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10月, 2018の投稿を表示しています

関心と人間

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ぼくの人生は「関心」という現象の理解に費やす、と決めたわけだが、本当に難しくて奥の深い現象である。 ジェンダーについて軽くメモを書いたときにも感じたことだが、関心の対象が「人間」になった瞬間、独特の問題が多数立ち現れる。通常の人間にとっては、人からの関心は「強すぎない」ことが望まれる。強すぎる関心は問題のもとだ。嫉妬妄想やストーキングがその典型的な例である。いや、「強すぎる」ことが問題なのではない。関心が不均衡だった場合に、人は不満を抱くのだ。例えば自分が強く相手に愛情を抱いているとき、相手からも同じくらいの強さで愛してほしいと願うものだ。相手からの関心が、自分からの関心よりも少なかった場合に、人は強い不満を抱くのだ。図式としては単純であるが、関心の均衡を取るというのは、なかなか難しいことでもある。関心は、自分の心の内で発生するものとは言え、意志の力でコントロールするのが難しい対象の一つだからだ。片想いなどがその典型だろう。
相手が自分に関心がないからと言って、自分の関心を下げることは難しい。むしろ、関心を下げねばと頭で考えれば考えるほど想いが強まりさえしかねない。関心の「量」のみならず、「質」も重要となる。例えば人間以外の対象であれば、「金目当て」(得られる実際の利益目当て)で関心を向けても特に問題にはならない。(年収アップのために努力して勉強する、など)
だがこれが、「金目当て」で人に近づくとしたら、それは非難されるだろう。
(ただ、ここまで書いてみて、関心の「質」というのは、人間という多面的な存在の「どこ」に関心を抱くかという問題な気がしてきたので、この議論は一旦ここまでとする)とりあえずこの文章で指摘したかったのは、・関心の対象が人間の場合、特殊な事象となる
・人間は、相手の関心が自分と同等、同質であることを望む
・関心は自分でコントロールしにくい。だから、関心の不均衡という問題が生じたとき、それを解決するのは容易ではない。恋愛のトラブルなどはだいたいここに端を発しているのではないか

言い方

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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現象はただそのままにある。人間は、そこから何かを学び取ろうとする際、「解釈」という活動を行う。それは単に「記憶する」こととは違う。意味付けし、理解するということだ。ただ、その「解釈」が人によって様々である。また、解釈は恣意的に行うこともできる。例えば同じ事象からでも、180度異なる解釈を引き出すことも可能だ。こうした解釈の多様性は、ときに問題を引き起こす。絶え間ない論戦や終わりの見えない議論など、人間社会でよく見る光景だ。こうしたとき、積み重ねた解釈をどんどん解いていき(エポケー)、一度事象そのものに立ち戻る必要がある。それが現象学の要諦だ。現象学の理論そのものは、本質を突いたものだと思っている。ただ一つ、エポケーを行う人は多くないと言う点を除いては。人類全員が現象学を学べばいいのかも知れないが、そうもいかぬ。それに、もし人類全員が現象学を学んだとしても、現象学自体に対する解釈の相違なども生じるものだから、話は単純ではない。とはいえ、今の時代に割と価値観が相対化して多少の自由が確保されているのは、現代哲学の影響も大きいだろうから、それ以上は望みすぎというものかもしれない。と言うことで、エポケーをする習慣を個人的には身に付けようと四苦八苦しているわけだが、こと今日に至って、至極当たり前のことに気付いた。解釈とは、有り体に言えば言葉にすることだ。では、世界をどう解釈するかは、どのような言葉遣い言い方に掛かってくると言うことだ。世界は私の言葉遣いに掛かっている。言葉遣いや言い方は、コミュニケーションの上で非常に重要だとは常々思っていた。また、現実を解釈する上での言葉遣いの重要性も薄々感づいてはいた。
自分の言いたいことを我慢せず言えるかどうかは言い方次第。現実をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは言葉遣い次第。しかし、私の世界そのものが言葉遣い次第だと言う発想はこれまで持っていなかった。これほどに、言葉は重要だったのか。この発見は、ぼくにとっては大きな一歩だが、この文を読む殆んどの人にとっては大げさ過ぎると感じられるのではないだろうか。
ただ、ぼくにはとてつもなく大きな発見だ。言葉遣いを変えれば、私の世界を変えられるのだから。私にとっての世界の有り様を言葉使い…

