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11月, 2018の投稿を表示しています

創造2

創造に伴うメタ的な問題に関する考察の続き。創造における最も困難で、創発的な行為の一つにネーミングがあり、名と体は相互に影響し合いながら、創造物のクオリティが向上していく。ここで、名と体にメタな関係は成り立つのか?コピーライティングしているときは、名を生み出す行為がメタ的に上位に感じられているのだが、一度名が決まると、今度はその名をどう解釈するかという、体が名に対してメタ的に上位に振る舞い始める(ように見える)。この現象をどう説明するか?すぐさま答えが出る問題でもなさそうなので、思いつくままに寄り道しながら考えよう。一つ気づいたこととしては、名と体は決して同じ情報量を有してはいないということだ。名を生み出す際、何を考えるかというと、体のすべてを表したくとも短い言葉では表せないので、最も特徴を捉え、最も人の心に響き、記憶に残る名前を選びとろうとする。言ってみればこれは情報の不可逆圧縮だ。GEBで示されていた例の多くは、単純なインタープリターであり、情報量に違いがなかったように思う。遺伝暗号を解釈するリボソーム然り、ゲーデル数然り。不可逆に圧縮され、情報の多くが失われるからこそ、様々な解釈が可能になるという現象と、メタ的な問題との関係はどうなっているのだろう?また、忘れないうちに書いておくと、そもそも創造という観点からメタについて語ろうと思った動機は2つある。
1つは、ぼくがこの思索を通じて、創造的行為をよりうまく行えるようになりたいことを
もう1つは、創造という行為が、「メタ情報の生成、操作」を伴っているように思うからだ。メタ情報を自在に生み出し操ること、これこそが創造的行為の本質であり、人間にしか成しえないことのように思える(AIに人間存在を脅かされている今、この仮定もいささか心もとないが)。

創造

人間という存在を特徴づけているものは、創造という行為であろう。ぼくも、創造という行為には特に思い入れがある。この一度きりの人生において、一つでも多くのものを生み出していくことをミッションと考えているからだ。さて、最近考えているメタ的な問題においても、創造という行為が非常に特異的であることに気づいた。いくつもの創造をしてきた身だからわかるが、創造における中心的な行為は名を生み出すことである。ソシュールの、シニフィアンとシニフィエの構図で説明できるとおり、言語とそれが指すものの関係は恣意的なものである。名を生み出すとき、先に「指すもの」があって、それを表す名を生み出すこともあれば、先に名があって、それが指すものを後付けすることもある。多くの場合、指示するものとされるものは、名と体は、行ったり来たりしながら物事を形作っていく。ただ、名は一度決まってしまうとほぼ変えられない。名前を変えるということは、違うものになってしまうことだ、と人間は感じる。これはよく考えると面白い。名とは、体を指し示すだけの機能を持つ記号のはずである。なのに、体を変えずに名が変わるだけで、人は同一視ができなくなってしまうのである。更に面白いことがある。同じ名前でイベントを何度もやっていたりすると、名を変えずに内容をチューニングしていくことはよくある。時に大きな変更を、名前だけ同じで中身を総取り替えなんてこともある。そうしたときに決まって行うのは、「○○とは何か」(○○には名前が入る)を問うことだ。メタレベルを呼び起こすキーワード「とは何か」がここで出現するわけである。創造的行為を行っていると、名前はメタレベルで言うと最上位に位置するものであると感じることが多い。名は体を表すの言葉通り、名は現象すべての最上位に位置して、その現象とそうでないものを分かつ役割を果たすからだ。しかし、存在している名に対して「とは何か」を問うことは、「その名をどう解釈するか」という、名に対して上位のメタレベルを発生させていることになる。(前回から試みている、「メタレベルとは意味の階層である」の仮説に基づけば)シニフィアンとシニフィエは、メタレベル的にどちらが上でどちらが下なのか?

