2016年10月31日月曜日

私的言語

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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最近実は、個人的なメモアプリ(Google Keep)に考えを書き留めている。以前はそういう作業はこのブログで行うのが常だったのだが、より自由な思考を求めて、プライベートなメモを使用してみている。

やはり、誰にも見られないことが前提だと、開放的になって何でも書けるのは良いところだ。物事を考える時には、タブーを設けてはいけない。自然と考えの幅が狭くなってしまうからだ。

しかし副作用もある。自分にしか通用しない言葉をどんどんと生み出してしまうのだ。そして、言葉はどんどんと鋭さを帯びる。思考が先鋭化していくのを感じる。誰からも咎められる心配がないので、思考のバランスを取る必要がないからだ。

そうして鋭さを増し、自分の世界で論理的な完全性を何度も確かめられ、容易に崩せないドグマへと変容していく。そうしたドグマは、自分だけでなく他人にも大きな遠慮力を及ぼしてしまう。「絶対的な正当性」という幻想的な力をおびてしまうのだ。

このように、自分の言葉に一面的な「正しさ」を帯びさせることは、プロパガンダが必要な局面では非常に有効ではある。政治家、宗教家、マーケターにとっては必要不可欠な心的作業だ。しかし一方で、その正しさを普遍的なものと見なすようになることは実に容易であり、非常に危険だ。世界を客観的に眺められなくなり、時勢を見誤り、敵を作り、自分と異なる価値観を否定し、世界を狭くする思想だ。さらに良くないのは、その「正しさ」を自らが疑えなくなってしまうと、人にその正しさを伝えたくなってしまうのだ。自分と違う価値観を持つ人に対し「誤っている」と、特にまだ特定の価値観に染まっていない人には自分の正しい考えを植え付けようとしてしまう。これは本当に品のない行いで、絶対に辞めなくてはならない。

今回のことから得た教訓としては、否定を忘れた自由な思索は先鋭化して「正しさ」を帯び始めるということである。こうして一般公開しているブログに、他者の目を多少でも意識しながら書いているのは、そういう「自分へのブレーキ」という意味合いがあったのだと、今頃になって気付いた。

自己批判を忘れてはいけない。常に自分を二律背反の状態に置き、矛盾を飼いならすこと。そうすると言葉を失う。矛盾を抱えたままで正義の言葉を吐くことはできないからだ。そしてぼくは語る言葉をなくし、人の言葉を聴くしか無くなる。ぼくが言葉を発するのは、人の言葉を促す時と、アンチテーゼを控えめに提示することだけ、そうあるべきだ。

2016年10月12日水曜日

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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変な人やものが好きである。正確に言えば、ここ一、二年で好きになった。

ここ一、二年の私の内的な努力は、すべて内なる価値観の破壊であったと言っても過言ではない。無矛盾の美しさを追い求めていた自分から、矛盾を内包することによって生まれる複雑な模様を好む自分への生まれ変わりを欲した。そのために、「良い」「悪い」という感覚を抱くたびに、その感覚を自ら否定し続けた。善悪の基準を持つことは、「良い」ものを目指す志向へとつながり、最後は無矛盾と完全性を求めることに繋がる。そうならないために、私は積極的に矛盾を好んだ。自分と真逆の思考を喜んだ。世界が自分の思う通りではないことを発見するたびにゾクゾクとするような楽しさを感じた。

その挙句が、変なもの好きである。変な人が好きだ。予想だにしない受け答えをしてくれる人と話すのは楽しくてならない。もちろんそういう人は常識もなかったりするから、裏切られることも腹の立つこともあるが、そもそもそんな感情を人に呼び起こされることも珍しい体験なので、面白い。一旦はその「変さ」に辟易して親しい人に愚痴ったりしてしまうこともある。だが、ほとぼりが冷めてみると、そういう変な人がまたも恋しくてたまらなくなるのだ。

そして私は、そういう人たちのユニークネスに比べて自分の平凡さを嘆くのだ。

やれやれ、妙な事になった。この人生、どこに向かうのか。ただ、今が楽しいことだけは間違いない。

2016年10月11日火曜日

哲学脳

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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ゆるふわ哲学コンパというイベントを先日(2016/10/6)に行った。4時間近くに渡り、哲学めいた話に時間と脳を費やした。

哲学にこれほど長時間想いを馳せるのは、実に久しぶりの体験だ。最初のうちは、脳のチャンネルがなかなか合わなくて苦労した。

チャンネルが合わないと、個々の思想を形成する論理を思い出せず、結論だけになってしまう。なぜニーチェはキリスト教への攻撃と、西洋哲学全般への攻撃を同時に行ったのだったか。なぜフッサールは主観と客観の問題を掘り下げることで諸学問の基礎づけを行えると考えたのだったか。うーむ、思い出せない。再勉強が必要だな。

だがまあ、途中から少しずつ哲学的な脳が暖まってきて、最後の方では割と哲学的な直観を取り戻せていたように思う。

哲学を学んできて良かったと思うことは、論理の組み立てが上手になったことだ。しかしここでいう論理の組み立てとは、一分の隙もない論理を構築して相手の反論を許さない、ということではない。むしろ逆だ。自分が限られた情報しか持っていないこと、自分の認知能力には限界があること、自分の考えにはバイアスがかかっている可能性があること…などを率直に受け入れた上で、相手に助けを求めつつ自分なりの論理を披露することだ。事象の分析に費やす時間も、集められる情報も限られているのが世の常であり、その中で最善の結果を導くためには、穴だらけの論理(仮説ともいう)を持ち寄って現実への近似と置き、具体的な行動を以って望む未来を手繰り寄せる努力をしていくほか、ないように思える。