解釈と学び

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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学びとは、解釈の積み重ねである。学びと言うとどうしても書物からの学習を想起してしまいがちだが、そうではない。 学ぶ対象とはあらゆるところに存在する。そうした存在からの体験をいかに自分の中で解釈し、整理し、内に留め、そして行動に反映していくか。それが学びということである。ならば学びとは、体験と内省の量に比例すると言えよう。いや、比例ではない。すでに学んだことを応用することにより、学びの速度は指数関数的に上昇すると言って良い。ということは、より多くの体験と、より多くの内省を行うことで、学びの多い人生を送ることができるということになる。そのために必要なのは関心と時間だ。あらゆる体験に学びがあると考え、あらゆる体験を積極的に受け入れていく関心の強さと柔軟性。そうした体験を内省し、自分の学びに変えていくための時間の確保。そして更に言えば、そうした学びを実際に活かせる場が必要だ。個人的なことを言えば、起業家と言う道を選んだことで、そうした場には当面不足しそうもない。他者の学びを促進する立場から言えば、関心を向けるところから学び、内省、活用までを一セットで考えるべきだろう。少し話が逸れた。この文章は、特に「体験とその解釈こそが学びである」ということを考えたいのであった。人生を生きていると、どうしてもつらいこと、悲しい出来事に出会うこともある。
それを単に悲しみ続けるのか、それともそこに意味を持たせて(解釈して)学びとするのかは人それぞれである。幸いにも、色々な種類の体験をしてきたおかげで、体験を学びに変えるという転換については割と得意になっている。そしてさらに最近学んだのは、その転換は早すぎてもいけないということだ。感情的な納得感が得られていないときに無理な解釈、無理な納得を行うことは、問題をより根深いものとして心のうちに沈殿させてしまう。こうなると、問題に対して納得の行く解釈がいつまでも行えずに、再解釈のループにひたすら時間を使うことになってしまう。感情的な問題が生じたときにまずすべきことは、とことんその問題と感情的に向き合うことだ。泣けばいい。ボロボロになればいい。人を恨み、憎めばいい。口汚く罵るといい。感情的に「行くところまで行ってない」状態というのは、その体験がまだ「…

優しさ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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コピーライターとして、「優しい独裁者」というフレーズが好きである。この、ギャップのある2つの単語を組み合わせたウィットに富んだフレーズは、主にオープンソースプロジェクトの意思決定スタイルに対して用いられる。ちょっと遊びで、「優しい」に続けて高圧的なニュアンスのキーワードをつなげてみよう。優しい支配者
優しい権力者
優しい独占者ふむ悪くない。どれもできることなら「なってみたい」と感じさせるようなフレーズばかり。これらは、優しいという言葉のニュアンスが、ネガティブなワードの意味を包み込んで、より豊潤な意味を含有しているように感じさせる。ただ、こうした高圧的なワードは種類が多くないので、すぐネタ切れになってしまうのが難点だ。では、ネガティブなワードを直接「優しい」に連結してみてはどうだろう?怖いけど優しい
厳しいけど優しい
冷酷だけど優しい
暴力的だけどとても優しい
とことん非道でとことん優しい
残虐、残酷、なのに優しい最後の方は映画のキャッチコピーみたいになったが、どれも魅力的。優しいというワード、すごい。