インタープリター

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは何か、についてまだまだ考えている。とりあえず今のところは、メタレベルとは「意味の階層」ではないかと仮定することにした。しばらくこの仮定のもとに考えを巡らせてみる。なぜGEBがあれほど様々な話題を取り扱ったか?それは、「解釈する」という行為が至るところにあるからだ。それこそ、細胞内のリボソームにもDNAの塩基配列を解釈し、タンパク質合成を行う機能がある。この「解釈して実行する」というインタープリター的な機能が、下位レベルの事象に意味的な上位階層を作り上げ、メタレベルを構成する。しかし、「解釈する」という現象に知性を感じてしまうのはなぜだろう?リボソームに知性を感じる。タンパク質合成システムをハックするT4ファージにも、途方もない知性を感じる。意味を扱う、ということが知性の重要なファクターであることは間違いなく、それはあまねく生物が備えているものであるのかもしれない。知性は万物に宿る。

メタとは何か

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは何か、という問いに、ここ数週間取り組んでいる。もちろんこれは、ゲーデル、エッシャー、バッハ(GEB)の影響であるが、今取り組んでいる様々な問題においても、メタという概念を正確に掴んでおくことが有用だと考えるからである。まずは直感を用いて、いくつか答えに近そうな概念を提示してみる。メタとは恐らく、人間の思考にのみ存在するものだ。GEBでは自然科学の例を数多く提示して、メタ的な分析とその破れ(もつれ)について検討しているが、そもそも自然が自然に成していることを人間的な思考様式で捉えることそのものが、メタ的な問題を見せかけで生じさせているように思える。自然は、自身に何の矛盾も感じてはいないはずだ。ではなぜ、思考はメタ的な問題を生じさせてしまうのか?そもそも、なぜメタレベルの階層構造として物事を捉えてしまうのか?おそらくそれは言語によるものだろう。まずは具体的な現象が言語で示されるようになる。例えば「人間」「芸術」「スポーツ」「細胞」などだ。それらの単語に対して、人間の思考は「とは何か」と問うことができる。「とは何か」は、メタレベルの階層を呼び起こすキーワードだ。この問いに対しては、様々なアプローチで答えを探ることになる。例えば「人間とは何か」と言う問いは、極めて哲学的な問いとして受け止められ、百花繚乱の答えを呼び起こしそうである。一方「細胞とは何か」とは、科学的なアプローチを引き起こしそうである。微細な観察により、多数の生物の細胞の内部構造を探るなどして、多くの生物の細胞の共通点を探り、「細胞とそうでないもの」の境界を探ろうとするだろう。つまり「とは何か」という問いは、その言葉が指すものとそうでないものに境界線を引こうという試みに他ならない。それはすなわち、言葉の意味を明確化し、厳密化しようとする行為だ。その行為には、まずその言葉が指すものを「細かく観察する」という作業と「列挙する」という作業が不可欠である。曖昧模糊としたままでは、境界線を引くことはできない。だから徹底的に観察し、言語化する。そして、その言葉が指すものとそうでないものの間に境界線を引くには、似たものを寄せ集めて、その共通点を抽出し、その共通点の有無で集合を分けることになる。この「分ける」と「共…

赦し

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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赦しという行為が、人の思考に与える影響に想いを馳せている。我々は容易に自分を赦さないように考えて生きている。駄目な自分を赦してばかりではろくな人生を歩めないと、脳に刻まれているからだ。だから実は、自分で自分に適切な赦しを与えるというのは、とても難しいことだ。自分を甘やかすのではなく、肯定する。これは、責任感が強く、経験から学ぼうとする態度が強く、他者ではなく自分を変えるという態度が身についている人ほど、難しい。そして、大人は誰もがそうした態度(変わるべきは自分)を身につけようと努力する。だから、自分を赦すのはどんどん困難になる。自分をうまく赦せないとどうなるか?本来感じて然るべき負の感情を抑え込んでしまうのだ。怒る。悲しむ。憎む。恨む。妬む。ぼくらはそんな感情を人に抱くことに罪深さを覚えるようになってしまっている。だから、そうした感情が芽生えると、抑え込み、捻じ曲げ、忘れようとする。そうして抑え込んだ感情は、長い期間、下手すると死ぬ間際まで、その人を知らずに苛む可能性だってある。これではいけない。現実はいつだって、そのまま受け入れるべきなのだ。自分が負の感情を抱いてしまうことすらも。まずは受け入れて、負の感情一色になりそうな中にも、やはりそこまで染まりきれない自分を発見する。そんな自分を少し好ましく、愛おしくさえ思う。そうやって、複数の自分を融け合わせ、和解させ、時間をかけて統合していく。そうあるべきなのだ。正直に言うとぼくは、「変えるべきは自分」という思考にこだわり、何かあるとすぐに思考様式や行動の劇的な変化を自分に求める人間だった。人間、いつでもそんなにうまく行くもんじゃない。変化には、ときに時間と優しさが必要だ。そんなことをこの年になってようやく学ぼうとしている。そして、自分を赦すのが下手なたくさんの人々に、「まずはぼくがあなたを肯定する」という人間になりたい。ぼくは生来「優しさ」という機能が欠けている。それは自覚している。ぼくは欠陥人間だ。
そんなぼくが傷付けたたくさんの人々への罪滅ぼしのためにも。こんなぼくを赦してくれるたくさんの人々への感謝を込めて。

