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規則

GEBで何度も取り上げられていた事柄であるが、メタ階層とは規則の階層でもある。ゲームに対するルール、社会とルール、言語と文法規則、形式システムと生成規則、etc...

しかし、すでにこのブログでも何度か検討したように、メタ階層とは「意味の階層」でもある。機械語とアセンブリ言語、そして更に上位のC言語やオブジェクト指向言語。DNAと、リボソームがその塩基配列の「意味」を解釈してタンパク質を合成する仕組み。形式システムの記号列に「解釈」を与えることで、記号が意味を持つという構成。

そして、意味が一対一にならないようなメタ階層もある。コンセプトとネーミングはその例だ。名前は、コンセプト全体の情報を保持してはいない。しかし明らかに、名前はコンセプトに対してメタレベルを異にする(どちらのレベルが上か、は重要だがここでは保留)。ネーミングがそういうことだというのであれば、言語という行為は、ものに名前を付けるという行為は、全てこの類だ。シニフィアン・シニフィエの関係そのものがメタレベルを構成する。

規則と意味。これはなんなのだ?違うのか?同じなのか?
規則と意味をつなぐ抽象概念があるはずだ。一体それはなんだ?

そもそも意味とはなんだ?記号を読み取る側が、あらかじめ保持している概念。それが意味というものだ。記号を解釈して意味を読み取るというのは、「自分の知っている概念への翻訳」という作業にほかならない。

そして記号とその概念の間には、シニフィアン・シニフィエというゆるいが強固な規則がある。ここでも規則という単語が出てきた。

となれば、メタとは、おそらく規則の階層なのだ。ここに、記号とその解釈というプロセスが絡み合うことで、ときに意味の階層を成すように見える(というか意味の階層そのもの)こともあるということだ。

そして規則とは、物理的規則のように不変のルールもあれば、人文的な、あるいは社会的な、可変のルールもある。ルールを変えるとき、隣接する階層に大きな影響を与える。

面白い、実に面白い。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

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注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。