フェーズ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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仕事で、物事を「フェーズ」に分けることはよくある。フェーズは、自分が意図して分けることもあれば、主に外的要因から意識せず分かれることもある。ここでは、前者の能動的なフェーズ分けのことを「フェージング」と呼ぶ。以前はこの「フェージング」を、単なる区切る行為としか思っていなかったのだが、最近、フェージングの重要性をとみに感じている。それは、フェーズには意味を持たせることができる、という側面の重要性を感じ始めたからだ。人は何にでも意味づけを行うことができる。日付にも、物にも、そしてフェーズにも。そして、フェーズに意味を持たせることは人間の目的意識に作用するという側面から、とてつもなく重要なものだとわかってきた。長い時間のかかるプロジェクトをフェーズに区切り、それぞれに意味を持たせることで、人間はその期間内に目標を達成しようとし、目的意識が醸成される。ぼくがこれから直面していく経営の現場でも、フェージングをいかにうまく行えるかが、重要なファクターになりそうな予感がしている。そして、長いプロジェクトと言えば人生もその一つだ。学生時代は、小中高大と社会が定めたフェーズが存在し、人は無自覚的にそれらを意味的に区切って記憶している。社会人になると、転職や異動などがフェーズとして認識しやすいものだろう。
他にも外的要因として、結婚した、子供ができた、大切な人に先立たれた、失恋した…などがあるだろう。人生におけるフェージングでも、大事なのはその意味づけだ。いくら転職をしようと、それがその人にとって大した意味を持たなければ、ひとまとまりのフェーズにしかなりえない。逆に、なんてことない朝の目覚めがその人にとって大きな意味を持ったように感じられたのだったら、その前後は明確にフェーズとして分けることができるだろう。そして、フェージングは未来に対してのみ行うものではない。過去についての意味づけにも行うことができる。例えば悲しいことがあったとして、悲しかった期間だけを取ればただの悲劇だったとしても、その期間を少し広げるだけで、自分を成長させてくれた大事なフェーズとみなすこともできるかもしれない。人生は、フェーズに分けて意味づけすることでストーリーとなる。ぼくも最近、大事な一つのフェーズが終わっ…

通じ合い

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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気持ちの悪いタイトルだ。
そして、気持ちの悪い内容を書く。友だちづくりが下手で、孤独感に苛まれた少年時代を送ってきたからか、今のぼくはコミュニケーションに対して異常な執着がある。フェチである、と言ってもよい。「心が通じてるな」と思えるコミュニケーションのあとは、とても気分が良い。が、その逆になると大変だ。「通じなかった」「すれ違ったまま終わった」なんてコミュニケーションのあとは、ひどく落ち込む。激しく自責するし、後悔もするし、いつまでも引きずる。
自然と忘れられればいいのだが、本当にぼくはディスコミュニケーションが苦手なので、トラウマレベルに忘れられない。結果、考え続ける。足掻く。自分が納得できる行動や解釈ができるまで、それは続く。先日もそういうことがあったばかりだ。辛くて辛くて死にそうだった。色んなジレンマと同時にディスコミュニケーションも発生していたものだから、辛さの理由がそこにあると気付くのが遅れて、塞ぎ込む日々が続いていた。終わってみれば結局、自分の独りよがりな言動がコミュニケーションを阻害していて、相手が何を考え何を望んでいるのか全くわからない…というのが辛さの原因の多くを占めていた。この一件があってからというもの、本当にぼくは反省をした。ぼくの人生にとって、ディスコミュニケーションは最大限の努力を払ってでも忌避すべき事柄なのだと。さもないと身がもたない。精神力も時間も膨大に費やされてしまう。ということで、ぼくは人と関わる際には「通じ合い」を最大のテーマとすると決めた。独りよがりなコミュニケーションはもう二度とするまい。あらゆる人の良き聞き手、誠実な相談役、インタビュアーを目指す。これはその決意表明である。

「人的価値」に関するメモ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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先日、とある女性とジェンダー問題について語り合うという貴重な機会を得た。

そこでいろいろとお話をさせていただき、結局の所、ジェンダー問題とは価値観の問題が大きな比重を占めると感じた。特に、価値を量る対象が人間であるというところが様々な問題を孕んでいるように感じる。

雑なまとめではあるが、その場で出た話のポイントをメモしておく。今後のブラッシュアップのためのたたき台として。

相対性: 価値観はコミュニティやコンテキストによって異なる。例えばテックコミュニティは現在女性が少ないので、「女性であること」の価値が重く感じられやすい。変更可能性: 「性別」「容姿」「国籍」など、先天的に与えられた属性による価値付けは当人には変えようがない。こうした、変更可能性の低い属性による価値付けは、当事者にとって納得し難い時がある代替可能性: 分業社会においては、人間の属性のうち「利用価値のある」属性が求められるが、その属性の代替可能性が高ければ高いほど、当事者の納得感はより薄い。例えば「女性」という属性のみを利用する場合、「女性であれば誰でもいい」ということになる。普遍性: 価値観に伴うこれらの問題は、人間社会にとっては避けがたく、繰り返し立ち現れるもの。そこに理不尽を感じた場合、声を上げて戦うもよし。開き直って利用するもよし。

