注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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赦しという行為が、人の思考に与える影響に想いを馳せている。
我々は容易に自分を赦さないように考えて生きている。駄目な自分を赦してばかりではろくな人生を歩めないと、脳に刻まれているからだ。
だから実は、自分で自分に適切な赦しを与えるというのは、とても難しいことだ。自分を甘やかすのではなく、肯定する。これは、責任感が強く、経験から学ぼうとする態度が強く、他者ではなく自分を変えるという態度が身についている人ほど、難しい。そして、大人は誰もがそうした態度(変わるべきは自分)を身につけようと努力する。だから、自分を赦すのはどんどん困難になる。
自分をうまく赦せないとどうなるか?本来感じて然るべき負の感情を抑え込んでしまうのだ。怒る。悲しむ。憎む。恨む。妬む。ぼくらはそんな感情を人に抱くことに罪深さを覚えるようになってしまっている。だから、そうした感情が芽生えると、抑え込み、捻じ曲げ、忘れようとする。そうして抑え込んだ感情は、長い期間、下手すると死ぬ間際まで、その人を知らずに苛む可能性だってある。
これではいけない。
現実はいつだって、そのまま受け入れるべきなのだ。自分が負の感情を抱いてしまうことすらも。まずは受け入れて、負の感情一色になりそうな中にも、やはりそこまで染まりきれない自分を発見する。そんな自分を少し好ましく、愛おしくさえ思う。そうやって、複数の自分を融け合わせ、和解させ、時間をかけて統合していく。そうあるべきなのだ。
正直に言うとぼくは、「変えるべきは自分」という思考にこだわり、何かあるとすぐに思考様式や行動の劇的な変化を自分に求める人間だった。人間、いつでもそんなにうまく行くもんじゃない。変化には、ときに時間と優しさが必要だ。そんなことをこの年になってようやく学ぼうとしている。
そして、自分を赦すのが下手なたくさんの人々に、「まずはぼくがあなたを肯定する」という人間になりたい。ぼくは生来「優しさ」という機能が欠けている。それは自覚している。ぼくは欠陥人間だ。
そんなぼくが傷付けたたくさんの人々への罪滅ぼしのためにも。こんなぼくを赦してくれるたくさんの人々への感謝を込めて。
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