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10月, 2018の投稿を表示しています

細胞

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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細胞が入れ替わる、という体験を一生のうちで何度かしている。
これはもちろんもののたとえで、自分の中で大きなパラダイムシフトが起きたときに、思考が根本から組み替えられていく様をそう言い表しているに過ぎない。エンジニアだった自分が、ライターになったとき。社会起業家の道を選んだとき。その道に挫折したとき。コミュニティに一旦、自分の人生を捧げると決めたとき。コミュニティを卒業したとき。スタートアップ起業家を志し、テックフィードというサービスを作ると決めたとき。初めて事業計画書を仕上げたとき。最近だと、株主の目を意識して、組織づくりについて真剣に考えはじめたことで、また大きなパラダイムシフトを体験している。こういう体験をするたびに、自分がいかに小さく凝り固まっていたかを知る。自分の思考を縛っているのは、いつもほんの些細なことなのだ。ほんの些細な無知や思い込み、こだわり。そんなものに縛られて、いつもいつも遠回りをしている。細胞の入れ替わりの果てに、人間になれる日を夢見ながら、今日も狭っ苦しい思考の小部屋の中で、ぼくはみっともなく藻掻いているのです。

許可

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、とある女性の恋愛の悩みを聞く機会があった。女性にとって、男心とはわかりにくいものであるらしい。男からすると単純この上ないようにおもえるのだが、思考の寄って立つ基盤があまりに違いすぎるので、理解が難しいのだろう。なんてことをこないだ考えていたら、ふと、男の女性に対する行動原理を「許可」という言葉で語ってみては、ということを思いついた。昆虫の世界でも一般的なくらい、この世はオスがメスにアピールをし、メスが許可を出すという構図が行き渡っている。頼むのは男、許すのは女性。そして男は単純だから、一度許されたとなれば、際限なく許されたものと思い込む。手を握る、キスをする、セックスをする、夜遊びをする…etc。際限なく許されたと思っていたのに、女性が「今日はダメ」など時と場合によって許可を取り消したりすると、男は大変傷付く。すぐ、永久に許可が取り消されたのではないかなどと疑い、パニックになる。単純だから。まあ世の中にはいくらでも反例があるだろうし、この理屈で男女関係の何もかもを説明できるなんて思いはしない。ただ一つ言えるのは、女性に許可を出されたときの喜びというのは、男にとってこの世でも最も甘美な喜びの一つであろうと言うことだ。まさに天にも登る気持ち、圧倒的な幸福感、達成感。そんな喜びを与える力が自分にあるなんて、そしてその喜びを得たいがために男が凄まじい力を発揮したり努力したりするなんて、世の中の女性の皆様はご存知なのだろうか?「女性からの許可を得ること」が男の生きがいの一つと言っても、過言ではあるまいとぼくは信ずる。信じてどうなるものでもないのだが。

権利

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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権利、という言葉にある種の難しさを感じる。権利とは「主張するもの」と相場が決まっているが、そこにある「声の大きさ」や「押し付けがましさ」、「言ったもん勝ち」というニュアンスはどうにも扱いづらいものを感じる。とはいえ権利という概念を否定するものでは全くない。この世は残念ながら永遠に不平等だが、不当に扱われているマイノリティなどにとっては、権利を主張し、社会に存在を知らしめ、自分たちにも生きやすいように社会をアップデートする提案をしていくことは、大いに推奨されるべきものだ。一方ぼくは、権利の主張という行為と無縁の人生を送ってきている。それはぼくがたまたま、理不尽な不平等に晒されることがなかった…という幸運に恵まれてきたということの証なのかもしれない。ただもう一つ言えるのは、ぼくは性格上「大声を張り上げる」ような行為がとことん苦手だということである。これでもまあ、いじめとか疎外とかそれなりに理不尽な目にあってきた記憶もあるが、その時ぼくは大概だんまりを決め込んできた。理不尽というのは他者によってもたらされるものであり、他者とは自分の意にならぬもの。他者を変えるのは容易ではない。理不尽が一瞬で終わるなら我慢するか、続いたりあとに影響することであれば、他者を変えるよう努力するしかない。そうか、権利の主張というのは、他者を変えようとする行為のことだ。そういう意味では「説得」と目的は変わらない。権利の場合は、不特定多数の人に向かって変化を促そうとするから、どうしても短いキャッチフレーズやキーワードを捻出せざるを得ず、そうなると解釈の余地が多分に生まれ、論争が沸き起こりやすい。こういうことか。オチなし。