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

細胞

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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細胞が入れ替わる、という体験を一生のうちで何度かしている。
これはもちろんもののたとえで、自分の中で大きなパラダイムシフトが起きたときに、思考が根本から組み替えられていく様をそう言い表しているに過ぎない。エンジニアだった自分が、ライターになったとき。社会起業家の道を選んだとき。その道に挫折したとき。コミュニティに一旦、自分の人生を捧げると決めたとき。コミュニティを卒業したとき。スタートアップ起業家を志し、テックフィードというサービスを作ると決めたとき。初めて事業計画書を仕上げたとき。最近だと、株主の目を意識して、組織づくりについて真剣に考えはじめたことで、また大きなパラダイムシフトを体験している。こういう体験をするたびに、自分がいかに小さく凝り固まっていたかを知る。自分の思考を縛っているのは、いつもほんの些細なことなのだ。ほんの些細な無知や思い込み、こだわり。そんなものに縛られて、いつもいつも遠回りをしている。細胞の入れ替わりの果てに、人間になれる日を夢見ながら、今日も狭っ苦しい思考の小部屋の中で、ぼくはみっともなく藻掻いているのです。

許可

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、とある女性の恋愛の悩みを聞く機会があった。女性にとって、男心とはわかりにくいものであるらしい。男からすると単純この上ないようにおもえるのだが、思考の寄って立つ基盤があまりに違いすぎるので、理解が難しいのだろう。なんてことをこないだ考えていたら、ふと、男の女性に対する行動原理を「許可」という言葉で語ってみては、ということを思いついた。昆虫の世界でも一般的なくらい、この世はオスがメスにアピールをし、メスが許可を出すという構図が行き渡っている。頼むのは男、許すのは女性。そして男は単純だから、一度許されたとなれば、際限なく許されたものと思い込む。手を握る、キスをする、セックスをする、夜遊びをする…etc。際限なく許されたと思っていたのに、女性が「今日はダメ」など時と場合によって許可を取り消したりすると、男は大変傷付く。すぐ、永久に許可が取り消されたのではないかなどと疑い、パニックになる。単純だから。まあ世の中にはいくらでも反例があるだろうし、この理屈で男女関係の何もかもを説明できるなんて思いはしない。ただ一つ言えるのは、女性に許可を出されたときの喜びというのは、男にとってこの世でも最も甘美な喜びの一つであろうと言うことだ。まさに天にも登る気持ち、圧倒的な幸福感、達成感。そんな喜びを与える力が自分にあるなんて、そしてその喜びを得たいがために男が凄まじい力を発揮したり努力したりするなんて、世の中の女性の皆様はご存知なのだろうか?「女性からの許可を得ること」が男の生きがいの一つと言っても、過言ではあるまいとぼくは信ずる。信じてどうなるものでもないのだが。

権利

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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権利、という言葉にある種の難しさを感じる。権利とは「主張するもの」と相場が決まっているが、そこにある「声の大きさ」や「押し付けがましさ」、「言ったもん勝ち」というニュアンスはどうにも扱いづらいものを感じる。とはいえ権利という概念を否定するものでは全くない。この世は残念ながら永遠に不平等だが、不当に扱われているマイノリティなどにとっては、権利を主張し、社会に存在を知らしめ、自分たちにも生きやすいように社会をアップデートする提案をしていくことは、大いに推奨されるべきものだ。一方ぼくは、権利の主張という行為と無縁の人生を送ってきている。それはぼくがたまたま、理不尽な不平等に晒されることがなかった…という幸運に恵まれてきたということの証なのかもしれない。ただもう一つ言えるのは、ぼくは性格上「大声を張り上げる」ような行為がとことん苦手だということである。これでもまあ、いじめとか疎外とかそれなりに理不尽な目にあってきた記憶もあるが、その時ぼくは大概だんまりを決め込んできた。理不尽というのは他者によってもたらされるものであり、他者とは自分の意にならぬもの。他者を変えるのは容易ではない。理不尽が一瞬で終わるなら我慢するか、続いたりあとに影響することであれば、他者を変えるよう努力するしかない。そうか、権利の主張というのは、他者を変えようとする行為のことだ。そういう意味では「説得」と目的は変わらない。権利の場合は、不特定多数の人に向かって変化を促そうとするから、どうしても短いキャッチフレーズやキーワードを捻出せざるを得ず、そうなると解釈の余地が多分に生まれ、論争が沸き起こりやすい。こういうことか。オチなし。

