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関心の抑制

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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関心を抑制することは可能だろうか?
例えば好きになってはいけない人を好きになりそうだとか、手を出してしまったら膨大にお金が必要になりそうな趣味(沼)だとか、果ては違法薬物だとか、リスクを伴うことに関心が向きそうなとき、それを抑制することは可能なのだろうか?

結論から言うと、無理だと思う。関心という現象は、感情や欲望に根ざすところが大きい。うつ状態になると、無感動と無関心、そして無欲が同時に発生するのはそのためだ。
何にも感動しない「不感症」(ぼくは少年時代そういう人間であった)であれば、そもそも何に対する関心も沸かずに済むだろうが、そこは目指すところとは違う。

感情も関心も(ついでに欲も)豊かなまま、リスクを伴う物事に関心を抱かないようにするには、方法は一つしかない。「近付かない」ことだ。まさに「君子危うきに近寄らず」である。

では、危うきに近付かないためにはどうしたらいいのか?

知らないままでいる、というのもいい。リスクを感じ取ったらそれ以上深入りしない。

ただ、知ってしまったらどうするか?

まず、関心を覚えてしまう前に恐怖を植え付けるのは有効だろう。禁止薬物への対処などがその典型だ。情報を隠してしまうのではなく、そのネガティブ面を積極的に発信し、「怖いから近付かない」という意識を醸成する。

ただ、そうもいかない場合は?
関心が自然と向いてしまうのを止められない場合は?
むしろ、関心を抱いてはいけないと知りつつも、一方でそれを望んでいるような、アンビバレントな感情に支配されてしまっている場合は…?

正直、「痛い目を見る」しか、処方が思いつかない。なんという結論だ。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

符号

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。