2016年2月29日月曜日

筋道

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
昨日、日曜日朝にやっている将棋の番組を見ていて、取材を受けていた棋士が興味深いことを言っていた。その棋士は、将棋に限らず政治、経済、文化を幅広く網羅する知識の持ち主だとのことだった。彼が言うには、「すべて将棋に強くなるため」なのだという。

なぜ、政治や経済について学ぶことが、将棋の強さに繋がるのか、その筋道は門外漢にはわからぬ。しかし同時に、その気持ちは痛いほどよくわかる。ぼくは、「将棋に強くなる」と言った明確な目標は持たぬまでも、自分の世界を広げたいという欲望は常に切実に感じているからだ。

しかしここでいつもネックになっていたのが、自分が物事に対して関心を向ける際の「癖」だ。ぼくの関心の向け方は、母親譲りなのだろう、深くて狭い。一度のめり込むと周りが見えなくなるタチだ。そういう言い方をすると、人から「そこまでのめり込めるなんて羨ましい」と言われる事も多いが、ぼくからすると自然にバランスの取れた関心を配れるタイプが羨ましくてしょうがない。ぼくはこの性格のせいで、いつまで経っても世間知らずだし、自分が関心を持てないことを「価値が低い」と断じてしまう悪い癖からなかなか抜け切れない。

ただ、最近では朗報もある。1つは、自分が歩み始めた「起業家」という道は、あらゆることに関心を配ることが、本当に重要だということ。経営者にとって世間知らずは致命的だ。それは、あらゆることに関心を配らねばならない理由となる。そして、理由があるとぼくはハマれるタイプである。筋道が必要なのだ。件の棋士も、きっとそういうタイプだと信じて疑わない。

もう1つは、価値観に関してグダグダ考えていたおかげで、先に述べた悪癖 ー 自分が関心を持てないことの価値を低く見積もろうとする ー が、克服できる兆しが出て来たということ。まだまだ完全には程遠いが、自分が何かの価値を低く見積もろうとした瞬間に、「待て」が掛かるようになってきた。価値を低く見積もろうとしているのは、自分の理解が足りていないからではないか?というわけだ(そしてそれは常に正しい)。すると、自分が関心を向けていなかったところにこそ、価値があるもの、面白いものがあるのではないかと思えるようになる。自然な関心が沸き起こるようになってきた。

最近だと、これまで全然興味なかった国際関係や歴史、地理などに少しずつ興味が湧いてきたのを感じる。悪くない。

2016年2月22日月曜日

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
今朝ジョギングをしていたら、道端に死んだ狸を見つけた。どうやら車に轢かれたものらしい。恐らく轢いた人の手によるものだろう、車道の脇にその死体は寄せられており、車の通行を妨げないようにされていた。

一度はその脇を走り過ぎたが、冷たい灰色のアスファルトの上に横たわる暖かい茶色の毛並、という鮮やかなコントラストがあまりに印象深く哀れを誘ったこと、また狸などという獣を近くで見たことも初めてだったこともあり、いつものように神社に参って折り返す頃には、その狸をせめてどこかの土の上にでも置いて、土に戻る手助けをしてやろうと心に決めていた。

とはいえあまりに非現実的に思えて、もしや早朝の眠気がもたらした幻ではないかなどと自分を疑いつつ元来た道を戻っていると、果たして狸は先ほどと同じように道端に伏していた。

口から軽く血を吐いて、狸は横たわっていた。半ばうつ伏せという姿勢ながらも、右の前足はねじ曲がって、体の外側に向かって大きく開いている。車に刎ねられて折れたのであろう。目はかっと見開かれており、まばたきをする気配はない。

意を決して抱き上げると、ほんのりと暖かいような気がした。死後硬直による、生き物ならぬ硬さや手触りを覚悟していたが、多いに弾力がある。もしかすると、事切れたのはつい先ほどのことかもしれぬ。もしや生きているのではと顔をじっと眺めてみたが、やはりまばたきはない。

産まれたての赤ん坊を抱くように、死んだ狸を横抱きにして、ぼくは山に向かって歩き始めた。たまたま狸の死んだ場所は、公園と隣り合った山の向かい側だったので、車道を渡るとすぐに山に向かう道の入り口に立っていた。山と言っても、入り口は人の手によって畑に切り開かれており、高さもビル5,6階あるかないかの小さな山である。それほど山の奥まで行くつもりもないので、ジョギングのための軽装ではあったが、入るのにためらうことはなかった。