瞬間

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ある文章を書くとき、最高に機が熟したタイミングというものがある。その瞬間を逃しては書けない文章というものがあるという文章を綴ろうと、ちょっと前にメモを残しておいたのだが、はて、これ以上何を書こうと思ったのかさっぱり思い出せない。これは、この文章そのものが機を逸してしまっているという例だ。こうならないようにしなくてはならない、という反面教師。なんか最近、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」にハマっていたせいで、こういう自己言及的な構成が大の好みで、かつ、そういうふうにすればオチがついたと思ってしまう自分がいる。おっと、こういうふうに自分自身の構成についてメタ的に言及するのも、GEBが大の得意とするところであった。というふうに、自分自身の構成についてメタ的に言及するのも…(無限に続く)

存在

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ハイデガーが人間という概念を「現存在」とわざわざ読み替えていた意味はよく知らぬ。が、人間同士が存在を認識し記憶するとき、そこには特別な意味を有することがある。人はふとした偶然で、誰かにとって特別な存在となる。親子。兄弟。夫婦。恋人。ライバル。親友。誰かにとって自分が特別な存在である、というのは何にもまして甘美な経験である。それは「自分の存在がこの世で代替が効かないもの」とみなされることに他ならず、自分という存在の圧倒的な肯定と同義であるからだ。それだけに、その立場が脅かされることは、大きな不安と恐怖をもたらす。子供が親離れしようとしていることに気づいたとき。恋人が自分のもとを去ろうとしているとき。人は必死に悲しみを抑え、少しでも長く相手を手元に置いておきたいと願う。相手にとって、自分が特別な存在である期間を少しでも伸ばそうとする。恋人と別れたときのように、自分が相手の中で「その他大勢」と同じになってしまったとき、その寂しさはどうすれば癒やされるのだろう?自分の存在が、この世界の中でまた一つ軽くなってしまった悲しみを、どうすれば振り切れるのだろう?忘却することだ。どうせ、ほかのどんなもので埋め合わせようとしても、埋め合わせきれるものではない。相手にとって自分が特別であったように、自分にとっても相手は特別で、世界でただ一つの存在なのだから。年を取ると、別れが日常となり、別れの悲しみにも鈍感になれるそうだ。それはすなわち、自分の存在がこの世界でどんどん軽くなっていくことに慣れるということ。そんな日々を恐れる自分がいる。しかし、そんな日々を少し心待ちにしている自分もいる。

関心と学び

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、経営という行為にようやく意識と関心が向いてきた。そうすると、これまで目にしても大して記憶にも残らなかったような事柄(例えばKPIのキーワード)が鮮明に記憶されたり、以前知識として蓄えていたことの意味が改めて理解できたりと、大きな変化が生じている。とはいえ、こういう変化は特に初めてという訳ではない。ぼくの人生は、変化の激しさだけが自慢のようなものなので、立場を大きく変化させるたび、同様の経験はしてきた。今回初めてなのは、そういう経験をしている自分をメタ的に眺める自分がいるということだ。メタ的な自分が生じている理由もはっきりしている。理由の一つは「関心で世界をつなぐ」というフレーズを、現在企業として、そして個人としてのミッションステートメントに設定していることだ。それにより、「関心とは何か」ということに関心が向いている自分がいるのだ。もう一つの理由は、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」という書籍を読み通したことだ。この書籍がぼくに与えた影響は計り知れず、物事をメタ的に眺めることにより一層積極的に、そして意図的になってきた。ということで、関心と学びについてである。関心を向けるということは、アンテナを立ててその方向に向けることに似ている。電波(情報)は溢れ、常に自分の周りに漂っているが、アンテナを立てて向けることで、関連する情報への感度が大幅に高まる。それまで気にも止めていなかった情報が、意味のある情報としてどんどん引っかかるようになる。情報を得れば得るほど「面白さ」が増し、さらに感度が向上する…というループが発生する。さらに重要なのは、一度立てたアンテナはそうそうすぐに失われるものではないということだ。人間、どんなことにもいずれ飽きるときが来る。だがその飽きたあとも、得た知識や面白かった記憶まで失われるものではない。果たして、一度高く掲げたアンテナは、多少その感度を鈍らせつつも、そのままそこに「立ちっぱなし」になる。多くのことに関心を抱いて生きてきた人は、たくさんのアンテナを立たせたまま生きている。それはすなわち、普段から得る情報が多いということだ。同じ情報に接していても、アンテナの多い人と少ない人では、得られる情報、解釈した意味、更には記憶量すらも異なっているこ…

