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メタとは何か

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは何か、という問いに、ここ数週間取り組んでいる。もちろんこれは、ゲーデル、エッシャー、バッハ(GEB)の影響であるが、今取り組んでいる様々な問題においても、メタという概念を正確に掴んでおくことが有用だと考えるからである。

まずは直感を用いて、いくつか答えに近そうな概念を提示してみる。

メタとは恐らく、人間の思考にのみ存在するものだ。GEBでは自然科学の例を数多く提示して、メタ的な分析とその破れ(もつれ)について検討しているが、そもそも自然が自然に成していることを人間的な思考様式で捉えることそのものが、メタ的な問題を見せかけで生じさせているように思える。自然は、自身に何の矛盾も感じてはいないはずだ。

ではなぜ、思考はメタ的な問題を生じさせてしまうのか?そもそも、なぜメタレベルの階層構造として物事を捉えてしまうのか?

おそらくそれは言語によるものだろう。

まずは具体的な現象が言語で示されるようになる。例えば「人間」「芸術」「スポーツ」「細胞」などだ。

それらの単語に対して、人間の思考は「とは何か」と問うことができる。「とは何か」は、メタレベルの階層を呼び起こすキーワードだ。

この問いに対しては、様々なアプローチで答えを探ることになる。例えば「人間とは何か」と言う問いは、極めて哲学的な問いとして受け止められ、百花繚乱の答えを呼び起こしそうである。一方「細胞とは何か」とは、科学的なアプローチを引き起こしそうである。微細な観察により、多数の生物の細胞の内部構造を探るなどして、多くの生物の細胞の共通点を探り、「細胞とそうでないもの」の境界を探ろうとするだろう。

つまり「とは何か」という問いは、その言葉が指すものとそうでないものに境界線を引こうという試みに他ならない。それはすなわち、言葉の意味を明確化し、厳密化しようとする行為だ。

その行為には、まずその言葉が指すものを「細かく観察する」という作業と「列挙する」という作業が不可欠である。曖昧模糊としたままでは、境界線を引くことはできない。だから徹底的に観察し、言語化する。そして、その言葉が指すものとそうでないものの間に境界線を引くには、似たものを寄せ集めて、その共通点を抽出し、その共通点の有無で集合を分けることになる。

この「分ける」と「共通点の抽出」が、メタレベルを発生させるのだ。分けることで下の階層を。抽出することで上の階層を。

(続く)

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両端

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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった