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創造と規則

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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規則には様々なものがある。ぼくの中では、何事かを「決める」ことがそのまま規則を生むと思っているので、人は数え切れないほどの規則を、日々生み出していることになる。(例えば「右に曲がる」と決めた瞬間に「私は次に右に曲がらねばならない」という規則を生み、守るも守らないも自分次第という状況であると捉える)そうした、数多ある規則の中でも、ぼくが特に注目したいのは創造における規則である。ここでいう規則とは、創造における定式化、パターン化、「型」と言ってもよい。創造における規則は、創造を促進する。創造とは、個人の脳内に表れたイメージを、具体的な形に落とし込むことである。具体化するためには、多くの意思決定が必要になる。ここで「意思決定」という言葉を使ったのは意図的である。先に述べたように「決める」とは規則を生むことである。つまり、創造とは多くの規則を生み出すことを伴う。いや、この文章における規則の定義から言えば、規則を生み出し実践すること、それこそが創造と言ってもよい。型を定めることは、そうした意思決定の多くを省略できる。だからこそ、創造にかかるコストを大幅に抑え、生産性を向上できるわけだ。こうした生産性向上は、ソフトウェア開発の現場では日常的に行われている。その例を挙げていく。フレームワークは、まさにパターンの塊だ。フレームを定めた上で、ベストプラクティスをパターン化し、生産性の向上に大きく寄与してくれる。一方ライブラリやコンポーネントは、創造的行為に共通する処理をひとまとめにした存在だ。もちろん大幅な生産性の向上をもたらすが、規則やパターン化という観点からすると、少し違う。再利用という観点から言うと、フレームワークはパターンの再利用を促すが、ライブラリやコンポーネントはひとまとまりの処理の再利用を促す。パターンの再利用という点では、デザインパターンもその一つだと言えるだろう。他に重要なのはプログラム言語だ。言語は、まさにその言語を使うときの思考形式を決定する。動的な言語を使っているときはパターンを好まず、静的な言語のときはパターン化を好む、など、根本的な思考(嗜好)様式にすら大きく影響する。メタプログラミングはどうか?メタプログラミングという用語自体が非常に曖昧であるが、こ…

決定

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは規則である。この着想を得てから数日経つが、今のところぼくの中で反証は見つかっていない。その定義を前提として、様々な思索が広がっている。例えば物事をメタ的に考える、とはどういうことかを考えてみた。少し客観的に物事を考えるだけでも、それはメタ的だと言われることが多い。そもそも考えるとは、もとよりメタ的な行為である。では、メタ的な行為である「考える」と、メタである「規則」の関係はどうなっている?そこには「決める」という行為が深く関わっている。現在の仮説を言うと、「決める」という行為は常にメタレベルを生じさせる。何事かを決めるということは、何らかのルールを生みだすということだからだ。「決める」を「定める」と言い換えてみればわかりやすい。しかしこの仮説は正しいのだろうか?決めるという行為が全てメタレベルを生み出すのであれば、メタは至るところにあることになる。メタを生みだすのはあらゆる決定ではなく、「ルールを決める」という種類の決定だけがメタを生み出すのではないのか?ここは詳細な検討が必要だ。

規則2

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは規則のことである。
長い考察を経て、一旦この定義に辿り着いた。この定義がどれくらいの強度を持つのか、この定義からどのように論理が発展するものか、少しずつ試していきたいと思う。
ゲーデル、エッシャー、バッハにおいて、メタは中心的なテーマであった。が、メタについては数多くの例証はするものの、「メタとは何か?」という問いに遂には答えを出していなかった(そもそも著者の主要な関心は、メタそのものではなく、メタが引き起こす現象そのものだったのだから無理はない)。
そこでは、メタとは規則の階層でもあり、意味の階層であった。そして、この「両面」を多角的に論じることで、知性の謎に迫ろうと言うものであった。なるほど、知性を語ろうとするならば、現象の「解釈」とそこから「意味」を見出す作業を抜きにしては語れまい。
しかし、「メタとは何か」を語る上では、意味はむしろただの副産物と言って良い。極めて重要な副産物ではあるが。
(上の段落の「言い切り」は、ちょっとした冒険である…ぼく自身、まだ「メタとは規則である」という定義を受け入れきれてはいないのだから。これは一旦言い切ってみるとどうなるかの実験である)
例えば、機械語とアセンブリ言語の関係を見るとする。機械語は単なる0と1の羅列でしかなく、CPUは単なる機械語のインタープリタだ。そして、アセンブリ言語は、その機械語と一対一に対応する、人間にとって(幾分)意味の分かりやすい命令セットである。
この関係においては、アセンブリ言語が機械語に対してメタ的な関係であるということができよう。こんな言い方ができる。「無機質な0,1の並びに意味を与えた」と。さらにC言語がアセンブリ言語に対してより直感的なインターフェイスを与えると、より人間にとってプログラムコードの「意味」は明示的となる。こうした意味の階層が、メタレベルそのものだと思ってもおかしくはない。
しかし、意味が単なる副産物だと置き、翻訳規則そのものに注目しよう。つまり、アセンブリ言語も単なる記号でしかなく、機械語とアセンブリ言語、アセンブリ言語とC言語の間には、単に記号間の翻訳規則があるだけだ、と。そして、その規則そのものがメタなのだと。
機械語に対してメタなのは、アセンブリ言語その…

