人間という存在を特徴づけているものは、創造という行為であろう。ぼくも、創造という行為には特に思い入れがある。この一度きりの人生において、一つでも多くのものを生み出していくことをミッションと考えているからだ。
さて、最近考えているメタ的な問題においても、創造という行為が非常に特異的であることに気づいた。
いくつもの創造をしてきた身だからわかるが、創造における中心的な行為は名を生み出すことである。
ソシュールの、シニフィアンとシニフィエの構図で説明できるとおり、言語とそれが指すものの関係は恣意的なものである。名を生み出すとき、先に「指すもの」があって、それを表す名を生み出すこともあれば、先に名があって、それが指すものを後付けすることもある。多くの場合、指示するものとされるものは、名と体は、行ったり来たりしながら物事を形作っていく。
ただ、名は一度決まってしまうとほぼ変えられない。名前を変えるということは、違うものになってしまうことだ、と人間は感じる。これはよく考えると面白い。名とは、体を指し示すだけの機能を持つ記号のはずである。なのに、体を変えずに名が変わるだけで、人は同一視ができなくなってしまうのである。
更に面白いことがある。同じ名前でイベントを何度もやっていたりすると、名を変えずに内容をチューニングしていくことはよくある。時に大きな変更を、名前だけ同じで中身を総取り替えなんてこともある。そうしたときに決まって行うのは、「○○とは何か」(○○には名前が入る)を問うことだ。メタレベルを呼び起こすキーワード「とは何か」がここで出現するわけである。
創造的行為を行っていると、名前はメタレベルで言うと最上位に位置するものであると感じることが多い。名は体を表すの言葉通り、名は現象すべての最上位に位置して、その現象とそうでないものを分かつ役割を果たすからだ。
しかし、存在している名に対して「とは何か」を問うことは、「その名をどう解釈するか」という、名に対して上位のメタレベルを発生させていることになる。(前回から試みている、「メタレベルとは意味の階層である」の仮説に基づけば)
シニフィアンとシニフィエは、メタレベル的にどちらが上でどちらが下なのか?
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