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名前

今週のジャンプの「アクタージュ」にでてきたセリフ、繊細な機微を捉える言葉として素晴らしかったのでメモしておく。この感情に「嫉妬」だなんて簡単な名前をつけたくないだから今はただこの感情を覚えておこうきっといつか
私をより美しくしてくれる
そのための感情のはずだからライバルが主人公の舞台を見て語るモノローグである。この漫画、やはり現代の作品なだけに、「ガラスの仮面」ほどの強烈な「ベタ感」や「アクの強さ」がなくて物足りないところもある。が、ところどころのセリフなどに凄まじいセンスを感じるときがある。人間の感情とは複雑なもので、まるで真逆の感情を同時に抱くこともあるし、片手を超えるほどの違った感情を同時に抱くことすらある。そんなことがこの年になってようやく分かってきた。そんな感情に、大雑把な名前を付けてしまうことは、自分の内面を単純化しすぎ、他の感情を無理に押さえつけてしまい、大きな誤りへと導きすらしかねない。上記のフレーズは、そんなことを薄々勘付いていたぼくに、「名前を付けずに、ただ覚えておく」と言う選択肢を提示してくれた点で新鮮であった。きっとそうした感情を完全に消化して乗り越えたとき、人は大雑把にくくって記憶しておくために、名前を付けて呼んだりもするのだろう。「あの時嫉妬してさ」なんてことを、数年後の彼女も言うのかもしれない。ただ、そんな日が来るまでは、無理に名付けず、もしかすると意味付けもせずに置いておくのがベストなのだろう。頭でっかちのぼくに、そんなことができるのだろうか。解釈も意味付けもせずに記憶しておく、そんなことのできる器用な脳みそが欲しい。

織物

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ぼくは、人生を手織物のようなイメージで捉えている。

織物の縦糸と横糸は、他者だ。いろんな人に関わるたび、様々な色の糸がぼくの人生に織り込まれていく。

深く、長く関わった人の糸は、何度となく織り込まれる。例えば黄色に近いオレンジ。
短くても濃密であれば、その部分はその人の色が濃く現れる。例えば濃い藍色。

こうして、ぼくの人生が様々な人に彩られていく。願わくば、信じられないくらい様々な色の糸が混じり合って、色として表現できぬような色合いになり、深い深い艷をたたえた織物になりますように。

問題解決

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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問題解決には、2つのアプローチがある。1つは帰納的アプローチ。「なぜ?」を積み重ねていき、原因を特定するというやり方だ。例えばプログラムのデバッグ、数学的帰納法などが挙げられる。通常問題解決と言えばこちらのアプローチが想像されよう。もう1つはメタ的アプローチだ。問題が生じている前提そのものを変更してしまい、問題そのものをなくしてしまう。こちらのアプローチは、例えば「ソフトウェアの品質と開発効率を向上したい」という場合にフレームワークを開発したり、仕事が締め切りに間に合わないときにゴールそのものを変更する、などの例が挙げられる。これらのアプローチは、どちらも一長一短ある。帰納的アプローチは、多くの場合即効性があるし、多くの人が慣れ親しんでいるアプローチでもある。ただ、問題の捉え方が近視眼的になったり、解決できる問題の範囲が狭かったりする。メタ的アプローチは、多くの場合コストがかかる。また、メタ的な思考が得意な人が多くはない、組織において前提を変えるためには権力が必要、前提を変えたときに生じる結果が予想しきれない、長期的視野が必要になるため、拙速な結果を求める人には価値が伝わりづらい、と言った問題がある。ただし、その効果の大きさは凄まじい。これらは使い分けが必要であると同時に、人によって好みの分かれるところでもあろう。ぼくは個人的にはメタ的なアプローチを常に好んでしまうが、使い分けも必要だ。

メタ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を読み、メタとは何なのか、更に深く考えたい気持ちになった。同書は、メタということについて様々な角度からこれでもかというくらい、メタについて述べている。が、何か欠けていると感じる。例証と分析は余すところなく行われているのだが、メタをテクニックとして実生活に活用するような、実践的な知識に欠けている気がする。そこで、どうせまとめきれないと割り切りつつ、実践的なメタについてあれこれ考えてみる。自分用のメモなので、一切の補足説明は行わない。まずメタで思いつくのが、物事の共通点を見つけるという行為である。これは、オブジェクト志向言語における親クラスやインターフェースを見つけ、定義することにそのまま対応する。
では、共通のユーティリティを作ることはどうだろうか?メタ的と言えるだろうか?いや、言えなそうだ。この違いは?全く異なる事象に同型対応を見出す行為は?アナロジーと呼ばれる。アナロジーはメタであるか?GEBによれば、YES。アナロジーが成り立つところ、それはすべてメタ化が可能であり、それはすなわち共通のインターフェースを定義できることになる。細胞によるタンパク質合成処理と、ゲーデル数化の間に、共通のインターフェースは定義可能である!メタとは「解釈」という行為に大きく依存しており、だからこそフレーミングが問題となる。解釈あるところには「意味」がある。同じ記号に対して、異なる解釈を行って異なる意味を充てることもできる。多段階の解釈により、メタレベルを積み重ねることもできる。コンピューター上で、数値を文字として解釈し、扱うことができるように。解釈とは、ルールを伴うものである。だからメタとルールは切り離せない。そこで問題になるのは、ルールを守るべきルールはない、という鉄則である。合理的なルールの積み重ねを紐解いていくと、非合理的な、不可壊なレベルが残らざるを得ない。それは、法治国家が法を強制するために、理外の暴力(警察力、刑罰)に頼らざるを得ないことと全く同型である。メタ化は問題解決の手段として取り上げられることも多い。なぜか?原因を辿っていくというプロセスが、メタ化と近いのか?しかし、そこには違いがあるのは間違いない。単に帰納的であることと、メタな…

哲学

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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哲学的なものに魅せられてから10年近くになろうか。一時期のように哲学書を読み漁ることもなくなり、一時期は「自分の中での哲学は終わった」とすら思っていたが、一つだけ答えの出ていない問いがあった。それは、「哲学とは何か?」という問いである。この問いに、決まった一つの解答があるとは思えない。答えはこの問いに向き合った人の数ぶんあるだろう。そんな、「自分なりの答え」が求められる問いではあるが、この問いにぼくはずっと答えを出せていなかったのである。 だが、ここ最近(ブログの更新が捗っていることからも分かるとおり)また内省を活発に行っていて、その中でふと、この問いに自分なりの答えを出すことができた。その答えとは「哲学とは、『とは何か』という問いから逃げないことである」というものだ。この世には、考えるのが面倒な事柄がたくさんある。そうした問題に興味を持ち、考え、調べ、答えを出すというのには膨大な時間を要する。あらゆる問題に関心を持ち、答えを探るというのは、一人の人間の一生ではとても時間が足りない。だから、どんな問いに関心を持ち、どんな問いに向き合うかどうかは、その人の生き方そのものを決定付けると言ってもいい。ただ、問いについて考えるのはとても面倒だ。ましては自分で問いを立てるなど。だから、問いから逃げたり、他者が出した答えを鵜呑みにするのも、その人の人生だ。ただ私は、問いから逃げない存在でいたい。関心を持った出来事には深くハマり、疑問を抱き、答えを探り、そのうち多くの人が向き合っていない問いにたどり着いてしまい、どこを調べても納得できる答えがなく、しょうがなく自分で考え、その思考の過程で様々な情報や人に出会い、吸収して、何年経とうとも答えを出すことをあきらめない。私は、そんな哲学者でありたい。

バイアス

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
==== 価値判断とは、必然的にバイアスを伴うものだ。
だからぼくは、バイアスを排除したものの見方をしたかったがために、あらゆる価値観を投げ捨てたかったのだ。
しかし、そうも行かない。価値観という尺度がないと意思決定が行えない。 だから、生きていく上で最低限の価値観を、意識的に保持しておく。その価値観は相対的なものであり、一時的なものであるとの自覚を持ちながら。
これが、ぼくがここ数年言葉を尽くして考え、語り、実践してきたことの全てであった。 昨日の「ゆるふわ哲学コンパ」で、「価値判断」と「バイアス」という言葉が一つの議論の中で同時に出ていたことが、この文章の一行目の気づきにつながった。それによって、数年来の思考と実践が、シンプルな言葉に凝集した。
しかし、なぜこのシンプルな結論を得るのに長い年月を要してしまうのだろう?
常々感じてきたことだが、シンプルさというのは、ただ物事を削り落としていけば得られるものではない。そこには、飛躍が必要だ。そして飛躍する勇気も。そして、得られたシンプルさは何にも代えがたい価値を生む。

関心の抑制

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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関心を抑制することは可能だろうか?
例えば好きになってはいけない人を好きになりそうだとか、手を出してしまったら膨大にお金が必要になりそうな趣味(沼)だとか、果ては違法薬物だとか、リスクを伴うことに関心が向きそうなとき、それを抑制することは可能なのだろうか?結論から言うと、無理だと思う。関心という現象は、感情や欲望に根ざすところが大きい。うつ状態になると、無感動と無関心、そして無欲が同時に発生するのはそのためだ。
何にも感動しない「不感症」(ぼくは少年時代そういう人間であった)であれば、そもそも何に対する関心も沸かずに済むだろうが、そこは目指すところとは違う。感情も関心も(ついでに欲も)豊かなまま、リスクを伴う物事に関心を抱かないようにするには、方法は一つしかない。「近付かない」ことだ。まさに「君子危うきに近寄らず」である。では、危うきに近付かないためにはどうしたらいいのか?知らないままでいる、というのもいい。リスクを感じ取ったらそれ以上深入りしない。ただ、知ってしまったらどうするか?まず、関心を覚えてしまう前に恐怖を植え付けるのは有効だろう。禁止薬物への対処などがその典型だ。情報を隠してしまうのではなく、そのネガティブ面を積極的に発信し、「怖いから近付かない」という意識を醸成する。ただ、そうもいかない場合は?
関心が自然と向いてしまうのを止められない場合は?
むしろ、関心を抱いてはいけないと知りつつも、一方でそれを望んでいるような、アンビバレントな感情に支配されてしまっている場合は…? 正直、「痛い目を見る」しか、処方が思いつかない。なんという結論だ。

関心と人間

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ぼくの人生は「関心」という現象の理解に費やす、と決めたわけだが、本当に難しくて奥の深い現象である。 ジェンダーについて軽くメモを書いたときにも感じたことだが、関心の対象が「人間」になった瞬間、独特の問題が多数立ち現れる。通常の人間にとっては、人からの関心は「強すぎない」ことが望まれる。強すぎる関心は問題のもとだ。嫉妬妄想やストーキングがその典型的な例である。いや、「強すぎる」ことが問題なのではない。関心が不均衡だった場合に、人は不満を抱くのだ。例えば自分が強く相手に愛情を抱いているとき、相手からも同じくらいの強さで愛してほしいと願うものだ。相手からの関心が、自分からの関心よりも少なかった場合に、人は強い不満を抱くのだ。図式としては単純であるが、関心の均衡を取るというのは、なかなか難しいことでもある。関心は、自分の心の内で発生するものとは言え、意志の力でコントロールするのが難しい対象の一つだからだ。片想いなどがその典型だろう。
相手が自分に関心がないからと言って、自分の関心を下げることは難しい。むしろ、関心を下げねばと頭で考えれば考えるほど想いが強まりさえしかねない。関心の「量」のみならず、「質」も重要となる。例えば人間以外の対象であれば、「金目当て」(得られる実際の利益目当て)で関心を向けても特に問題にはならない。(年収アップのために努力して勉強する、など)
だがこれが、「金目当て」で人に近づくとしたら、それは非難されるだろう。
(ただ、ここまで書いてみて、関心の「質」というのは、人間という多面的な存在の「どこ」に関心を抱くかという問題な気がしてきたので、この議論は一旦ここまでとする)とりあえずこの文章で指摘したかったのは、・関心の対象が人間の場合、特殊な事象となる
・人間は、相手の関心が自分と同等、同質であることを望む
・関心は自分でコントロールしにくい。だから、関心の不均衡という問題が生じたとき、それを解決するのは容易ではない。恋愛のトラブルなどはだいたいここに端を発しているのではないか

言い方

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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現象はただそのままにある。人間は、そこから何かを学び取ろうとする際、「解釈」という活動を行う。それは単に「記憶する」こととは違う。意味付けし、理解するということだ。ただ、その「解釈」が人によって様々である。また、解釈は恣意的に行うこともできる。例えば同じ事象からでも、180度異なる解釈を引き出すことも可能だ。こうした解釈の多様性は、ときに問題を引き起こす。絶え間ない論戦や終わりの見えない議論など、人間社会でよく見る光景だ。こうしたとき、積み重ねた解釈をどんどん解いていき(エポケー)、一度事象そのものに立ち戻る必要がある。それが現象学の要諦だ。現象学の理論そのものは、本質を突いたものだと思っている。ただ一つ、エポケーを行う人は多くないと言う点を除いては。人類全員が現象学を学べばいいのかも知れないが、そうもいかぬ。それに、もし人類全員が現象学を学んだとしても、現象学自体に対する解釈の相違なども生じるものだから、話は単純ではない。とはいえ、今の時代に割と価値観が相対化して多少の自由が確保されているのは、現代哲学の影響も大きいだろうから、それ以上は望みすぎというものかもしれない。と言うことで、エポケーをする習慣を個人的には身に付けようと四苦八苦しているわけだが、こと今日に至って、至極当たり前のことに気付いた。解釈とは、有り体に言えば言葉にすることだ。では、世界をどう解釈するかは、どのような言葉遣い言い方に掛かってくると言うことだ。世界は私の言葉遣いに掛かっている。言葉遣いや言い方は、コミュニケーションの上で非常に重要だとは常々思っていた。また、現実を解釈する上での言葉遣いの重要性も薄々感づいてはいた。
自分の言いたいことを我慢せず言えるかどうかは言い方次第。現実をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは言葉遣い次第。しかし、私の世界そのものが言葉遣い次第だと言う発想はこれまで持っていなかった。これほどに、言葉は重要だったのか。この発見は、ぼくにとっては大きな一歩だが、この文を読む殆んどの人にとっては大げさ過ぎると感じられるのではないだろうか。
ただ、ぼくにはとてつもなく大きな発見だ。言葉遣いを変えれば、私の世界を変えられるのだから。私にとっての世界の有り様を言葉使い…

解釈と学び

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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学びとは、解釈の積み重ねである。学びと言うとどうしても書物からの学習を想起してしまいがちだが、そうではない。 学ぶ対象とはあらゆるところに存在する。そうした存在からの体験をいかに自分の中で解釈し、整理し、内に留め、そして行動に反映していくか。それが学びということである。ならば学びとは、体験と内省の量に比例すると言えよう。いや、比例ではない。すでに学んだことを応用することにより、学びの速度は指数関数的に上昇すると言って良い。ということは、より多くの体験と、より多くの内省を行うことで、学びの多い人生を送ることができるということになる。そのために必要なのは関心と時間だ。あらゆる体験に学びがあると考え、あらゆる体験を積極的に受け入れていく関心の強さと柔軟性。そうした体験を内省し、自分の学びに変えていくための時間の確保。そして更に言えば、そうした学びを実際に活かせる場が必要だ。個人的なことを言えば、起業家と言う道を選んだことで、そうした場には当面不足しそうもない。他者の学びを促進する立場から言えば、関心を向けるところから学び、内省、活用までを一セットで考えるべきだろう。少し話が逸れた。この文章は、特に「体験とその解釈こそが学びである」ということを考えたいのであった。人生を生きていると、どうしてもつらいこと、悲しい出来事に出会うこともある。
それを単に悲しみ続けるのか、それともそこに意味を持たせて(解釈して)学びとするのかは人それぞれである。幸いにも、色々な種類の体験をしてきたおかげで、体験を学びに変えるという転換については割と得意になっている。そしてさらに最近学んだのは、その転換は早すぎてもいけないということだ。感情的な納得感が得られていないときに無理な解釈、無理な納得を行うことは、問題をより根深いものとして心のうちに沈殿させてしまう。こうなると、問題に対して納得の行く解釈がいつまでも行えずに、再解釈のループにひたすら時間を使うことになってしまう。感情的な問題が生じたときにまずすべきことは、とことんその問題と感情的に向き合うことだ。泣けばいい。ボロボロになればいい。人を恨み、憎めばいい。口汚く罵るといい。感情的に「行くところまで行ってない」状態というのは、その体験がまだ「…

優しさ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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コピーライターとして、「優しい独裁者」というフレーズが好きである。この、ギャップのある2つの単語を組み合わせたウィットに富んだフレーズは、主にオープンソースプロジェクトの意思決定スタイルに対して用いられる。ちょっと遊びで、「優しい」に続けて高圧的なニュアンスのキーワードをつなげてみよう。優しい支配者
優しい権力者
優しい独占者ふむ悪くない。どれもできることなら「なってみたい」と感じさせるようなフレーズばかり。これらは、優しいという言葉のニュアンスが、ネガティブなワードの意味を包み込んで、より豊潤な意味を含有しているように感じさせる。ただ、こうした高圧的なワードは種類が多くないので、すぐネタ切れになってしまうのが難点だ。では、ネガティブなワードを直接「優しい」に連結してみてはどうだろう?怖いけど優しい
厳しいけど優しい
冷酷だけど優しい
暴力的だけどとても優しい
とことん非道でとことん優しい
残虐、残酷、なのに優しい最後の方は映画のキャッチコピーみたいになったが、どれも魅力的。優しいというワード、すごい。

フェーズ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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仕事で、物事を「フェーズ」に分けることはよくある。フェーズは、自分が意図して分けることもあれば、主に外的要因から意識せず分かれることもある。ここでは、前者の能動的なフェーズ分けのことを「フェージング」と呼ぶ。以前はこの「フェージング」を、単なる区切る行為としか思っていなかったのだが、最近、フェージングの重要性をとみに感じている。それは、フェーズには意味を持たせることができる、という側面の重要性を感じ始めたからだ。人は何にでも意味づけを行うことができる。日付にも、物にも、そしてフェーズにも。そして、フェーズに意味を持たせることは人間の目的意識に作用するという側面から、とてつもなく重要なものだとわかってきた。長い時間のかかるプロジェクトをフェーズに区切り、それぞれに意味を持たせることで、人間はその期間内に目標を達成しようとし、目的意識が醸成される。ぼくがこれから直面していく経営の現場でも、フェージングをいかにうまく行えるかが、重要なファクターになりそうな予感がしている。そして、長いプロジェクトと言えば人生もその一つだ。学生時代は、小中高大と社会が定めたフェーズが存在し、人は無自覚的にそれらを意味的に区切って記憶している。社会人になると、転職や異動などがフェーズとして認識しやすいものだろう。
他にも外的要因として、結婚した、子供ができた、大切な人に先立たれた、失恋した…などがあるだろう。人生におけるフェージングでも、大事なのはその意味づけだ。いくら転職をしようと、それがその人にとって大した意味を持たなければ、ひとまとまりのフェーズにしかなりえない。逆に、なんてことない朝の目覚めがその人にとって大きな意味を持ったように感じられたのだったら、その前後は明確にフェーズとして分けることができるだろう。そして、フェージングは未来に対してのみ行うものではない。過去についての意味づけにも行うことができる。例えば悲しいことがあったとして、悲しかった期間だけを取ればただの悲劇だったとしても、その期間を少し広げるだけで、自分を成長させてくれた大事なフェーズとみなすこともできるかもしれない。人生は、フェーズに分けて意味づけすることでストーリーとなる。ぼくも最近、大事な一つのフェーズが終わっ…

通じ合い

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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気持ちの悪いタイトルだ。
そして、気持ちの悪い内容を書く。友だちづくりが下手で、孤独感に苛まれた少年時代を送ってきたからか、今のぼくはコミュニケーションに対して異常な執着がある。フェチである、と言ってもよい。「心が通じてるな」と思えるコミュニケーションのあとは、とても気分が良い。が、その逆になると大変だ。「通じなかった」「すれ違ったまま終わった」なんてコミュニケーションのあとは、ひどく落ち込む。激しく自責するし、後悔もするし、いつまでも引きずる。
自然と忘れられればいいのだが、本当にぼくはディスコミュニケーションが苦手なので、トラウマレベルに忘れられない。結果、考え続ける。足掻く。自分が納得できる行動や解釈ができるまで、それは続く。先日もそういうことがあったばかりだ。辛くて辛くて死にそうだった。色んなジレンマと同時にディスコミュニケーションも発生していたものだから、辛さの理由がそこにあると気付くのが遅れて、塞ぎ込む日々が続いていた。終わってみれば結局、自分の独りよがりな言動がコミュニケーションを阻害していて、相手が何を考え何を望んでいるのか全くわからない…というのが辛さの原因の多くを占めていた。この一件があってからというもの、本当にぼくは反省をした。ぼくの人生にとって、ディスコミュニケーションは最大限の努力を払ってでも忌避すべき事柄なのだと。さもないと身がもたない。精神力も時間も膨大に費やされてしまう。ということで、ぼくは人と関わる際には「通じ合い」を最大のテーマとすると決めた。独りよがりなコミュニケーションはもう二度とするまい。あらゆる人の良き聞き手、誠実な相談役、インタビュアーを目指す。これはその決意表明である。

「人的価値」に関するメモ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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先日、とある女性とジェンダー問題について語り合うという貴重な機会を得た。

そこでいろいろとお話をさせていただき、結局の所、ジェンダー問題とは価値観の問題が大きな比重を占めると感じた。特に、価値を量る対象が人間であるというところが様々な問題を孕んでいるように感じる。

雑なまとめではあるが、その場で出た話のポイントをメモしておく。今後のブラッシュアップのためのたたき台として。

相対性: 価値観はコミュニティやコンテキストによって異なる。例えばテックコミュニティは現在女性が少ないので、「女性であること」の価値が重く感じられやすい。変更可能性: 「性別」「容姿」「国籍」など、先天的に与えられた属性による価値付けは当人には変えようがない。こうした、変更可能性の低い属性による価値付けは、当事者にとって納得し難い時がある代替可能性: 分業社会においては、人間の属性のうち「利用価値のある」属性が求められるが、その属性の代替可能性が高ければ高いほど、当事者の納得感はより薄い。例えば「女性」という属性のみを利用する場合、「女性であれば誰でもいい」ということになる。普遍性: 価値観に伴うこれらの問題は、人間社会にとっては避けがたく、繰り返し立ち現れるもの。そこに理不尽を感じた場合、声を上げて戦うもよし。開き直って利用するもよし。

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった

細胞

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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細胞が入れ替わる、という体験を一生のうちで何度かしている。
これはもちろんもののたとえで、自分の中で大きなパラダイムシフトが起きたときに、思考が根本から組み替えられていく様をそう言い表しているに過ぎない。エンジニアだった自分が、ライターになったとき。社会起業家の道を選んだとき。その道に挫折したとき。コミュニティに一旦、自分の人生を捧げると決めたとき。コミュニティを卒業したとき。スタートアップ起業家を志し、テックフィードというサービスを作ると決めたとき。初めて事業計画書を仕上げたとき。最近だと、株主の目を意識して、組織づくりについて真剣に考えはじめたことで、また大きなパラダイムシフトを体験している。こういう体験をするたびに、自分がいかに小さく凝り固まっていたかを知る。自分の思考を縛っているのは、いつもほんの些細なことなのだ。ほんの些細な無知や思い込み、こだわり。そんなものに縛られて、いつもいつも遠回りをしている。細胞の入れ替わりの果てに、人間になれる日を夢見ながら、今日も狭っ苦しい思考の小部屋の中で、ぼくはみっともなく藻掻いているのです。

許可

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、とある女性の恋愛の悩みを聞く機会があった。女性にとって、男心とはわかりにくいものであるらしい。男からすると単純この上ないようにおもえるのだが、思考の寄って立つ基盤があまりに違いすぎるので、理解が難しいのだろう。なんてことをこないだ考えていたら、ふと、男の女性に対する行動原理を「許可」という言葉で語ってみては、ということを思いついた。昆虫の世界でも一般的なくらい、この世はオスがメスにアピールをし、メスが許可を出すという構図が行き渡っている。頼むのは男、許すのは女性。そして男は単純だから、一度許されたとなれば、際限なく許されたものと思い込む。手を握る、キスをする、セックスをする、夜遊びをする…etc。際限なく許されたと思っていたのに、女性が「今日はダメ」など時と場合によって許可を取り消したりすると、男は大変傷付く。すぐ、永久に許可が取り消されたのではないかなどと疑い、パニックになる。単純だから。まあ世の中にはいくらでも反例があるだろうし、この理屈で男女関係の何もかもを説明できるなんて思いはしない。ただ一つ言えるのは、女性に許可を出されたときの喜びというのは、男にとってこの世でも最も甘美な喜びの一つであろうと言うことだ。まさに天にも登る気持ち、圧倒的な幸福感、達成感。そんな喜びを与える力が自分にあるなんて、そしてその喜びを得たいがために男が凄まじい力を発揮したり努力したりするなんて、世の中の女性の皆様はご存知なのだろうか?「女性からの許可を得ること」が男の生きがいの一つと言っても、過言ではあるまいとぼくは信ずる。信じてどうなるものでもないのだが。

権利

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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権利、という言葉にある種の難しさを感じる。権利とは「主張するもの」と相場が決まっているが、そこにある「声の大きさ」や「押し付けがましさ」、「言ったもん勝ち」というニュアンスはどうにも扱いづらいものを感じる。とはいえ権利という概念を否定するものでは全くない。この世は残念ながら永遠に不平等だが、不当に扱われているマイノリティなどにとっては、権利を主張し、社会に存在を知らしめ、自分たちにも生きやすいように社会をアップデートする提案をしていくことは、大いに推奨されるべきものだ。一方ぼくは、権利の主張という行為と無縁の人生を送ってきている。それはぼくがたまたま、理不尽な不平等に晒されることがなかった…という幸運に恵まれてきたということの証なのかもしれない。ただもう一つ言えるのは、ぼくは性格上「大声を張り上げる」ような行為がとことん苦手だということである。これでもまあ、いじめとか疎外とかそれなりに理不尽な目にあってきた記憶もあるが、その時ぼくは大概だんまりを決め込んできた。理不尽というのは他者によってもたらされるものであり、他者とは自分の意にならぬもの。他者を変えるのは容易ではない。理不尽が一瞬で終わるなら我慢するか、続いたりあとに影響することであれば、他者を変えるよう努力するしかない。そうか、権利の主張というのは、他者を変えようとする行為のことだ。そういう意味では「説得」と目的は変わらない。権利の場合は、不特定多数の人に向かって変化を促そうとするから、どうしても短いキャッチフレーズやキーワードを捻出せざるを得ず、そうなると解釈の余地が多分に生まれ、論争が沸き起こりやすい。こういうことか。オチなし。

瞬間

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ある文章を書くとき、最高に機が熟したタイミングというものがある。その瞬間を逃しては書けない文章というものがあるという文章を綴ろうと、ちょっと前にメモを残しておいたのだが、はて、これ以上何を書こうと思ったのかさっぱり思い出せない。これは、この文章そのものが機を逸してしまっているという例だ。こうならないようにしなくてはならない、という反面教師。なんか最近、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」にハマっていたせいで、こういう自己言及的な構成が大の好みで、かつ、そういうふうにすればオチがついたと思ってしまう自分がいる。おっと、こういうふうに自分自身の構成についてメタ的に言及するのも、GEBが大の得意とするところであった。というふうに、自分自身の構成についてメタ的に言及するのも…(無限に続く)

存在

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ハイデガーが人間という概念を「現存在」とわざわざ読み替えていた意味はよく知らぬ。が、人間同士が存在を認識し記憶するとき、そこには特別な意味を有することがある。人はふとした偶然で、誰かにとって特別な存在となる。親子。兄弟。夫婦。恋人。ライバル。親友。誰かにとって自分が特別な存在である、というのは何にもまして甘美な経験である。それは「自分の存在がこの世で代替が効かないもの」とみなされることに他ならず、自分という存在の圧倒的な肯定と同義であるからだ。それだけに、その立場が脅かされることは、大きな不安と恐怖をもたらす。子供が親離れしようとしていることに気づいたとき。恋人が自分のもとを去ろうとしているとき。人は必死に悲しみを抑え、少しでも長く相手を手元に置いておきたいと願う。相手にとって、自分が特別な存在である期間を少しでも伸ばそうとする。恋人と別れたときのように、自分が相手の中で「その他大勢」と同じになってしまったとき、その寂しさはどうすれば癒やされるのだろう?自分の存在が、この世界の中でまた一つ軽くなってしまった悲しみを、どうすれば振り切れるのだろう?忘却することだ。どうせ、ほかのどんなもので埋め合わせようとしても、埋め合わせきれるものではない。相手にとって自分が特別であったように、自分にとっても相手は特別で、世界でただ一つの存在なのだから。年を取ると、別れが日常となり、別れの悲しみにも鈍感になれるそうだ。それはすなわち、自分の存在がこの世界でどんどん軽くなっていくことに慣れるということ。そんな日々を恐れる自分がいる。しかし、そんな日々を少し心待ちにしている自分もいる。