成長

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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成長という言葉を嫌っていた時期があった。というか、今もまさにこの言葉に対して警戒する自分がいる。なぜ嫌っていたか。それは、この言葉が肯定的であるからだ。その肯定的なニュアンスが、極めて頻繁に、利己的な意図を隠蔽するために使われるからだ。「成長」に限らず、肯定的な言葉というのは同様の利用がなされる宿命にある。正義。愛情。平和。真実。などなど。昔は、ぼくも成長という言葉をただ肯定的にしか捉えていなかった時期もある。成長は良いことだ、と。しかし、自分自身が、その言葉を、自己の利己的な目的のための免罪符として、自身の「正しさ」の根拠として使っているのに気付いてからは、この言葉にすっかり嫌気が差してしまった。そして、「成長」という言葉の持つ「志向性」も嫌った原因だ。まるでその先にゴールがあるように。そしてそのゴールを目指すことが「正義」であるかのように。やりたいことをやる、というランダムさを好むようになったぼくとしては、この単純な目的意識と正義感が、ニュアンスとして鼻につくようになってしまったのだ。しかし今日から、成長という言葉を積極的に使っていくこととした。経営のためだ。最近考察している中で得た定義としては、経営とはルールづくりであるということだ。ルールは、それを作る動機が重要である。ルールは、その動機を形にした一つのインスタンスでしかない。
では、経営のためのルールづくりをしようとするモチベーションは、一体何なのか?ミッション?いや、営利企業は、社会的なミッションだけでは片手落ちだ。利益?営利企業だから当然ではあるが、それだけでは片手落ちだ。自身の利益だけを追求するという姿勢は、他者との軋轢を生む。軋轢自体は悪いものではない。しかしそこに、公共善的な意志がなくては、社会に淘汰される存在になってしまう。こうしたことを考える中で、結局思い至ったのが、「力への意志」である。ニーチェの手によるこの言葉は、人間の行動全てにおける根幹を表す言葉として、あまりに力強く、あまりに的を射ている。力への意志に、理由はない。そして、ミッションも利益も、この力への意志を実現するために必要な要素だ。ただ、この「力への意志」が、著作(というか遺稿集)の名前としては「権力への意志」とされたように、…

規則

GEBで何度も取り上げられていた事柄であるが、メタ階層とは規則の階層でもある。ゲームに対するルール、社会とルール、言語と文法規則、形式システムと生成規則、etc...

しかし、すでにこのブログでも何度か検討したように、メタ階層とは「意味の階層」でもある。機械語とアセンブリ言語、そして更に上位のC言語やオブジェクト指向言語。DNAと、リボソームがその塩基配列の「意味」を解釈してタンパク質を合成する仕組み。形式システムの記号列に「解釈」を与えることで、記号が意味を持つという構成。

そして、意味が一対一にならないようなメタ階層もある。コンセプトとネーミングはその例だ。名前は、コンセプト全体の情報を保持してはいない。しかし明らかに、名前はコンセプトに対してメタレベルを異にする(どちらのレベルが上か、は重要だがここでは保留)。ネーミングがそういうことだというのであれば、言語という行為は、ものに名前を付けるという行為は、全てこの類だ。シニフィアン・シニフィエの関係そのものがメタレベルを構成する。

規則と意味。これはなんなのだ?違うのか?同じなのか?
規則と意味をつなぐ抽象概念があるはずだ。一体それはなんだ?

そもそも意味とはなんだ?記号を読み取る側が、あらかじめ保持している概念。それが意味というものだ。記号を解釈して意味を読み取るというのは、「自分の知っている概念への翻訳」という作業にほかならない。

そして記号とその概念の間には、シニフィアン・シニフィエというゆるいが強固な規則がある。ここでも規則という単語が出てきた。

となれば、メタとは、おそらく規則の階層なのだ。ここに、記号とその解釈というプロセスが絡み合うことで、ときに意味の階層を成すように見える(というか意味の階層そのもの)こともあるということだ。

そして規則とは、物理的規則のように不変のルールもあれば、人文的な、あるいは社会的な、可変のルールもある。ルールを変えるとき、隣接する階層に大きな影響を与える。

面白い、実に面白い。

対義語

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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先日若い人たちと哲学的な対話をする機会があった。年寄りのぼくには自明なことも、若い人たちには新鮮なことも多いようで、途中でメモを取られたり、ハッとしたような表情をしていたこともあり、逆にこちらからしても新鮮な気持ちを味合わせてもらった。 その中でも印象的だったのは、物事を余すところなく説明するために対義語を用いたときに、新たな気付きだと捉えられていたことだ。
例えば「不自由があるから自由がある」、「自由を束縛するのは2つしかない、『自分か他者か』だ」「無があるから有があり、死があるから生がある」と言った具合だ。
そもそも言語は物事を2つに切り分ける。それが指すものと、指さないものだ。だから、上のような論を展開するのはしごく簡単なことなのだ。それでいて、絶対にMESEになるので強力な論理展開も可能になる。

留め

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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日々に忙殺され、感じたことや思ったことが、すぐに流されていってしまう。
昔はそれでいいと思っていた。そんな中でも、残ったものが本当に大事なものなのだと。

今もその思いはそれほど変わるところでもないのだが、それだと結局、日々の思考の大半を占める事柄 - 多くは仕事に起因する論理的なこと - ばかりが記憶に残り、感情的なこと、些細なこと、形を成していない思いなどがどんどん忘れ去られてしまう。

そうしたよしなしごとを書き留めておく時間も、今は大事なのだと思うようになった。そんなことに時間を使うのを無駄に近く思う自分もいる、その一方で。

一度書き留めておくことで、些細なことや感情的なことを一度は記憶から呼び覚まし、反芻する。それが「自分」というとりとめもない、ふわふわしたものに少しずつ影響していく。今ではそれを疑うものではない。

なので、ここでは今この瞬間に思い出し、感じていることを率直に書く。論理もなく。恥も外聞もなく。見栄もなく。照れもなく。矛盾も恐れず。後の心変わりも恐れず。

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愛は大事だ。それも、見返りを求めない愛が。キリストが「無償の愛」を説いたのも、今この瞬間ならわかる。

人を愛おしく思う気持ち、そこから相手を大切にしようと思う気持ちが生まれ、とことん相手の立場に立とうという気持ちにつながる。そうして得られるコミュニケーションは非常に良質で、他者と心が繋がった感覚は何ものにも代えがたい幸福感をもたらす。

ここで見返りを求めてしまうと、エゴが生じる。自分の愛情に応えてほしい、という欲望が生まれる。それはつまり、他者が自分の意に沿うことを望むことだ。そして、絶対に他者は自分の意に沿う存在になったりはしない。だから苦しみが生まれる。怒りが生まれる。意志のすれ違いが生まれ、幸福から遠ざかってしまう。

