注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ハイデガーが人間という概念を「現存在」とわざわざ読み替えていた意味はよく知らぬ。が、人間同士が存在を認識し記憶するとき、そこには特別な意味を有することがある。
人はふとした偶然で、誰かにとって特別な存在となる。親子。兄弟。夫婦。恋人。ライバル。親友。
誰かにとって自分が特別な存在である、というのは何にもまして甘美な経験である。それは「自分の存在がこの世で代替が効かないもの」とみなされることに他ならず、自分という存在の圧倒的な肯定と同義であるからだ。
それだけに、その立場が脅かされることは、大きな不安と恐怖をもたらす。子供が親離れしようとしていることに気づいたとき。恋人が自分のもとを去ろうとしているとき。人は必死に悲しみを抑え、少しでも長く相手を手元に置いておきたいと願う。相手にとって、自分が特別な存在である期間を少しでも伸ばそうとする。
恋人と別れたときのように、自分が相手の中で「その他大勢」と同じになってしまったとき、その寂しさはどうすれば癒やされるのだろう?自分の存在が、この世界の中でまた一つ軽くなってしまった悲しみを、どうすれば振り切れるのだろう?
忘却することだ。どうせ、ほかのどんなもので埋め合わせようとしても、埋め合わせきれるものではない。相手にとって自分が特別であったように、自分にとっても相手は特別で、世界でただ一つの存在なのだから。
年を取ると、別れが日常となり、別れの悲しみにも鈍感になれるそうだ。それはすなわち、自分の存在がこの世界でどんどん軽くなっていくことに慣れるということ。そんな日々を恐れる自分がいる。しかし、そんな日々を少し心待ちにしている自分もいる。
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