不確実性

見積りという作業はなんでこんなに難しいのか。

不確実性の高い仕事と低い仕事。
期限優先か、クオリティ優先か(この文言気に食わないな。あとで再検討する)。

これでマトリックスを作れそうだ。

a. 不確実性が高くて、期限優先…これは失敗の可能性が高い
b. 不確実性が高くて、クオリティ優先…これは、終了時期が見積もれない
c. 不確実性が低くて、期限優先…見積りを行って分割、トリアージが可能
d. 不確実性が低くて、クオリティ優先…見積りを行って分割、トリアージが可能

経営者をしていると、どうしても常に期限を優先したくなる。ただこれは、cならいいがaは失敗する。
エンジニアをしていると、どうしてもクオリティを優先したくなる。そうするとbに陥るし、aの場合経営者と衝突する。

更に、不確実性の低い仕事はどんどん自動化していきたい。

名前

今週のジャンプの「アクタージュ」にでてきたセリフ、繊細な機微を捉える言葉として素晴らしかったのでメモしておく。この感情に「嫉妬」だなんて簡単な名前をつけたくないだから今はただこの感情を覚えておこうきっといつか
私をより美しくしてくれる
そのための感情のはずだからライバルが主人公の舞台を見て語るモノローグである。この漫画、やはり現代の作品なだけに、「ガラスの仮面」ほどの強烈な「ベタ感」や「アクの強さ」がなくて物足りないところもある。が、ところどころのセリフなどに凄まじいセンスを感じるときがある。人間の感情とは複雑なもので、まるで真逆の感情を同時に抱くこともあるし、片手を超えるほどの違った感情を同時に抱くことすらある。そんなことがこの年になってようやく分かってきた。そんな感情に、大雑把な名前を付けてしまうことは、自分の内面を単純化しすぎ、他の感情を無理に押さえつけてしまい、大きな誤りへと導きすらしかねない。上記のフレーズは、そんなことを薄々勘付いていたぼくに、「名前を付けずに、ただ覚えておく」と言う選択肢を提示してくれた点で新鮮であった。きっとそうした感情を完全に消化して乗り越えたとき、人は大雑把にくくって記憶しておくために、名前を付けて呼んだりもするのだろう。「あの時嫉妬してさ」なんてことを、数年後の彼女も言うのかもしれない。ただ、そんな日が来るまでは、無理に名付けず、もしかすると意味付けもせずに置いておくのがベストなのだろう。頭でっかちのぼくに、そんなことができるのだろうか。解釈も意味付けもせずに記憶しておく、そんなことのできる器用な脳みそが欲しい。

織物

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ぼくは、人生を手織物のようなイメージで捉えている。

織物の縦糸と横糸は、他者だ。いろんな人に関わるたび、様々な色の糸がぼくの人生に織り込まれていく。

深く、長く関わった人の糸は、何度となく織り込まれる。例えば黄色に近いオレンジ。
短くても濃密であれば、その部分はその人の色が濃く現れる。例えば濃い藍色。

こうして、ぼくの人生が様々な人に彩られていく。願わくば、信じられないくらい様々な色の糸が混じり合って、色として表現できぬような色合いになり、深い深い艷をたたえた織物になりますように。

