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解釈と学び

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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学びとは、解釈の積み重ねである。

学びと言うとどうしても書物からの学習を想起してしまいがちだが、そうではない。

学ぶ対象とはあらゆるところに存在する。そうした存在からの体験をいかに自分の中で解釈し、整理し、内に留め、そして行動に反映していくか。それが学びということである。

ならば学びとは、体験と内省の量に比例すると言えよう。いや、比例ではない。すでに学んだことを応用することにより、学びの速度は指数関数的に上昇すると言って良い。

ということは、より多くの体験と、より多くの内省を行うことで、学びの多い人生を送ることができるということになる。

そのために必要なのは関心と時間だ。

あらゆる体験に学びがあると考え、あらゆる体験を積極的に受け入れていく関心の強さと柔軟性。

そうした体験を内省し、自分の学びに変えていくための時間の確保。

そして更に言えば、そうした学びを実際に活かせる場が必要だ。個人的なことを言えば、起業家と言う道を選んだことで、そうした場には当面不足しそうもない。

他者の学びを促進する立場から言えば、関心を向けるところから学び、内省、活用までを一セットで考えるべきだろう。

少し話が逸れた。この文章は、特に「体験とその解釈こそが学びである」ということを考えたいのであった。

人生を生きていると、どうしてもつらいこと、悲しい出来事に出会うこともある。
それを単に悲しみ続けるのか、それともそこに意味を持たせて(解釈して)学びとするのかは人それぞれである。

幸いにも、色々な種類の体験をしてきたおかげで、体験を学びに変えるという転換については割と得意になっている。

そしてさらに最近学んだのは、その転換は早すぎてもいけないということだ。感情的な納得感が得られていないときに無理な解釈、無理な納得を行うことは、問題をより根深いものとして心のうちに沈殿させてしまう。こうなると、問題に対して納得の行く解釈がいつまでも行えずに、再解釈のループにひたすら時間を使うことになってしまう。

感情的な問題が生じたときにまずすべきことは、とことんその問題と感情的に向き合うことだ。泣けばいい。ボロボロになればいい。人を恨み、憎めばいい。口汚く罵るといい。感情的に「行くところまで行ってない」状態というのは、その体験がまだ「続いている」ということなのだ。

このステップをきちんと踏み、どうにも前に進まざるを得ないという状況になって初めて、有意義な解釈が行え、学びに昇華できる。

大きな感情的問題と言うのは、それを乗り越えたときに、その人にとって大きな学びをもたらす。それこそ、その人の人生を大きく方向付けるほどに。

ぼくも最近、そうした体験をしたばかりだ。既に学びの果実を得始めているが、この体験からどれほど多くの学びを引き出し、人生に役立てていけるかは、内省の質と時間、そして行動の変化とその永続化にかかっている。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

アキレスが亀に追いつけない」という逸話で有名なゼノンのパラドックスや、「クレタ人はみな嘘つきである」で有名なエピメニデスのパラドックス、そして先ほどの集合はラッセルのパラドックスから着想した問題らしいが、現実世界では問題にならないことが、思考で捉えようとすると、論理として成立せず、真とも偽とも言えない状態が…

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。