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メタ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を読み、メタとは何なのか、更に深く考えたい気持ちになった。

同書は、メタということについて様々な角度からこれでもかというくらい、メタについて述べている。が、何か欠けていると感じる。例証と分析は余すところなく行われているのだが、メタをテクニックとして実生活に活用するような、実践的な知識に欠けている気がする。

そこで、どうせまとめきれないと割り切りつつ、実践的なメタについてあれこれ考えてみる。自分用のメモなので、一切の補足説明は行わない。

まずメタで思いつくのが、物事の共通点を見つけるという行為である。これは、オブジェクト志向言語における親クラスやインターフェースを見つけ、定義することにそのまま対応する。
では、共通のユーティリティを作ることはどうだろうか?メタ的と言えるだろうか?いや、言えなそうだ。この違いは?

全く異なる事象に同型対応を見出す行為は?アナロジーと呼ばれる。アナロジーはメタであるか?GEBによれば、YES。アナロジーが成り立つところ、それはすべてメタ化が可能であり、それはすなわち共通のインターフェースを定義できることになる。細胞によるタンパク質合成処理と、ゲーデル数化の間に、共通のインターフェースは定義可能である!

メタとは「解釈」という行為に大きく依存しており、だからこそフレーミングが問題となる。解釈あるところには「意味」がある。同じ記号に対して、異なる解釈を行って異なる意味を充てることもできる。多段階の解釈により、メタレベルを積み重ねることもできる。コンピューター上で、数値を文字として解釈し、扱うことができるように。

解釈とは、ルールを伴うものである。だからメタとルールは切り離せない。そこで問題になるのは、ルールを守るべきルールはない、という鉄則である。合理的なルールの積み重ねを紐解いていくと、非合理的な、不可壊なレベルが残らざるを得ない。それは、法治国家が法を強制するために、理外の暴力(警察力、刑罰)に頼らざるを得ないことと全く同型である。

メタ化は問題解決の手段として取り上げられることも多い。なぜか?原因を辿っていくというプロセスが、メタ化と近いのか?

しかし、そこには違いがあるのは間違いない。単に帰納的であることと、メタなレベルを認識することは、大きく違うはずだ。後者には、何らかの飛躍を伴う感じがする。

この文章を書いている行為、そもそもこれは何だろうか?「メタとは何か」という問いに答えを出そうとしていると言えよう。そのために、とりあえず思いつくことを片っ端から列挙している。これは、問題解決を行う上で常に有効な行為だ。なぜ有効なのだろう?

ここで即、メタレベルの認識や同型対応の発見、と見なせれば話は簡単なのだが、そうでもなさそうだ。事象を列挙したあとに行っているのは、まず「見直し」だ。その問題領域で使われている用語をまずは確認している。そしてその後、カテゴライズを行う。
カテゴライズのあとは?そこから、それぞれのカテゴリから帰納的に原因を探るだろう…抽象度が上がるのならメタだが、そうでないのならただの「原因追求」だ。

メタレベルでの操作は、確かに全体論的な論点を生ずる。意味のレベルが一つ上がっているからだ。

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しかし、そんな場で素直に自分の無知を認め、自分よりも遥かに年下の人たちに教えを乞うという体験が、最高に刺激的で、生きていると言う実感さえ得られる。逆に言えば、居心地のいい場所でのんびり構えている時は、半ば死んでいるようなものとすら感じられる。願わくば死ぬまでこういう経験をしていきたいものだ。死ぬほど、生きろ。悪くないコピーじゃないか?