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2017

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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新しい年が始まった。初日はぼくの実家でダラダラしながら、合間にグダグダものを考えていた。ここに示すのはメモであり、私以外の人間が読んでもおそらく意味がわからないだろう。

昨年は、あらゆる価値観を肯定する術を見出したように思い、実践する日々であった。その結果得られた洞察もある。

あらゆる価値観を肯定しようとするものには、いくつかのハードルが現れる。

一つが道徳の問題。道徳に反することを肯定することは可能か、という問題である。これは陳腐な問いのようであり、答えは常にイエスとしか思えない。しかし、道徳の表す対象が、社会的な規範ではなく、内面的な規範や美学であった場合、事は複雑になる。私は、(自分的には絶対許せないと確信している)麻薬の売人や、女性や子供に暴力を振るう男を肯定できるのか?という問題である。絶対に肯定はしたくない。しかし一方で肯定もしたい。それは無矛盾を求める気持ちからである。

一つが主客の問題。私が許せるもしくは許せないことと、社会的に許されているもしくは許されていないことの間に、不一致があった場合のジレンマである。

さらに一つは、勉強熱心な政治家のジレンマである。政治家は勉強熱心であればあるほど、大衆の感覚がわからなくなっていく。大衆はそこまでものを考えていないからだ。これは、大衆をバカにしているのではない。専門家とそれ以外、という構図がある場合にはどこにでも成り立つことであり、いわば社会の至る所にあるジレンマである。ただそれが政治家の場合は、大衆の気持ちと乖離するということが彼にとって致命的だということだ。もしかすると国の将来にとっても。そういう意味で、私は昨年のトランプショックのことは忘れないだろう。
そして、私は価値観についての諸々を考えるうち、一般的な感覚からはだいぶ遠いところに来てしまった感覚がある。おかしい、私は社会一般、人間一般を探求していたはずなのだが。

このうち、前の二つについては今日、解決のヒントが見えた。

個人の価値観と集団の価値観の間にジレンマがある、というのが二つの問いの前提にある。そしてそこに乖離が生じたときに問題が発生する。

しかし私は実は、乖離が生じたときの問題については昨年乗り越えていたのだった。すなわち、社会的な価値観を受け入れるかどうかの主導権は全て私にあり、そのことを私は自由と呼ぶことによってである。

今問題にしているのは、むしろ両者の価値観が一致しているときである。私は詐欺師も麻薬販売者も暴力男も許せない。そして社会もそれを許さない。この一致が見られるとき、私は彼らを絶対悪と見なしてしまいそうになる。この錯覚を私は問題視していたのだ。

この錯覚の原因を探ると、そこには、個人の価値観と集団の価値観の間に、何らかの関連があるという前提がある。この前提が誤っているのだ。そこに今日気付いた。集団の価値観とは、民主的な集団の場合、単に多数派の価値観であるという以上の意味はない。それが一致している場合というのは、単にその個人が多数派に所属しているという以上の意味はない。

個人の価値観と集団の価値観の間に、ほぼ何の関連もないと考えれば、主客の問題も解決する。私は麻薬の売人を許さない。そしてたまたまこの社会も、麻薬の売人を許さない。ただそれだけ。

このことに気付くと、さらに応用できる。例えば、個人の価値観と集団の価値観が一致している場合、そのルールは絶対的なものであると錯覚させることができる。強固なルールの誕生だ。こうしたルールを生み出すために、自生的秩序が重要となる。法ができるときには、すでに個人の価値観が醸成されているからだ。

また、集団の価値観を盾に正義を振りかざす人間は常に現れる。避けようがない。

そうした正義の味方が多数派を占めている状態は、ある意味民主国家として成熟した形である。

…などなど。ここに記したのはあくまで自分用のメモであり、あとで読み返してさらに考えを深めるための種である。乱文失礼しました。

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注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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笑み

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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今この瞬間にしか書けないことを書く(だからこそあとで見ても意味がわからない、たぶん)。ちゃんと笑っている。ちゃんと無意識に笑みを浮かべている。ぼくの意見を否定されたのに。そのことに気付いたとき、ものすごく嬉しかった。ぼくは今、くだらない自尊心が心のどこにも無かった。目的が達成できるなら自分の意見や存在などどうでもいいと思っていた。そして、人が遠慮ない意見をぼくにくれる、この状況を心から楽しんでいた。40年生きて、ようやくここまで来た。第一歩だ。自分のことを健やかに軽んじることができた。ありがたし。