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フェーズ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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仕事で、物事を「フェーズ」に分けることはよくある。フェーズは、自分が意図して分けることもあれば、主に外的要因から意識せず分かれることもある。ここでは、前者の能動的なフェーズ分けのことを「フェージング」と呼ぶ。

以前はこの「フェージング」を、単なる区切る行為としか思っていなかったのだが、最近、フェージングの重要性をとみに感じている。

それは、フェーズには意味を持たせることができる、という側面の重要性を感じ始めたからだ。

人は何にでも意味づけを行うことができる。日付にも、物にも、そしてフェーズにも。そして、フェーズに意味を持たせることは人間の目的意識に作用するという側面から、とてつもなく重要なものだとわかってきた。

長い時間のかかるプロジェクトをフェーズに区切り、それぞれに意味を持たせることで、人間はその期間内に目標を達成しようとし、目的意識が醸成される。

ぼくがこれから直面していく経営の現場でも、フェージングをいかにうまく行えるかが、重要なファクターになりそうな予感がしている。

そして、長いプロジェクトと言えば人生もその一つだ。

学生時代は、小中高大と社会が定めたフェーズが存在し、人は無自覚的にそれらを意味的に区切って記憶している。

社会人になると、転職や異動などがフェーズとして認識しやすいものだろう。
他にも外的要因として、結婚した、子供ができた、大切な人に先立たれた、失恋した…などがあるだろう。

人生におけるフェージングでも、大事なのはその意味づけだ。いくら転職をしようと、それがその人にとって大した意味を持たなければ、ひとまとまりのフェーズにしかなりえない。逆に、なんてことない朝の目覚めがその人にとって大きな意味を持ったように感じられたのだったら、その前後は明確にフェーズとして分けることができるだろう。

そして、フェージングは未来に対してのみ行うものではない。過去についての意味づけにも行うことができる。例えば悲しいことがあったとして、悲しかった期間だけを取ればただの悲劇だったとしても、その期間を少し広げるだけで、自分を成長させてくれた大事なフェーズとみなすこともできるかもしれない。人生は、フェーズに分けて意味づけすることでストーリーとなる。

ぼくも最近、大事な一つのフェーズが終わったばかりだ。意味づけもほぼ終わりつつある。ここから得た学びを、次のフェーズにつなげていかなければならない。そのための内省を行っているのが今、この時間なのである。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

符号

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。