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言い方

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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現象はただそのままにある。人間は、そこから何かを学び取ろうとする際、「解釈」という活動を行う。それは単に「記憶する」こととは違う。意味付けし、理解するということだ。

ただ、その「解釈」が人によって様々である。また、解釈は恣意的に行うこともできる。例えば同じ事象からでも、180度異なる解釈を引き出すことも可能だ。

こうした解釈の多様性は、ときに問題を引き起こす。絶え間ない論戦や終わりの見えない議論など、人間社会でよく見る光景だ。こうしたとき、積み重ねた解釈をどんどん解いていき(エポケー)、一度事象そのものに立ち戻る必要がある。それが現象学の要諦だ。

現象学の理論そのものは、本質を突いたものだと思っている。ただ一つ、エポケーを行う人は多くないと言う点を除いては。人類全員が現象学を学べばいいのかも知れないが、そうもいかぬ。それに、もし人類全員が現象学を学んだとしても、現象学自体に対する解釈の相違なども生じるものだから、話は単純ではない。とはいえ、今の時代に割と価値観が相対化して多少の自由が確保されているのは、現代哲学の影響も大きいだろうから、それ以上は望みすぎというものかもしれない。

と言うことで、エポケーをする習慣を個人的には身に付けようと四苦八苦しているわけだが、こと今日に至って、至極当たり前のことに気付いた。

解釈とは、有り体に言えば言葉にすることだ。では、世界をどう解釈するかは、どのような言葉遣い言い方に掛かってくると言うことだ。世界は私の言葉遣いに掛かっている。

言葉遣いや言い方は、コミュニケーションの上で非常に重要だとは常々思っていた。また、現実を解釈する上での言葉遣いの重要性も薄々感づいてはいた。
自分の言いたいことを我慢せず言えるかどうかは言い方次第。現実をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは言葉遣い次第。

しかし、私の世界そのものが言葉遣い次第だと言う発想はこれまで持っていなかった。これほどに、言葉は重要だったのか。

この発見は、ぼくにとっては大きな一歩だが、この文を読む殆んどの人にとっては大げさ過ぎると感じられるのではないだろうか。
ただ、ぼくにはとてつもなく大きな発見だ。言葉遣いを変えれば、私の世界を変えられるのだから。私にとっての世界の有り様を言葉使い次第で変えることが出来るだけでなく、それを人に伝えることで、他者の世界の見方に対しても影響を与えることができる。
これまで以上に、紡ぐ言葉に対して自覚的に振る舞わねばならぬ、と心に刻んだ。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

符号

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。