山に入ったのは全くの気まぐれである。実際に狸を抱いて道を渡ってみるまでは、山の隣の公園に入って、どこか隅に置いていこうという算段であった。しかし早朝とはいえ、よく整備された大きめの公園では割と多くの年寄りが朝の散歩をしている。そこに、やたらと軽装の中年男が、死んだ狸なぞを赤ん坊のごとく抱いて現れたらさぞ奇異に映るだろうと思い至り、人気のない山に入ることにしたのであった。

恐らく地主が趣味で作ったものであろう、狭いがよく整えられた畑の横を、狸を抱いて通り過ぎると、枯れて尖った草が多い茂った竹やぶ山の麓に足を踏み入れた。なまじ人気がないだけに、逆にここで誰かに出会ってしまったら、ぼくの異様な立ち居振る舞いに悲鳴でも上げられてしまうのではないかと気が気ではなかったが、そんな心配は杞憂であった。畑の周りには誰もいなかった。いるのはぼくと、口の端からわずかに血を垂らした狸のみであった。

竹山の麓に立つと、尖った草の先っぽが足をちくちくと刺す痛みが、この体験を現実のものだと伝えてくる。すぐにでもこの狸を土に還してくれそうな、土の露出した部分を探す。だが地面は枯れ草に覆われており、どうやらそれはかなわなそうであった。一瞬土手の窪みが目に付き、そこにこの狸を入れてはと思ったが、まだ諦めきれずに地面を探す。微生物や昆虫がすぐにでも寄って来てくれそうな、湿っぽい土がいい。しかしこの「土に還してやりたい」という気持ちはなんなのだろう、自然に思えるが、不思議だ。そんなことを考えながら辺りをきょろきょろしたり、竹山の奥に目を凝らしたりしてみたが、どうやら望むような地面は見当たらないようだ。しょうがないと諦めて、先ほど見つけた窪みに狸を入れようと心を決めた。

竹山の麓の土手の、小さな横穴とでも呼べそうな窪みに狸を横たえる。まるでしつらえてでもあったかのように程よい大きさの窪みである。狸の重みを失った自分の両腕には、まだその温もりが残っているかのように思えた。

静かに横たわる狸に対し、愛おしさを感じた。抱き上げてからほんの数分の間に、ぼくの中には狸に対するこの上ない愛着が生まれていた。この場を去るのが寂しい、という気持ちをはっきりと感じながら、狸の死体が少しでも人目に触れぬよう、窪みの上から垂れ下がっていた枯れ草を下に引っ張ったりなぞした。

自然と、合掌した。

狸を抱いていた腕からは、これまで嗅いだことのないような生臭い匂いがした。これが、野生の獣の匂いか。その豊穣な香りを少しでも味合わんと深く息を吸い込みながら、ぼくはその場をあとにした。

次の日も同じようにジョギングをし、その山の前に差し掛かった時、ぼくはまたも手を合わせた。狸の霊が、八百万の神の一柱となって、その場所を守っているかのような想いを抱いた。ぼくにとってその場が特別な意味を持つようになったことを思い知った。

2016年2月21日日曜日

人並み

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
ここに綴られている一連の文章を、どう表したら良いのか、などどうでも良いことを考えていた。

今のところ一番しっくり来ているのは、

「馬鹿が人並みに近づいていく足跡」

と言ったものだ。内省すればするほど自分の無知愚昧を思い知るばかり、というぼくの最近の心境を表現してみた。

ただ恐ろしいのは、「馬鹿」と自分のことを呼ぶことが、別の意味を付与されないかということだ。自己に対する憐憫、陶酔、キャラクター作り、自意識過剰、何でも良いが、書かれている以上のことを勝手に読み取られることが恐ろしい。ただただ字面通りに受け取ってもらえることを望むのみなのだが、「馬鹿」などと激しく、そしてアイコニックなことばを使うからいけない。

そういう点で、上のフレーズはまだまだいかん。ただ今はこれ以上考えるのも面倒なので、とりあえず上のフレーズをドラフトとして記憶に留めておくこととしよう。

2016年2月19日金曜日

フェチ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
何でも屋、になりつつある。プログラミングやライティング、プランニングあたりが得意領域だが、最近はプロダクトマネジメントはもちろん、アプリや名刺、パンフレットなどのデザインを自分でしてみたり、起業するにあたって、ファイナンスなどについても最低限の知識が必要になってきた。

