注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- ふと、過ちに気づいた。「自分の中で答えが出てしまったから、ブログに何も書いていなかった」などと書き、実際にそうも思っていたのだが、なんと思い上がっていたのか。 実際に、ぼくの迷いや悩みは消えていない。質が変わっただけ、もしくは単に問題と正面から向き合わなくなっただけだった。 そして、「答えが出た」などと思い上がっていたこの期間、成長という成長をしていない。いや、ぼくは「成長」という言葉が嫌いだ。伸びていくべき方向が定まっているかのように聞こえる。変化だ。変化していない。変化していないということは停滞だ。ぼくは停滞していた。 満足する、というのは人間にとって害悪なのだと思う。満足は停滞を生む。現状への不満こそが、変化への希求を生む。 そういう点で、真に謙虚であることは、真に貪欲なのだとも思う。自分なんてまだまだ、というのは、自分にはまだまだ変化の余地がある、成長の伸び代があると言っているのに等しい。生涯謙虚であれば、生涯自分の伸び代を信じて、死ぬときまで変化し続けていられる。 もうすぐ齢40を迎えんとするにあたり、「どう老いるか」を考えることが増えてきた。今までなかなかそのビジョンが像を結ばなかったのだが、この文章を書いていて多少明確になってきた。 老いで停滞すること、変化を止めることが、ぼくは恐ろしい。恐ろしくつまらない。例え身体が動かなくなっても、変化していきたい。そのために、無限に謙虚でいること。そうして、最後まで自分を未完成のままにおき、最後まで自分の可能性を信じるという貪欲の中で死ぬこと。それを一旦目標に置いてみて、しばらく様子を見るとしよう。