そういうことなのだ。

===
以前つらかったことを思い出すと、最近なぜか微笑んでやまない。その当時は、つらい、死にたい、身を引きちぎられるような思いを感じていた出来事の数々。

微笑めるということは、きっと昇華したんだろう。それらは自分の内面に取り込まれて、ぼくの一部となったのだろう。

でも、なぜ微笑みが漏れるのかがわからない。そうした心の働き、自分の内面に潜む不思…

創造2

創造に伴うメタ的な問題に関する考察の続き。創造における最も困難で、創発的な行為の一つにネーミングがあり、名と体は相互に影響し合いながら、創造物のクオリティが向上していく。ここで、名と体にメタな関係は成り立つのか?コピーライティングしているときは、名を生み出す行為がメタ的に上位に感じられているのだが、一度名が決まると、今度はその名をどう解釈するかという、体が名に対してメタ的に上位に振る舞い始める(ように見える)。この現象をどう説明するか?すぐさま答えが出る問題でもなさそうなので、思いつくままに寄り道しながら考えよう。一つ気づいたこととしては、名と体は決して同じ情報量を有してはいないということだ。名を生み出す際、何を考えるかというと、体のすべてを表したくとも短い言葉では表せないので、最も特徴を捉え、最も人の心に響き、記憶に残る名前を選びとろうとする。言ってみればこれは情報の不可逆圧縮だ。GEBで示されていた例の多くは、単純なインタープリターであり、情報量に違いがなかったように思う。遺伝暗号を解釈するリボソーム然り、ゲーデル数然り。不可逆に圧縮され、情報の多くが失われるからこそ、様々な解釈が可能になるという現象と、メタ的な問題との関係はどうなっているのだろう?また、忘れないうちに書いておくと、そもそも創造という観点からメタについて語ろうと思った動機は2つある。
1つは、ぼくがこの思索を通じて、創造的行為をよりうまく行えるようになりたいことを
もう1つは、創造という行為が、「メタ情報の生成、操作」を伴っているように思うからだ。メタ情報を自在に生み出し操ること、これこそが創造的行為の本質であり、人間にしか成しえないことのように思える(AIに人間存在を脅かされている今、この仮定もいささか心もとないが)。

創造

人間という存在を特徴づけているものは、創造という行為であろう。ぼくも、創造という行為には特に思い入れがある。この一度きりの人生において、一つでも多くのものを生み出していくことをミッションと考えているからだ。さて、最近考えているメタ的な問題においても、創造という行為が非常に特異的であることに気づいた。いくつもの創造をしてきた身だからわかるが、創造における中心的な行為は名を生み出すことである。ソシュールの、シニフィアンとシニフィエの構図で説明できるとおり、言語とそれが指すものの関係は恣意的なものである。名を生み出すとき、先に「指すもの」があって、それを表す名を生み出すこともあれば、先に名があって、それが指すものを後付けすることもある。多くの場合、指示するものとされるものは、名と体は、行ったり来たりしながら物事を形作っていく。ただ、名は一度決まってしまうとほぼ変えられない。名前を変えるということは、違うものになってしまうことだ、と人間は感じる。これはよく考えると面白い。名とは、体を指し示すだけの機能を持つ記号のはずである。なのに、体を変えずに名が変わるだけで、人は同一視ができなくなってしまうのである。更に面白いことがある。同じ名前でイベントを何度もやっていたりすると、名を変えずに内容をチューニングしていくことはよくある。時に大きな変更を、名前だけ同じで中身を総取り替えなんてこともある。そうしたときに決まって行うのは、「○○とは何か」(○○には名前が入る)を問うことだ。メタレベルを呼び起こすキーワード「とは何か」がここで出現するわけである。創造的行為を行っていると、名前はメタレベルで言うと最上位に位置するものであると感じることが多い。名は体を表すの言葉通り、名は現象すべての最上位に位置して、その現象とそうでないものを分かつ役割を果たすからだ。しかし、存在している名に対して「とは何か」を問うことは、「その名をどう解釈するか」という、名に対して上位のメタレベルを発生させていることになる。(前回から試みている、「メタレベルとは意味の階層である」の仮説に基づけば)シニフィアンとシニフィエは、メタレベル的にどちらが上でどちらが下なのか?

インタープリター

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは何か、についてまだまだ考えている。とりあえず今のところは、メタレベルとは「意味の階層」ではないかと仮定することにした。しばらくこの仮定のもとに考えを巡らせてみる。なぜGEBがあれほど様々な話題を取り扱ったか?それは、「解釈する」という行為が至るところにあるからだ。それこそ、細胞内のリボソームにもDNAの塩基配列を解釈し、タンパク質合成を行う機能がある。この「解釈して実行する」というインタープリター的な機能が、下位レベルの事象に意味的な上位階層を作り上げ、メタレベルを構成する。しかし、「解釈する」という現象に知性を感じてしまうのはなぜだろう?リボソームに知性を感じる。タンパク質合成システムをハックするT4ファージにも、途方もない知性を感じる。意味を扱う、ということが知性の重要なファクターであることは間違いなく、それはあまねく生物が備えているものであるのかもしれない。知性は万物に宿る。

