打ち砕き、自分が一番無知であるような場は本当にありがたい。そんな場では、誰もぼくに特段の関心を払わない。なぜなら、その場で一番無価値な人間だからだ。
もちろんそんな場は居心地が悪い。逃げ出したい。不安だ。疲れる。つらい。
しかし、そんな場で素直に自分の無知を認め、自分よりも遥かに年下の人たちに教えを乞うという体験が、最高に刺激的で、生きていると言う実感さえ得られる。逆に言えば、居心地のいい場所でのんびり構えている時は、半ば死んでいるようなものとすら感じられる。願わくば死ぬまでこういう経験をしていきたいものだ。死ぬほど、生きろ。悪くないコピーじゃないか?