問題解決

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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問題解決には、2つのアプローチがある。1つは帰納的アプローチ。「なぜ?」を積み重ねていき、原因を特定するというやり方だ。例えばプログラムのデバッグ、数学的帰納法などが挙げられる。通常問題解決と言えばこちらのアプローチが想像されよう。もう1つはメタ的アプローチだ。問題が生じている前提そのものを変更してしまい、問題そのものをなくしてしまう。こちらのアプローチは、例えば「ソフトウェアの品質と開発効率を向上したい」という場合にフレームワークを開発したり、仕事が締め切りに間に合わないときにゴールそのものを変更する、などの例が挙げられる。これらのアプローチは、どちらも一長一短ある。帰納的アプローチは、多くの場合即効性があるし、多くの人が慣れ親しんでいるアプローチでもある。ただ、問題の捉え方が近視眼的になったり、解決できる問題の範囲が狭かったりする。メタ的アプローチは、多くの場合コストがかかる。また、メタ的な思考が得意な人が多くはない、組織において前提を変えるためには権力が必要、前提を変えたときに生じる結果が予想しきれない、長期的視野が必要になるため、拙速な結果を求める人には価値が伝わりづらい、と言った問題がある。ただし、その効果の大きさは凄まじい。これらは使い分けが必要であると同時に、人によって好みの分かれるところでもあろう。ぼくは個人的にはメタ的なアプローチを常に好んでしまうが、使い分けも必要だ。

メタ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を読み、メタとは何なのか、更に深く考えたい気持ちになった。同書は、メタということについて様々な角度からこれでもかというくらい、メタについて述べている。が、何か欠けていると感じる。例証と分析は余すところなく行われているのだが、メタをテクニックとして実生活に活用するような、実践的な知識に欠けている気がする。そこで、どうせまとめきれないと割り切りつつ、実践的なメタについてあれこれ考えてみる。自分用のメモなので、一切の補足説明は行わない。まずメタで思いつくのが、物事の共通点を見つけるという行為である。これは、オブジェクト志向言語における親クラスやインターフェースを見つけ、定義することにそのまま対応する。
では、共通のユーティリティを作ることはどうだろうか?メタ的と言えるだろうか?いや、言えなそうだ。この違いは?全く異なる事象に同型対応を見出す行為は?アナロジーと呼ばれる。アナロジーはメタであるか?GEBによれば、YES。アナロジーが成り立つところ、それはすべてメタ化が可能であり、それはすなわち共通のインターフェースを定義できることになる。細胞によるタンパク質合成処理と、ゲーデル数化の間に、共通のインターフェースは定義可能である!メタとは「解釈」という行為に大きく依存しており、だからこそフレーミングが問題となる。解釈あるところには「意味」がある。同じ記号に対して、異なる解釈を行って異なる意味を充てることもできる。多段階の解釈により、メタレベルを積み重ねることもできる。コンピューター上で、数値を文字として解釈し、扱うことができるように。解釈とは、ルールを伴うものである。だからメタとルールは切り離せない。そこで問題になるのは、ルールを守るべきルールはない、という鉄則である。合理的なルールの積み重ねを紐解いていくと、非合理的な、不可壊なレベルが残らざるを得ない。それは、法治国家が法を強制するために、理外の暴力(警察力、刑罰)に頼らざるを得ないことと全く同型である。メタ化は問題解決の手段として取り上げられることも多い。なぜか?原因を辿っていくというプロセスが、メタ化と近いのか?しかし、そこには違いがあるのは間違いない。単に帰納的であることと、メタな…

