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12月, 2018の投稿を表示しています

創造と規則

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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規則には様々なものがある。ぼくの中では、何事かを「決める」ことがそのまま規則を生むと思っているので、人は数え切れないほどの規則を、日々生み出していることになる。(例えば「右に曲がる」と決めた瞬間に「私は次に右に曲がらねばならない」という規則を生み、守るも守らないも自分次第という状況であると捉える)そうした、数多ある規則の中でも、ぼくが特に注目したいのは創造における規則である。ここでいう規則とは、創造における定式化、パターン化、「型」と言ってもよい。創造における規則は、創造を促進する。創造とは、個人の脳内に表れたイメージを、具体的な形に落とし込むことである。具体化するためには、多くの意思決定が必要になる。ここで「意思決定」という言葉を使ったのは意図的である。先に述べたように「決める」とは規則を生むことである。つまり、創造とは多くの規則を生み出すことを伴う。いや、この文章における規則の定義から言えば、規則を生み出し実践すること、それこそが創造と言ってもよい。型を定めることは、そうした意思決定の多くを省略できる。だからこそ、創造にかかるコストを大幅に抑え、生産性を向上できるわけだ。こうした生産性向上は、ソフトウェア開発の現場では日常的に行われている。その例を挙げていく。フレームワークは、まさにパターンの塊だ。フレームを定めた上で、ベストプラクティスをパターン化し、生産性の向上に大きく寄与してくれる。一方ライブラリやコンポーネントは、創造的行為に共通する処理をひとまとめにした存在だ。もちろん大幅な生産性の向上をもたらすが、規則やパターン化という観点からすると、少し違う。再利用という観点から言うと、フレームワークはパターンの再利用を促すが、ライブラリやコンポーネントはひとまとまりの処理の再利用を促す。パターンの再利用という点では、デザインパターンもその一つだと言えるだろう。他に重要なのはプログラム言語だ。言語は、まさにその言語を使うときの思考形式を決定する。動的な言語を使っているときはパターンを好まず、静的な言語のときはパターン化を好む、など、根本的な思考(嗜好)様式にすら大きく影響する。メタプログラミングはどうか?メタプログラミングという用語自体が非常に曖昧であるが、こ…

決定

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは規則である。この着想を得てから数日経つが、今のところぼくの中で反証は見つかっていない。その定義を前提として、様々な思索が広がっている。例えば物事をメタ的に考える、とはどういうことかを考えてみた。少し客観的に物事を考えるだけでも、それはメタ的だと言われることが多い。そもそも考えるとは、もとよりメタ的な行為である。では、メタ的な行為である「考える」と、メタである「規則」の関係はどうなっている?そこには「決める」という行為が深く関わっている。現在の仮説を言うと、「決める」という行為は常にメタレベルを生じさせる。何事かを決めるということは、何らかのルールを生みだすということだからだ。「決める」を「定める」と言い換えてみればわかりやすい。しかしこの仮説は正しいのだろうか?決めるという行為が全てメタレベルを生み出すのであれば、メタは至るところにあることになる。メタを生みだすのはあらゆる決定ではなく、「ルールを決める」という種類の決定だけがメタを生み出すのではないのか?ここは詳細な検討が必要だ。