メタとは何か

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは何か、という問いに、ここ数週間取り組んでいる。もちろんこれは、ゲーデル、エッシャー、バッハ(GEB)の影響であるが、今取り組んでいる様々な問題においても、メタという概念を正確に掴んでおくことが有用だと考えるからである。まずは直感を用いて、いくつか答えに近そうな概念を提示してみる。メタとは恐らく、人間の思考にのみ存在するものだ。GEBでは自然科学の例を数多く提示して、メタ的な分析とその破れ(もつれ)について検討しているが、そもそも自然が自然に成していることを人間的な思考様式で捉えることそのものが、メタ的な問題を見せかけで生じさせているように思える。自然は、自身に何の矛盾も感じてはいないはずだ。ではなぜ、思考はメタ的な問題を生じさせてしまうのか?そもそも、なぜメタレベルの階層構造として物事を捉えてしまうのか?おそらくそれは言語によるものだろう。まずは具体的な現象が言語で示されるようになる。例えば「人間」「芸術」「スポーツ」「細胞」などだ。それらの単語に対して、人間の思考は「とは何か」と問うことができる。「とは何か」は、メタレベルの階層を呼び起こすキーワードだ。この問いに対しては、様々なアプローチで答えを探ることになる。例えば「人間とは何か」と言う問いは、極めて哲学的な問いとして受け止められ、百花繚乱の答えを呼び起こしそうである。一方「細胞とは何か」とは、科学的なアプローチを引き起こしそうである。微細な観察により、多数の生物の細胞の内部構造を探るなどして、多くの生物の細胞の共通点を探り、「細胞とそうでないもの」の境界を探ろうとするだろう。つまり「とは何か」という問いは、その言葉が指すものとそうでないものに境界線を引こうという試みに他ならない。それはすなわち、言葉の意味を明確化し、厳密化しようとする行為だ。その行為には、まずその言葉が指すものを「細かく観察する」という作業と「列挙する」という作業が不可欠である。曖昧模糊としたままでは、境界線を引くことはできない。だから徹底的に観察し、言語化する。そして、その言葉が指すものとそうでないものの間に境界線を引くには、似たものを寄せ集めて、その共通点を抽出し、その共通点の有無で集合を分けることになる。この「分ける」と「共…

赦し

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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赦しという行為が、人の思考に与える影響に想いを馳せている。我々は容易に自分を赦さないように考えて生きている。駄目な自分を赦してばかりではろくな人生を歩めないと、脳に刻まれているからだ。だから実は、自分で自分に適切な赦しを与えるというのは、とても難しいことだ。自分を甘やかすのではなく、肯定する。これは、責任感が強く、経験から学ぼうとする態度が強く、他者ではなく自分を変えるという態度が身についている人ほど、難しい。そして、大人は誰もがそうした態度(変わるべきは自分)を身につけようと努力する。だから、自分を赦すのはどんどん困難になる。自分をうまく赦せないとどうなるか?本来感じて然るべき負の感情を抑え込んでしまうのだ。怒る。悲しむ。憎む。恨む。妬む。ぼくらはそんな感情を人に抱くことに罪深さを覚えるようになってしまっている。だから、そうした感情が芽生えると、抑え込み、捻じ曲げ、忘れようとする。そうして抑え込んだ感情は、長い期間、下手すると死ぬ間際まで、その人を知らずに苛む可能性だってある。これではいけない。現実はいつだって、そのまま受け入れるべきなのだ。自分が負の感情を抱いてしまうことすらも。まずは受け入れて、負の感情一色になりそうな中にも、やはりそこまで染まりきれない自分を発見する。そんな自分を少し好ましく、愛おしくさえ思う。そうやって、複数の自分を融け合わせ、和解させ、時間をかけて統合していく。そうあるべきなのだ。正直に言うとぼくは、「変えるべきは自分」という思考にこだわり、何かあるとすぐに思考様式や行動の劇的な変化を自分に求める人間だった。人間、いつでもそんなにうまく行くもんじゃない。変化には、ときに時間と優しさが必要だ。そんなことをこの年になってようやく学ぼうとしている。そして、自分を赦すのが下手なたくさんの人々に、「まずはぼくがあなたを肯定する」という人間になりたい。ぼくは生来「優しさ」という機能が欠けている。それは自覚している。ぼくは欠陥人間だ。
そんなぼくが傷付けたたくさんの人々への罪滅ぼしのためにも。こんなぼくを赦してくれるたくさんの人々への感謝を込めて。