存在

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ハイデガーが人間という概念を「現存在」とわざわざ読み替えていた意味はよく知らぬ。が、人間同士が存在を認識し記憶するとき、そこには特別な意味を有することがある。人はふとした偶然で、誰かにとって特別な存在となる。親子。兄弟。夫婦。恋人。ライバル。親友。誰かにとって自分が特別な存在である、というのは何にもまして甘美な経験である。それは「自分の存在がこの世で代替が効かないもの」とみなされることに他ならず、自分という存在の圧倒的な肯定と同義であるからだ。それだけに、その立場が脅かされることは、大きな不安と恐怖をもたらす。子供が親離れしようとしていることに気づいたとき。恋人が自分のもとを去ろうとしているとき。人は必死に悲しみを抑え、少しでも長く相手を手元に置いておきたいと願う。相手にとって、自分が特別な存在である期間を少しでも伸ばそうとする。恋人と別れたときのように、自分が相手の中で「その他大勢」と同じになってしまったとき、その寂しさはどうすれば癒やされるのだろう?自分の存在が、この世界の中でまた一つ軽くなってしまった悲しみを、どうすれば振り切れるのだろう?忘却することだ。どうせ、ほかのどんなもので埋め合わせようとしても、埋め合わせきれるものではない。相手にとって自分が特別であったように、自分にとっても相手は特別で、世界でただ一つの存在なのだから。年を取ると、別れが日常となり、別れの悲しみにも鈍感になれるそうだ。それはすなわち、自分の存在がこの世界でどんどん軽くなっていくことに慣れるということ。そんな日々を恐れる自分がいる。しかし、そんな日々を少し心待ちにしている自分もいる。

関心と学び

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、経営という行為にようやく意識と関心が向いてきた。そうすると、これまで目にしても大して記憶にも残らなかったような事柄(例えばKPIのキーワード)が鮮明に記憶されたり、以前知識として蓄えていたことの意味が改めて理解できたりと、大きな変化が生じている。とはいえ、こういう変化は特に初めてという訳ではない。ぼくの人生は、変化の激しさだけが自慢のようなものなので、立場を大きく変化させるたび、同様の経験はしてきた。今回初めてなのは、そういう経験をしている自分をメタ的に眺める自分がいるということだ。メタ的な自分が生じている理由もはっきりしている。理由の一つは「関心で世界をつなぐ」というフレーズを、現在企業として、そして個人としてのミッションステートメントに設定していることだ。それにより、「関心とは何か」ということに関心が向いている自分がいるのだ。もう一つの理由は、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」という書籍を読み通したことだ。この書籍がぼくに与えた影響は計り知れず、物事をメタ的に眺めることにより一層積極的に、そして意図的になってきた。ということで、関心と学びについてである。関心を向けるということは、アンテナを立ててその方向に向けることに似ている。電波(情報)は溢れ、常に自分の周りに漂っているが、アンテナを立てて向けることで、関連する情報への感度が大幅に高まる。それまで気にも止めていなかった情報が、意味のある情報としてどんどん引っかかるようになる。情報を得れば得るほど「面白さ」が増し、さらに感度が向上する…というループが発生する。さらに重要なのは、一度立てたアンテナはそうそうすぐに失われるものではないということだ。人間、どんなことにもいずれ飽きるときが来る。だがその飽きたあとも、得た知識や面白かった記憶まで失われるものではない。果たして、一度高く掲げたアンテナは、多少その感度を鈍らせつつも、そのままそこに「立ちっぱなし」になる。多くのことに関心を抱いて生きてきた人は、たくさんのアンテナを立たせたまま生きている。それはすなわち、普段から得る情報が多いということだ。同じ情報に接していても、アンテナの多い人と少ない人では、得られる情報、解釈した意味、更には記憶量すらも異なっているこ…