規則2

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは規則のことである。
長い考察を経て、一旦この定義に辿り着いた。この定義がどれくらいの強度を持つのか、この定義からどのように論理が発展するものか、少しずつ試していきたいと思う。
ゲーデル、エッシャー、バッハにおいて、メタは中心的なテーマであった。が、メタについては数多くの例証はするものの、「メタとは何か?」という問いに遂には答えを出していなかった(そもそも著者の主要な関心は、メタそのものではなく、メタが引き起こす現象そのものだったのだから無理はない)。
そこでは、メタとは規則の階層でもあり、意味の階層であった。そして、この「両面」を多角的に論じることで、知性の謎に迫ろうと言うものであった。なるほど、知性を語ろうとするならば、現象の「解釈」とそこから「意味」を見出す作業を抜きにしては語れまい。
しかし、「メタとは何か」を語る上では、意味はむしろただの副産物と言って良い。極めて重要な副産物ではあるが。
(上の段落の「言い切り」は、ちょっとした冒険である…ぼく自身、まだ「メタとは規則である」という定義を受け入れきれてはいないのだから。これは一旦言い切ってみるとどうなるかの実験である)
例えば、機械語とアセンブリ言語の関係を見るとする。機械語は単なる0と1の羅列でしかなく、CPUは単なる機械語のインタープリタだ。そして、アセンブリ言語は、その機械語と一対一に対応する、人間にとって(幾分)意味の分かりやすい命令セットである。
この関係においては、アセンブリ言語が機械語に対してメタ的な関係であるということができよう。こんな言い方ができる。「無機質な0,1の並びに意味を与えた」と。さらにC言語がアセンブリ言語に対してより直感的なインターフェイスを与えると、より人間にとってプログラムコードの「意味」は明示的となる。こうした意味の階層が、メタレベルそのものだと思ってもおかしくはない。
しかし、意味が単なる副産物だと置き、翻訳規則そのものに注目しよう。つまり、アセンブリ言語も単なる記号でしかなく、機械語とアセンブリ言語、アセンブリ言語とC言語の間には、単に記号間の翻訳規則があるだけだ、と。そして、その規則そのものがメタなのだと。
機械語に対してメタなのは、アセンブリ言語その…

成長

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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成長という言葉を嫌っていた時期があった。というか、今もまさにこの言葉に対して警戒する自分がいる。なぜ嫌っていたか。それは、この言葉が肯定的であるからだ。その肯定的なニュアンスが、極めて頻繁に、利己的な意図を隠蔽するために使われるからだ。「成長」に限らず、肯定的な言葉というのは同様の利用がなされる宿命にある。正義。愛情。平和。真実。などなど。昔は、ぼくも成長という言葉をただ肯定的にしか捉えていなかった時期もある。成長は良いことだ、と。しかし、自分自身が、その言葉を、自己の利己的な目的のための免罪符として、自身の「正しさ」の根拠として使っているのに気付いてからは、この言葉にすっかり嫌気が差してしまった。そして、「成長」という言葉の持つ「志向性」も嫌った原因だ。まるでその先にゴールがあるように。そしてそのゴールを目指すことが「正義」であるかのように。やりたいことをやる、というランダムさを好むようになったぼくとしては、この単純な目的意識と正義感が、ニュアンスとして鼻につくようになってしまったのだ。しかし今日から、成長という言葉を積極的に使っていくこととした。経営のためだ。最近考察している中で得た定義としては、経営とはルールづくりであるということだ。ルールは、それを作る動機が重要である。ルールは、その動機を形にした一つのインスタンスでしかない。
では、経営のためのルールづくりをしようとするモチベーションは、一体何なのか?ミッション?いや、営利企業は、社会的なミッションだけでは片手落ちだ。利益?営利企業だから当然ではあるが、それだけでは片手落ちだ。自身の利益だけを追求するという姿勢は、他者との軋轢を生む。軋轢自体は悪いものではない。しかしそこに、公共善的な意志がなくては、社会に淘汰される存在になってしまう。こうしたことを考える中で、結局思い至ったのが、「力への意志」である。ニーチェの手によるこの言葉は、人間の行動全てにおける根幹を表す言葉として、あまりに力強く、あまりに的を射ている。力への意志に、理由はない。そして、ミッションも利益も、この力への意志を実現するために必要な要素だ。ただ、この「力への意志」が、著作(というか遺稿集)の名前としては「権力への意志」とされたように、…

規則

GEBで何度も取り上げられていた事柄であるが、メタ階層とは規則の階層でもある。ゲームに対するルール、社会とルール、言語と文法規則、形式システムと生成規則、etc...

しかし、すでにこのブログでも何度か検討したように、メタ階層とは「意味の階層」でもある。機械語とアセンブリ言語、そして更に上位のC言語やオブジェクト指向言語。DNAと、リボソームがその塩基配列の「意味」を解釈してタンパク質を合成する仕組み。形式システムの記号列に「解釈」を与えることで、記号が意味を持つという構成。

そして、意味が一対一にならないようなメタ階層もある。コンセプトとネーミングはその例だ。名前は、コンセプト全体の情報を保持してはいない。しかし明らかに、名前はコンセプトに対してメタレベルを異にする(どちらのレベルが上か、は重要だがここでは保留)。ネーミングがそういうことだというのであれば、言語という行為は、ものに名前を付けるという行為は、全てこの類だ。シニフィアン・シニフィエの関係そのものがメタレベルを構成する。

規則と意味。これはなんなのだ?違うのか?同じなのか?
規則と意味をつなぐ抽象概念があるはずだ。一体それはなんだ?