不確実性

見積りという作業はなんでこんなに難しいのか。

不確実性の高い仕事と低い仕事。
期限優先か、クオリティ優先か(この文言気に食わないな。あとで再検討する)。

これでマトリックスを作れそうだ。

a. 不確実性が高くて、期限優先…これは失敗の可能性が高い
b. 不確実性が高くて、クオリティ優先…これは、終了時期が見積もれない
c. 不確実性が低くて、期限優先…見積りを行って分割、トリアージが可能
d. 不確実性が低くて、クオリティ優先…見積りを行って分割、トリアージが可能

経営者をしていると、どうしても常に期限を優先したくなる。ただこれは、cならいいがaは失敗する。
エンジニアをしていると、どうしてもクオリティを優先したくなる。そうするとbに陥るし、aの場合経営者と衝突する。

更に、不確実性の低い仕事はどんどん自動化していきたい。

名前

今週のジャンプの「アクタージュ」にでてきたセリフ、繊細な機微を捉える言葉として素晴らしかったのでメモしておく。この感情に「嫉妬」だなんて簡単な名前をつけたくないだから今はただこの感情を覚えておこうきっといつか
私をより美しくしてくれる
そのための感情のはずだからライバルが主人公の舞台を見て語るモノローグである。この漫画、やはり現代の作品なだけに、「ガラスの仮面」ほどの強烈な「ベタ感」や「アクの強さ」がなくて物足りないところもある。が、ところどころのセリフなどに凄まじいセンスを感じるときがある。人間の感情とは複雑なもので、まるで真逆の感情を同時に抱くこともあるし、片手を超えるほどの違った感情を同時に抱くことすらある。そんなことがこの年になってようやく分かってきた。そんな感情に、大雑把な名前を付けてしまうことは、自分の内面を単純化しすぎ、他の感情を無理に押さえつけてしまい、大きな誤りへと導きすらしかねない。上記のフレーズは、そんなことを薄々勘付いていたぼくに、「名前を付けずに、ただ覚えておく」と言う選択肢を提示してくれた点で新鮮であった。きっとそうした感情を完全に消化して乗り越えたとき、人は大雑把にくくって記憶しておくために、名前を付けて呼んだりもするのだろう。「あの時嫉妬してさ」なんてことを、数年後の彼女も言うのかもしれない。ただ、そんな日が来るまでは、無理に名付けず、もしかすると意味付けもせずに置いておくのがベストなのだろう。頭でっかちのぼくに、そんなことができるのだろうか。解釈も意味付けもせずに記憶しておく、そんなことのできる器用な脳みそが欲しい。

織物

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ぼくは、人生を手織物のようなイメージで捉えている。

織物の縦糸と横糸は、他者だ。いろんな人に関わるたび、様々な色の糸がぼくの人生に織り込まれていく。

深く、長く関わった人の糸は、何度となく織り込まれる。例えば黄色に近いオレンジ。
短くても濃密であれば、その部分はその人の色が濃く現れる。例えば濃い藍色。

こうして、ぼくの人生が様々な人に彩られていく。願わくば、信じられないくらい様々な色の糸が混じり合って、色として表現できぬような色合いになり、深い深い艷をたたえた織物になりますように。

問題解決

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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問題解決には、2つのアプローチがある。1つは帰納的アプローチ。「なぜ?」を積み重ねていき、原因を特定するというやり方だ。例えばプログラムのデバッグ、数学的帰納法などが挙げられる。通常問題解決と言えばこちらのアプローチが想像されよう。もう1つはメタ的アプローチだ。問題が生じている前提そのものを変更してしまい、問題そのものをなくしてしまう。こちらのアプローチは、例えば「ソフトウェアの品質と開発効率を向上したい」という場合にフレームワークを開発したり、仕事が締め切りに間に合わないときにゴールそのものを変更する、などの例が挙げられる。これらのアプローチは、どちらも一長一短ある。帰納的アプローチは、多くの場合即効性があるし、多くの人が慣れ親しんでいるアプローチでもある。ただ、問題の捉え方が近視眼的になったり、解決できる問題の範囲が狭かったりする。メタ的アプローチは、多くの場合コストがかかる。また、メタ的な思考が得意な人が多くはない、組織において前提を変えるためには権力が必要、前提を変えたときに生じる結果が予想しきれない、長期的視野が必要になるため、拙速な結果を求める人には価値が伝わりづらい、と言った問題がある。ただし、その効果の大きさは凄まじい。これらは使い分けが必要であると同時に、人によって好みの分かれるところでもあろう。ぼくは個人的にはメタ的なアプローチを常に好んでしまうが、使い分けも必要だ。