予想と目標

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最近、ようやく経営という行為に対して真正面から向き合っている。たくさんの発見がある(ぼくが未熟すぎるので、当たり前のことを知らなすぎるだけではあるが)。例えば、予想と目標の違いだ。予想は、時間以外の条件を変えなかったときに得られる結果。目標は、条件に何らかの手を加えることで予想を超える結果を得ようとすることだと定義できる。ということは、目標とは予想値に対する増加割合で表すことができる。予想値を元にせず目標を立てようとすると、「無茶な目標設定」という現象が発生すると言って良い。そしてROIとは、ある条件に手を加えるコストと、それが予想値に与える増分の割合で計算することができる。ROIはどの期間で見るかが重要だ。期間を短く取りすぎると、長期的に見てトータルコストを最適化するような先行投資が行えなくなってしまう。今現在、ぼくは先行投資的な開発に取り組んでいたのだが、そこで感じていた意義のようなものを、こうした理屈で説明することができる。経営の状況に合わせて期間を設定し、その期間内で最もROIの高い施策に経営資源を投入すること。それが経営の勘所の一つと言えそうだ。

強要

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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この時代において、強要は最も罪深いとされることの一つではなかろうか。パワハラ、セクハラなど各種ハラスメントへの猛烈な風当たりや、様々なメディアでの言論の状況を鑑みても、社会のあらゆるシーンで、意に沿わぬことや興味のないこと、つまらないことを他者から強要することは、最大級の非難を浴びて然るべき、とコンセンサスができつつあるように思う。素晴らしいことだ。ぼくは自由という言葉が何よりの大好物である。そんなぼくからすると、他者に何事かを強要する、つまらない仕事を延々とやらされるというのは、他者の自由を侵害する行為にほかならない。こうした時代の背景には、SNSで誰もが発言できるようになったことはもちろん、AIブームの影響も無視できまい。人間がやるべきかどうか微妙、というようなつまらない仕事がどんどんと淘汰されつつあるという中で、「それは人間がやるべきか?」という点から仕事というものを評価する目線は確実に浸透している。強要という行為を限りなくゼロに近づけ、誰もが自由に自分のやりたいことを追求できる社会の到来は確実に近付いている。それは人類が初めて迎える時代。その前に、「AIに仕事を奪われる」という悲観的なフェーズを乗り越える必要はあるが。ただ、おそらく「仕事」や「資本主義」は残り続けると考えてはいる。いやむしろ残さねばならない。ベーシックインカムに代表されるような「反仕事」的思想は、一見「仕事という不自由」から人類を解放するかのごとく思えるが、それはかつての共産主義国家がたどった失敗をなぞることになる。資本主義には様々な欠点があることは間違いないが、市場という仕組みがもたらす自由は本物だ。資本主義を小刻みに修正し続けながら、よりクリエイティブな行為がより高い金銭的価値で取引されるようになる、それがあるべき未来であるように今は思う。

納得

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人は感情で動く生き物だ。
なぜロジックが必要になるかというと、納得感という感情を得るためだ。人を動かすには、ロジックではなく、納得感を持たせることを念頭に置かねばならない。そのためにはまず、相手の立場を理解し、相手の立場に立つ必要がある。そうでなければ、ロジックの起点を見誤ってしまうからだ。そうして徹頭徹尾、相手の理性と感情に配慮しながら、ロジックを組み立てる。相手の立場を理解しきれていないときは、まずそのことを相手に表明し、不完全なロジックであることを認めた上で論理的に語る必要がある。重要なのは「正しい」ロジックではない。人を動かす方向を見定め、納得感を与えるようにすることだ。