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哲学

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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哲学的なものに魅せられてから10年近くになろうか。一時期のように哲学書を読み漁ることもなくなり、一時期は「自分の中での哲学は終わった」とすら思っていたが、一つだけ答えの出ていない問いがあった。

それは、「哲学とは何か?」という問いである。

この問いに、決まった一つの解答があるとは思えない。答えはこの問いに向き合った人の数ぶんあるだろう。そんな、「自分なりの答え」が求められる問いではあるが、この問いにぼくはずっと答えを出せていなかったのである。

だが、ここ最近(ブログの更新が捗っていることからも分かるとおり)また内省を活発に行っていて、その中でふと、この問いに自分なりの答えを出すことができた。

その答えとは

「哲学とは、『とは何か』という問いから逃げないことである」

というものだ。

この世には、考えるのが面倒な事柄がたくさんある。そうした問題に興味を持ち、考え、調べ、答えを出すというのには膨大な時間を要する。あらゆる問題に関心を持ち、答えを探るというのは、一人の人間の一生ではとても時間が足りない。

だから、どんな問いに関心を持ち、どんな問いに向き合うかどうかは、その人の生き方そのものを決定付けると言ってもいい。

ただ、問いについて考えるのはとても面倒だ。ましては自分で問いを立てるなど。だから、問いから逃げたり、他者が出した答えを鵜呑みにするのも、その人の人生だ。

ただ私は、問いから逃げない存在でいたい。関心を持った出来事には深くハマり、疑問を抱き、答えを探り、そのうち多くの人が向き合っていない問いにたどり着いてしまい、どこを調べても納得できる答えがなく、しょうがなく自分で考え、その思考の過程で様々な情報や人に出会い、吸収して、何年経とうとも答えを出すことをあきらめない。

私は、そんな哲学者でありたい。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。