メタ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を読み、メタとは何なのか、更に深く考えたい気持ちになった。同書は、メタということについて様々な角度からこれでもかというくらい、メタについて述べている。が、何か欠けていると感じる。例証と分析は余すところなく行われているのだが、メタをテクニックとして実生活に活用するような、実践的な知識に欠けている気がする。そこで、どうせまとめきれないと割り切りつつ、実践的なメタについてあれこれ考えてみる。自分用のメモなので、一切の補足説明は行わない。まずメタで思いつくのが、物事の共通点を見つけるという行為である。これは、オブジェクト志向言語における親クラスやインターフェースを見つけ、定義することにそのまま対応する。
では、共通のユーティリティを作ることはどうだろうか?メタ的と言えるだろうか?いや、言えなそうだ。この違いは?全く異なる事象に同型対応を見出す行為は?アナロジーと呼ばれる。アナロジーはメタであるか?GEBによれば、YES。アナロジーが成り立つところ、それはすべてメタ化が可能であり、それはすなわち共通のインターフェースを定義できることになる。細胞によるタンパク質合成処理と、ゲーデル数化の間に、共通のインターフェースは定義可能である!メタとは「解釈」という行為に大きく依存しており、だからこそフレーミングが問題となる。解釈あるところには「意味」がある。同じ記号に対して、異なる解釈を行って異なる意味を充てることもできる。多段階の解釈により、メタレベルを積み重ねることもできる。コンピューター上で、数値を文字として解釈し、扱うことができるように。解釈とは、ルールを伴うものである。だからメタとルールは切り離せない。そこで問題になるのは、ルールを守るべきルールはない、という鉄則である。合理的なルールの積み重ねを紐解いていくと、非合理的な、不可壊なレベルが残らざるを得ない。それは、法治国家が法を強制するために、理外の暴力(警察力、刑罰)に頼らざるを得ないことと全く同型である。メタ化は問題解決の手段として取り上げられることも多い。なぜか?原因を辿っていくというプロセスが、メタ化と近いのか?しかし、そこには違いがあるのは間違いない。単に帰納的であることと、メタな…

哲学

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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哲学的なものに魅せられてから10年近くになろうか。一時期のように哲学書を読み漁ることもなくなり、一時期は「自分の中での哲学は終わった」とすら思っていたが、一つだけ答えの出ていない問いがあった。それは、「哲学とは何か?」という問いである。この問いに、決まった一つの解答があるとは思えない。答えはこの問いに向き合った人の数ぶんあるだろう。そんな、「自分なりの答え」が求められる問いではあるが、この問いにぼくはずっと答えを出せていなかったのである。 だが、ここ最近(ブログの更新が捗っていることからも分かるとおり)また内省を活発に行っていて、その中でふと、この問いに自分なりの答えを出すことができた。その答えとは「哲学とは、『とは何か』という問いから逃げないことである」というものだ。この世には、考えるのが面倒な事柄がたくさんある。そうした問題に興味を持ち、考え、調べ、答えを出すというのには膨大な時間を要する。あらゆる問題に関心を持ち、答えを探るというのは、一人の人間の一生ではとても時間が足りない。だから、どんな問いに関心を持ち、どんな問いに向き合うかどうかは、その人の生き方そのものを決定付けると言ってもいい。ただ、問いについて考えるのはとても面倒だ。ましては自分で問いを立てるなど。だから、問いから逃げたり、他者が出した答えを鵜呑みにするのも、その人の人生だ。ただ私は、問いから逃げない存在でいたい。関心を持った出来事には深くハマり、疑問を抱き、答えを探り、そのうち多くの人が向き合っていない問いにたどり着いてしまい、どこを調べても納得できる答えがなく、しょうがなく自分で考え、その思考の過程で様々な情報や人に出会い、吸収して、何年経とうとも答えを出すことをあきらめない。私は、そんな哲学者でありたい。

バイアス

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
==== 価値判断とは、必然的にバイアスを伴うものだ。
だからぼくは、バイアスを排除したものの見方をしたかったがために、あらゆる価値観を投げ捨てたかったのだ。
しかし、そうも行かない。価値観という尺度がないと意思決定が行えない。 だから、生きていく上で最低限の価値観を、意識的に保持しておく。その価値観は相対的なものであり、一時的なものであるとの自覚を持ちながら。
これが、ぼくがここ数年言葉を尽くして考え、語り、実践してきたことの全てであった。 昨日の「ゆるふわ哲学コンパ」で、「価値判断」と「バイアス」という言葉が一つの議論の中で同時に出ていたことが、この文章の一行目の気づきにつながった。それによって、数年来の思考と実践が、シンプルな言葉に凝集した。
しかし、なぜこのシンプルな結論を得るのに長い年月を要してしまうのだろう?
常々感じてきたことだが、シンプルさというのは、ただ物事を削り落としていけば得られるものではない。そこには、飛躍が必要だ。そして飛躍する勇気も。そして、得られたシンプルさは何にも代えがたい価値を生む。

関心の抑制

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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関心を抑制することは可能だろうか?
例えば好きになってはいけない人を好きになりそうだとか、手を出してしまったら膨大にお金が必要になりそうな趣味(沼)だとか、果ては違法薬物だとか、リスクを伴うことに関心が向きそうなとき、それを抑制することは可能なのだろうか?結論から言うと、無理だと思う。関心という現象は、感情や欲望に根ざすところが大きい。うつ状態になると、無感動と無関心、そして無欲が同時に発生するのはそのためだ。
何にも感動しない「不感症」(ぼくは少年時代そういう人間であった)であれば、そもそも何に対する関心も沸かずに済むだろうが、そこは目指すところとは違う。感情も関心も(ついでに欲も)豊かなまま、リスクを伴う物事に関心を抱かないようにするには、方法は一つしかない。「近付かない」ことだ。まさに「君子危うきに近寄らず」である。では、危うきに近付かないためにはどうしたらいいのか?知らないままでいる、というのもいい。リスクを感じ取ったらそれ以上深入りしない。ただ、知ってしまったらどうするか?まず、関心を覚えてしまう前に恐怖を植え付けるのは有効だろう。禁止薬物への対処などがその典型だ。情報を隠してしまうのではなく、そのネガティブ面を積極的に発信し、「怖いから近付かない」という意識を醸成する。ただ、そうもいかない場合は?
関心が自然と向いてしまうのを止められない場合は?
むしろ、関心を抱いてはいけないと知りつつも、一方でそれを望んでいるような、アンビバレントな感情に支配されてしまっている場合は…? 正直、「痛い目を見る」しか、処方が思いつかない。なんという結論だ。

関心と人間

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ぼくの人生は「関心」という現象の理解に費やす、と決めたわけだが、本当に難しくて奥の深い現象である。 ジェンダーについて軽くメモを書いたときにも感じたことだが、関心の対象が「人間」になった瞬間、独特の問題が多数立ち現れる。通常の人間にとっては、人からの関心は「強すぎない」ことが望まれる。強すぎる関心は問題のもとだ。嫉妬妄想やストーキングがその典型的な例である。いや、「強すぎる」ことが問題なのではない。関心が不均衡だった場合に、人は不満を抱くのだ。例えば自分が強く相手に愛情を抱いているとき、相手からも同じくらいの強さで愛してほしいと願うものだ。相手からの関心が、自分からの関心よりも少なかった場合に、人は強い不満を抱くのだ。図式としては単純であるが、関心の均衡を取るというのは、なかなか難しいことでもある。関心は、自分の心の内で発生するものとは言え、意志の力でコントロールするのが難しい対象の一つだからだ。片想いなどがその典型だろう。
相手が自分に関心がないからと言って、自分の関心を下げることは難しい。むしろ、関心を下げねばと頭で考えれば考えるほど想いが強まりさえしかねない。関心の「量」のみならず、「質」も重要となる。例えば人間以外の対象であれば、「金目当て」(得られる実際の利益目当て)で関心を向けても特に問題にはならない。(年収アップのために努力して勉強する、など)
だがこれが、「金目当て」で人に近づくとしたら、それは非難されるだろう。
(ただ、ここまで書いてみて、関心の「質」というのは、人間という多面的な存在の「どこ」に関心を抱くかという問題な気がしてきたので、この議論は一旦ここまでとする)とりあえずこの文章で指摘したかったのは、・関心の対象が人間の場合、特殊な事象となる
・人間は、相手の関心が自分と同等、同質であることを望む
・関心は自分でコントロールしにくい。だから、関心の不均衡という問題が生じたとき、それを解決するのは容易ではない。恋愛のトラブルなどはだいたいここに端を発しているのではないか