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12月, 2017の投稿を表示しています

貪欲

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ふと、過ちに気づいた。「自分の中で答えが出てしまったから、ブログに何も書いていなかった」などと書き、実際にそうも思っていたのだが、なんと思い上がっていたのか。

実際に、ぼくの迷いや悩みは消えていない。質が変わっただけ、もしくは単に問題と正面から向き合わなくなっただけだった。

そして、「答えが出た」などと思い上がっていたこの期間、成長という成長をしていない。いや、ぼくは「成長」という言葉が嫌いだ。伸びていくべき方向が定まっているかのように聞こえる。変化だ。変化していない。変化していないということは停滞だ。ぼくは停滞していた。

満足する、というのは人間にとって害悪なのだと思う。満足は停滞を生む。現状への不満こそが、変化への希求を生む。

そういう点で、真に謙虚であることは、真に貪欲なのだとも思う。自分なんてまだまだ、というのは、自分にはまだまだ変化の余地がある、成長の伸び代があると言っているのに等しい。生涯謙虚であれば、生涯自分の伸び代を信じて、死ぬときまで変化し続けていられる。

もうすぐ齢40を迎えんとするにあたり、「どう老いるか」を考えることが増えてきた。今までなかなかそのビジョンが像を結ばなかったのだが、この文章を書いていて多少明確になってきた。

老いで停滞すること、変化を止めることが、ぼくは恐ろしい。恐ろしくつまらない。例え身体が動かなくなっても、変化していきたい。そのために、無限に謙虚でいること。そうして、最後まで自分を未完成のままにおき、最後まで自分の可能性を信じるという貪欲の中で死ぬこと。それを一旦目標に置いてみて、しばらく様子を見るとしよう。

確認

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近振り返ろうとしている、長いくだらない思索の時間は、大人なら誰でも知っていることを、順を追って「確認」している作業だったという気がする。

例えば自分は決して特別じゃない、自分の人生に価値など見出さなくていい、自分を嫌う人がいるのはしょうがない、友だちなんていなくてもいい、歴史上の理由で決まっていることはたくさんある、何に価値をどれだけ感じるかなんて人それぞれ、体験できることには限りがある、人は理屈より先に感情で答えを出している、物事は言葉では表しきれない、言葉には毒も副作用もある、しかし言葉に代わるツールはない、法律や道徳には無視する自由もある、などなど。

数年前はこれらをわかっていなかったのかと思うと、自分の無知にぞっとする。いや、今でもわかったのかどうか不安が残るが。

しかしそもそも、こういうことを全く知らなかったはずはない。さすがに。だから「確認作業」だったのだ。何となく了解している、しかしそれが「何となく」だからこそ捉えきれていなかったことを、先人たちの言葉に触れることで確認し、実体を捉える作業だった。自分が世界について思い込んでいたことを引き剥がし、ただ事実がありのままに言葉になっているのに触れるだけで「気づき」だと感じていたことがよくあった。

だから、さんざん考えたあと「元の位置に戻った」「一歩も先には進んでいない」という感覚を持つことが多かったのだ。単なる事実確認だったからこそ。

小さい人間の常で、自分が曖昧模糊とした「哲学」とやらをしているとき、自分が高尚な事をしているような気分になって悦に入ったり、人にそれとなく自分の高尚さをアピったりしたものだ。

今では、本当にくだらない時間だったと思う。こんな確認作業をわざわざしなくとも、世界の実像を捉えられる人はたくさんいる。ただ残念ながら、ぼくには必要だったのだ。この小さな小さな人間には。くだらないけど必要な時間ではあった。一般には価値はないけど、ぼくには有用ではあった。

歴私

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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先日のブログで、これまで考え散らしたことを統合したいと述べたものの、なかなか書き出せずにいる。筋道立てて、読者の心にすんなり入っていくような文章を書こうと考えたりすると、どうしても時間がかかってしまう。

と、このブログは読者不在を心がけていることに気付く。そう、考えるくらいなら書け。ということで、書きながらまとめていく。というかどうせまとまらないだろうが、自分の中で以前よりも系統立てて整理できていれば、これから一連の記事を書こうとしている目的は果たせたというものだ。

そもそもぼくがしちめんどくさい思索の渦に巻き込まれるようになったのは、2010年だったか、確か新幹線移動をしている最中に、ふと「この社会は何なのか」と考え、マインドマップで整理し始めたことから始まる。

ただただ考えの枝葉を伸ばし、世界について生まれて初めて深い関心を寄せながら、今考えれば極めて幼稚な世界像を組み立てて悦に入っていたのを覚えている。

そのうち、自分の知っている材料だけから類推するのでは物足りなくなって、本を読み出した。そうして多少の本を読んで、これまで気づいていなかったことにいくつも気付かされる快感に目覚め、そのたびに考えが深まっていったような気持ちになったものだ。

そうしてどんどん頭でっかちになり、くだらない思想の偏りや、現実世界での看過し得ない副作用と、個人的には身がよじれるような悩みの時期を経て、たどり着いたのはウィトゲンシュタインやニーチェ、フッサールなどの「反哲学」だった。

そこから言語を疑い、価値を嘲り、全ての思想を思い込みと断ずる時期を経て、自分がいかにものの見方を変えようとも世界は1ミリも変わらず、しかし世界像は自在に変化し、それこそがぼくにとっての世界といえるものかもしれず、だとすると世界はいかようにでも変えられ、となれば自分が見たい見方で世界を見るためには自分が人生に満足するしかないと感じ、結局自由の問題に至り、自分なりの答えを出し、今ここに至る。以上。

統合

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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2017年も終わろうとしている。そこで、振り返りの文章を書こうとしている。本当はもう少し年末近くに書き始めたほうがそれっぽいのだが、書きたいと思っている事柄が曖昧模糊としているので、時間の限られた状況では書ききれないかもしれぬ。なので、とりあえず書き始めて、思いついた時にまた書き足し、それをもって何となくの本年の締めくくりとしたい。

去年、今年と、あまりこのブログを書いていなかった。理由ははっきりしている。言葉にしたいことはしつくした感があったからだ。

昨年前半、ひたすらに文章を記している時期があった。長年考え続けたこと、悩み続けたこと、それをあと一歩まで追い詰めたという状況であったからこそ、脳が活性化し、次から次へと新たな着想を得て、最後は自分的に答えを出し、終わった。

そうした状況であることは基本的に変わっていない。ぼくを悩ませた諸問題については、ほとんど考えるのを辞めてしまっていたからだ。だから今思うのは、考え散らしたいろいろな物事を俯瞰し、つなげ、幾十万の文字にしたためてきたことを簡潔にまとめてみたいと言うことである。

ぱっと思い返すに、価値観、道徳、法、自由、生の目的、言語、存在と実在、政治システム、経済システム、論理と非論理などについて考えた記憶がある。これらは、考えている当時は単に好奇心の赴くままに次から次へと飛びついていたような感覚であったが、今考えれば全てつながっていた。だからこそどんどん思考の輪が広がったのである。本日を始めとして、こうした数年の思考を統合したい。そして、人生の後半戦に備えたい。