予想と目標

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、ようやく経営という行為に対して真正面から向き合っている。たくさんの発見がある(ぼくが未熟すぎるので、当たり前のことを知らなすぎるだけではあるが)。例えば、予想と目標の違いだ。予想は、時間以外の条件を変えなかったときに得られる結果。目標は、条件に何らかの手を加えることで予想を超える結果を得ようとすることだと定義できる。ということは、目標とは予想値に対する増加割合で表すことができる。予想値を元にせず目標を立てようとすると、「無茶な目標設定」という現象が発生すると言って良い。そしてROIとは、ある条件に手を加えるコストと、それが予想値に与える増分の割合で計算することができる。ROIはどの期間で見るかが重要だ。期間を短く取りすぎると、長期的に見てトータルコストを最適化するような先行投資が行えなくなってしまう。今現在、ぼくは先行投資的な開発に取り組んでいたのだが、そこで感じていた意義のようなものを、こうした理屈で説明することができる。経営の状況に合わせて期間を設定し、その期間内で最もROIの高い施策に経営資源を投入すること。それが経営の勘所の一つと言えそうだ。

強要

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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この時代において、強要は最も罪深いとされることの一つではなかろうか。パワハラ、セクハラなど各種ハラスメントへの猛烈な風当たりや、様々なメディアでの言論の状況を鑑みても、社会のあらゆるシーンで、意に沿わぬことや興味のないこと、つまらないことを他者から強要することは、最大級の非難を浴びて然るべき、とコンセンサスができつつあるように思う。素晴らしいことだ。ぼくは自由という言葉が何よりの大好物である。そんなぼくからすると、他者に何事かを強要する、つまらない仕事を延々とやらされるというのは、他者の自由を侵害する行為にほかならない。こうした時代の背景には、SNSで誰もが発言できるようになったことはもちろん、AIブームの影響も無視できまい。人間がやるべきかどうか微妙、というようなつまらない仕事がどんどんと淘汰されつつあるという中で、「それは人間がやるべきか?」という点から仕事というものを評価する目線は確実に浸透している。強要という行為を限りなくゼロに近づけ、誰もが自由に自分のやりたいことを追求できる社会の到来は確実に近付いている。それは人類が初めて迎える時代。その前に、「AIに仕事を奪われる」という悲観的なフェーズを乗り越える必要はあるが。ただ、おそらく「仕事」や「資本主義」は残り続けると考えてはいる。いやむしろ残さねばならない。ベーシックインカムに代表されるような「反仕事」的思想は、一見「仕事という不自由」から人類を解放するかのごとく思えるが、それはかつての共産主義国家がたどった失敗をなぞることになる。資本主義には様々な欠点があることは間違いないが、市場という仕組みがもたらす自由は本物だ。資本主義を小刻みに修正し続けながら、よりクリエイティブな行為がより高い金銭的価値で取引されるようになる、それがあるべき未来であるように今は思う。

納得

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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人は感情で動く生き物だ。
なぜロジックが必要になるかというと、納得感という感情を得るためだ。人を動かすには、ロジックではなく、納得感を持たせることを念頭に置かねばならない。そのためにはまず、相手の立場を理解し、相手の立場に立つ必要がある。そうでなければ、ロジックの起点を見誤ってしまうからだ。そうして徹頭徹尾、相手の理性と感情に配慮しながら、ロジックを組み立てる。相手の立場を理解しきれていないときは、まずそのことを相手に表明し、不完全なロジックであることを認めた上で論理的に語る必要がある。重要なのは「正しい」ロジックではない。人を動かす方向を見定め、納得感を与えるようにすることだ。

2018/10/04

久しぶりの投稿であるブログがご無沙汰だった一つの理由が、iOS版のBloggerアプリがずっとアップデートされておらず、ついにiOS11で動かなくなってしまったことだった。しかし今はAndroid。モバイルアプリがあるのを知って(できはひどいが)、また再開するかというわけだ。 最近は公私ともに忙しくはあったが、経営している会社も一つの転機を迎えつつあり、内省や思索に多くの時間を割いているところでもある。世界との向き合い方について考えていたころ、一旦は納得のいく答えが出て、哲学的思索も一度は不要かに思えた。しかし会社経営について考え始めた今、新たな課題を山ほど抱え、また深い思索を必要とする時期が来たようだ。経営だけではない。40を過ぎて、人生はおそらく折返し地点を過ぎた今、考えたくなっていることが山のようにある。またちょいちょい書くことになると思う。