そもそも意味とはなんだ?記号を読み取る側が、あらかじめ保持している概念。それが意味というものだ。記号を解釈して意味を読み取るというのは、「自分の知っている概念への翻訳」という作業にほかならない。

そして記号とその概念の間には、シニフィアン・シニフィエというゆるいが強固な規則がある。ここでも規則という単語が出てきた。

となれば、メタとは、おそらく規則の階層なのだ。ここに、記号とその解釈というプロセスが絡み合うことで、ときに意味の階層を成すように見える(というか意味の階層そのもの)こともあるということだ。

そして規則とは、物理的規則のように不変のルールもあれば、人文的な、あるいは社会的な、可変のルールもある。ルールを変えるとき、隣接する階層に大きな影響を与える。

面白い、実に面白い。

対義語

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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先日若い人たちと哲学的な対話をする機会があった。年寄りのぼくには自明なことも、若い人たちには新鮮なことも多いようで、途中でメモを取られたり、ハッとしたような表情をしていたこともあり、逆にこちらからしても新鮮な気持ちを味合わせてもらった。 その中でも印象的だったのは、物事を余すところなく説明するために対義語を用いたときに、新たな気付きだと捉えられていたことだ。
例えば「不自由があるから自由がある」、「自由を束縛するのは2つしかない、『自分か他者か』だ」「無があるから有があり、死があるから生がある」と言った具合だ。
そもそも言語は物事を2つに切り分ける。それが指すものと、指さないものだ。だから、上のような論を展開するのはしごく簡単なことなのだ。それでいて、絶対にMESEになるので強力な論理展開も可能になる。

留め

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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日々に忙殺され、感じたことや思ったことが、すぐに流されていってしまう。
昔はそれでいいと思っていた。そんな中でも、残ったものが本当に大事なものなのだと。

今もその思いはそれほど変わるところでもないのだが、それだと結局、日々の思考の大半を占める事柄 - 多くは仕事に起因する論理的なこと - ばかりが記憶に残り、感情的なこと、些細なこと、形を成していない思いなどがどんどん忘れ去られてしまう。

そうしたよしなしごとを書き留めておく時間も、今は大事なのだと思うようになった。そんなことに時間を使うのを無駄に近く思う自分もいる、その一方で。

一度書き留めておくことで、些細なことや感情的なことを一度は記憶から呼び覚まし、反芻する。それが「自分」というとりとめもない、ふわふわしたものに少しずつ影響していく。今ではそれを疑うものではない。

なので、ここでは今この瞬間に思い出し、感じていることを率直に書く。論理もなく。恥も外聞もなく。見栄もなく。照れもなく。矛盾も恐れず。後の心変わりも恐れず。

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愛は大事だ。それも、見返りを求めない愛が。キリストが「無償の愛」を説いたのも、今この瞬間ならわかる。

人を愛おしく思う気持ち、そこから相手を大切にしようと思う気持ちが生まれ、とことん相手の立場に立とうという気持ちにつながる。そうして得られるコミュニケーションは非常に良質で、他者と心が繋がった感覚は何ものにも代えがたい幸福感をもたらす。

ここで見返りを求めてしまうと、エゴが生じる。自分の愛情に応えてほしい、という欲望が生まれる。それはつまり、他者が自分の意に沿うことを望むことだ。そして、絶対に他者は自分の意に沿う存在になったりはしない。だから苦しみが生まれる。怒りが生まれる。意志のすれ違いが生まれ、幸福から遠ざかってしまう。

そういうことなのだ。

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以前つらかったことを思い出すと、最近なぜか微笑んでやまない。その当時は、つらい、死にたい、身を引きちぎられるような思いを感じていた出来事の数々。

微笑めるということは、きっと昇華したんだろう。それらは自分の内面に取り込まれて、ぼくの一部となったのだろう。

でも、なぜ微笑みが漏れるのかがわからない。そうした心の働き、自分の内面に潜む不思…