哲学

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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哲学的なものに魅せられてから10年近くになろうか。一時期のように哲学書を読み漁ることもなくなり、一時期は「自分の中での哲学は終わった」とすら思っていたが、一つだけ答えの出ていない問いがあった。それは、「哲学とは何か?」という問いである。この問いに、決まった一つの解答があるとは思えない。答えはこの問いに向き合った人の数ぶんあるだろう。そんな、「自分なりの答え」が求められる問いではあるが、この問いにぼくはずっと答えを出せていなかったのである。 だが、ここ最近(ブログの更新が捗っていることからも分かるとおり)また内省を活発に行っていて、その中でふと、この問いに自分なりの答えを出すことができた。その答えとは「哲学とは、『とは何か』という問いから逃げないことである」というものだ。この世には、考えるのが面倒な事柄がたくさんある。そうした問題に興味を持ち、考え、調べ、答えを出すというのには膨大な時間を要する。あらゆる問題に関心を持ち、答えを探るというのは、一人の人間の一生ではとても時間が足りない。だから、どんな問いに関心を持ち、どんな問いに向き合うかどうかは、その人の生き方そのものを決定付けると言ってもいい。ただ、問いについて考えるのはとても面倒だ。ましては自分で問いを立てるなど。だから、問いから逃げたり、他者が出した答えを鵜呑みにするのも、その人の人生だ。ただ私は、問いから逃げない存在でいたい。関心を持った出来事には深くハマり、疑問を抱き、答えを探り、そのうち多くの人が向き合っていない問いにたどり着いてしまい、どこを調べても納得できる答えがなく、しょうがなく自分で考え、その思考の過程で様々な情報や人に出会い、吸収して、何年経とうとも答えを出すことをあきらめない。私は、そんな哲学者でありたい。

バイアス

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
==== 価値判断とは、必然的にバイアスを伴うものだ。
だからぼくは、バイアスを排除したものの見方をしたかったがために、あらゆる価値観を投げ捨てたかったのだ。
しかし、そうも行かない。価値観という尺度がないと意思決定が行えない。 だから、生きていく上で最低限の価値観を、意識的に保持しておく。その価値観は相対的なものであり、一時的なものであるとの自覚を持ちながら。
これが、ぼくがここ数年言葉を尽くして考え、語り、実践してきたことの全てであった。 昨日の「ゆるふわ哲学コンパ」で、「価値判断」と「バイアス」という言葉が一つの議論の中で同時に出ていたことが、この文章の一行目の気づきにつながった。それによって、数年来の思考と実践が、シンプルな言葉に凝集した。
しかし、なぜこのシンプルな結論を得るのに長い年月を要してしまうのだろう?
常々感じてきたことだが、シンプルさというのは、ただ物事を削り落としていけば得られるものではない。そこには、飛躍が必要だ。そして飛躍する勇気も。そして、得られたシンプルさは何にも代えがたい価値を生む。

関心の抑制

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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関心を抑制することは可能だろうか?
例えば好きになってはいけない人を好きになりそうだとか、手を出してしまったら膨大にお金が必要になりそうな趣味(沼)だとか、果ては違法薬物だとか、リスクを伴うことに関心が向きそうなとき、それを抑制することは可能なのだろうか?結論から言うと、無理だと思う。関心という現象は、感情や欲望に根ざすところが大きい。うつ状態になると、無感動と無関心、そして無欲が同時に発生するのはそのためだ。
何にも感動しない「不感症」(ぼくは少年時代そういう人間であった)であれば、そもそも何に対する関心も沸かずに済むだろうが、そこは目指すところとは違う。感情も関心も(ついでに欲も)豊かなまま、リスクを伴う物事に関心を抱かないようにするには、方法は一つしかない。「近付かない」ことだ。まさに「君子危うきに近寄らず」である。では、危うきに近付かないためにはどうしたらいいのか?知らないままでいる、というのもいい。リスクを感じ取ったらそれ以上深入りしない。ただ、知ってしまったらどうするか?まず、関心を覚えてしまう前に恐怖を植え付けるのは有効だろう。禁止薬物への対処などがその典型だ。情報を隠してしまうのではなく、そのネガティブ面を積極的に発信し、「怖いから近付かない」という意識を醸成する。ただ、そうもいかない場合は?
関心が自然と向いてしまうのを止められない場合は?
むしろ、関心を抱いてはいけないと知りつつも、一方でそれを望んでいるような、アンビバレントな感情に支配されてしまっている場合は…? 正直、「痛い目を見る」しか、処方が思いつかない。なんという結論だ。