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関心と学び

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、経営という行為にようやく意識と関心が向いてきた。そうすると、これまで目にしても大して記憶にも残らなかったような事柄(例えばKPIのキーワード)が鮮明に記憶されたり、以前知識として蓄えていたことの意味が改めて理解できたりと、大きな変化が生じている。

とはいえ、こういう変化は特に初めてという訳ではない。ぼくの人生は、変化の激しさだけが自慢のようなものなので、立場を大きく変化させるたび、同様の経験はしてきた。今回初めてなのは、そういう経験をしている自分をメタ的に眺める自分がいるということだ。

メタ的な自分が生じている理由もはっきりしている。

理由の一つは「関心で世界をつなぐ」というフレーズを、現在企業として、そして個人としてのミッションステートメントに設定していることだ。それにより、「関心とは何か」ということに関心が向いている自分がいるのだ。

もう一つの理由は、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」という書籍を読み通したことだ。この書籍がぼくに与えた影響は計り知れず、物事をメタ的に眺めることにより一層積極的に、そして意図的になってきた。

ということで、関心と学びについてである。関心を向けるということは、アンテナを立ててその方向に向けることに似ている。電波(情報)は溢れ、常に自分の周りに漂っているが、アンテナを立てて向けることで、関連する情報への感度が大幅に高まる。それまで気にも止めていなかった情報が、意味のある情報としてどんどん引っかかるようになる。情報を得れば得るほど「面白さ」が増し、さらに感度が向上する…というループが発生する。

さらに重要なのは、一度立てたアンテナはそうそうすぐに失われるものではないということだ。

人間、どんなことにもいずれ飽きるときが来る。だがその飽きたあとも、得た知識や面白かった記憶まで失われるものではない。果たして、一度高く掲げたアンテナは、多少その感度を鈍らせつつも、そのままそこに「立ちっぱなし」になる。

多くのことに関心を抱いて生きてきた人は、たくさんのアンテナを立たせたまま生きている。それはすなわち、普段から得る情報が多いということだ。同じ情報に接していても、アンテナの多い人と少ない人では、得られる情報、解釈した意味、更には記憶量すらも異なっていることだろう。

ぼくは元来好奇心が弱く、興味の範囲も狭い人間だった。おまけに記憶力も頭脳も弱いと来ている。そんなぼくが人並みに世界を知るためには、多くのことに関心を無理矢理にでも向けるしかない。そうして生きてきた先に、今のとっ散らかった人生がある。それでもまだ、世間知らずなのには変わりがなく、自分の才のなさには呆れるばかりではあるが。

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両端

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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった