注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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先日のブログで、これまで考え散らしたことを統合したいと述べたものの、なかなか書き出せずにいる。筋道立てて、読者の心にすんなり入っていくような文章を書こうと考えたりすると、どうしても時間がかかってしまう。
と、このブログは読者不在を心がけていることに気付く。そう、考えるくらいなら書け。ということで、書きながらまとめていく。というかどうせまとまらないだろうが、自分の中で以前よりも系統立てて整理できていれば、これから一連の記事を書こうとしている目的は果たせたというものだ。
そもそもぼくがしちめんどくさい思索の渦に巻き込まれるようになったのは、2010年だったか、確か新幹線移動をしている最中に、ふと「この社会は何なのか」と考え、マインドマップで整理し始めたことから始まる。
ただただ考えの枝葉を伸ばし、世界について生まれて初めて深い関心を寄せながら、今考えれば極めて幼稚な世界像を組み立てて悦に入っていたのを覚えている。
そのうち、自分の知っている材料だけから類推するのでは物足りなくなって、本を読み出した。そうして多少の本を読んで、これまで気づいていなかったことにいくつも気付かされる快感に目覚め、そのたびに考えが深まっていったような気持ちになったものだ。
そうしてどんどん頭でっかちになり、くだらない思想の偏りや、現実世界での看過し得ない副作用と、個人的には身がよじれるような悩みの時期を経て、たどり着いたのはウィトゲンシュタインやニーチェ、フッサールなどの「反哲学」だった。
そこから言語を疑い、価値を嘲り、全ての思想を思い込みと断ずる時期を経て、自分がいかにものの見方を変えようとも世界は1ミリも変わらず、しかし世界像は自在に変化し、それこそがぼくにとっての世界といえるものかもしれず、だとすると世界はいかようにでも変えられ、となれば自分が見たい見方で世界を見るためには自分が人生に満足するしかないと感じ、結局自由の問題に至り、自分なりの答えを出し、今ここに至る。以上。
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先日のブログで、これまで考え散らしたことを統合したいと述べたものの、なかなか書き出せずにいる。筋道立てて、読者の心にすんなり入っていくような文章を書こうと考えたりすると、どうしても時間がかかってしまう。
と、このブログは読者不在を心がけていることに気付く。そう、考えるくらいなら書け。ということで、書きながらまとめていく。というかどうせまとまらないだろうが、自分の中で以前よりも系統立てて整理できていれば、これから一連の記事を書こうとしている目的は果たせたというものだ。
そもそもぼくがしちめんどくさい思索の渦に巻き込まれるようになったのは、2010年だったか、確か新幹線移動をしている最中に、ふと「この社会は何なのか」と考え、マインドマップで整理し始めたことから始まる。
ただただ考えの枝葉を伸ばし、世界について生まれて初めて深い関心を寄せながら、今考えれば極めて幼稚な世界像を組み立てて悦に入っていたのを覚えている。
そのうち、自分の知っている材料だけから類推するのでは物足りなくなって、本を読み出した。そうして多少の本を読んで、これまで気づいていなかったことにいくつも気付かされる快感に目覚め、そのたびに考えが深まっていったような気持ちになったものだ。
そうしてどんどん頭でっかちになり、くだらない思想の偏りや、現実世界での看過し得ない副作用と、個人的には身がよじれるような悩みの時期を経て、たどり着いたのはウィトゲンシュタインやニーチェ、フッサールなどの「反哲学」だった。
そこから言語を疑い、価値を嘲り、全ての思想を思い込みと断ずる時期を経て、自分がいかにものの見方を変えようとも世界は1ミリも変わらず、しかし世界像は自在に変化し、それこそがぼくにとっての世界といえるものかもしれず、だとすると世界はいかようにでも変えられ、となれば自分が見たい見方で世界を見るためには自分が人生に満足するしかないと感じ、結局自由の問題に至り、自分なりの答えを出し、今ここに至る。以上。
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