こうして様々な役割を担うようになると、プロフェッショナルとアマチュアの違いとはなんなのか、を考えたくもなる。

例えばデザイン。最近はデジタルなツールが充実しているので、ツールの使い方を少し覚えてしまえば、それなりのものは作れてしまう。で、自分で言うのもなんだが、割と人に見られたり読まれたりという活動をしてきたので、それなりに自分の生み出したものを客観視する力はあるつもりだ。平均点くらいのものは作れる自信がある。

しかし、それ以上となると、なかなか難しい。もっと時間をかけてツールに習熟したり、知識を集めればもっと上達できる気はするのだけど、そこまでは行かない。つまり、「そこまで時間をかけるほど関心が高まらない」というのが、一番のボトルネックなのだ。

ぼくは「関心」というキーワードに特に思い入れがあるものだから、プロフェッショナルとアマチュアを分ける大きな要素は「関心の強さ」だと思いたい。金が稼げてればプロ、とかそんな分け方はつまらない。対象に強い関心を持ち、ひたすら細部にこだわり完璧を目指せる人。それに情熱を注げる人。フェティズムを発揮できる人。変態性すらも肯定される、というより、ぼくは肯定したい。

翻ってぼくは、どんなフェチだろうか。なんにでも関心はあるが、フェチと言えるほどの関心を持って取り組んでいることはない。ただ1つあるとするなら、新しいものを生み出すこと、そこには強い関心がある。今やっている起業活動も、「お金」というものに向き合わずに新しいものを生み出すのには限界を感じたからこそ、お金を扱う術を身に付けるためにやっているのだ。まだまだ一歩を踏み出しただけであるが、「新しい物事を生み出すプロフェッショナル」と呼ばれる日が来ることを目指して、日々精進あるのみである。

2016年2月16日火曜日

悪癖

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
昨日、「周回」という文章を書いたことで、何かひと段落ついたような気がしている。今年に入ってから続いていた内省の日々に、一旦終わりが訪れるのやも知れぬ。

何度も書いているが、こうした内省の日々は、ほぼ無駄だ。自己満足のための文章、多分に反駁の余地が残る論理、そんなものを後に残すだけだ。おまけに、そんな論理すら記憶の彼方に消えていくのだ。

どこかでケリを付けて、現実世界に戻らねばならぬ。現実世界に背を向けて、あれやこれやと理屈を付けることの、なんと楽なことか。昔はこんな時間を貴重なものと考えてきた。今はただの悪癖としか思わぬ。

限られた人生の時間を、そろそろ現実との戦いに振り向けるときが来ているのを感じる。そろそろ。

疑う

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
これまで、人生で数多くの予測を外して来た。「来る」と思った技術が来ない。「外す」と思ったサービスが当たる。「ダメだ」と思ったイベントに結構人が来る。ここまで外すと、もう自分の予測は全く当てにならないと結論付けるしかない。

再三に渡って書いているように、ぼくは価値観のフィルターを外したいと願っているが、それは1つに「バイアスを取り除けば、少しはマシな予測ができるのではないか」という想いがある。自分が知らないもの、好まないものの価値を低く見積もってしまうという、どうしようもない癖をなくせば、もう少し現実と未来をうまく見渡せるのではないか。

確かにそうだろう。だが、それだけではおそらく不十分だ。ただフラットに、遠くから見ているだけでは、対象の価値を正しく感じ取ることができない。価値がわからなければ、それに関心を寄せる人々の求めることも理解できない。

そして、「価値」という言葉には死ぬほど注意が必要だ。散々書いてきたように。同じ関心を寄せる人々の中で価値観というルールが醸成される。そのルールをどれだけ知り尽くしているかが、例えばビジネスで言えば「顧客を知り尽くしている」という評価につながる。

つまり、何事も飛び込んで、そこでのルールを学ばねばならないのだ。そのためにはまず、自分を徹底的に疑うことが求められる。「飛び込まない」という過ちを犯すのは、常に対象を少ない知識で低く見積もる、という自分の悪癖から生まれるのだから。

2016年2月14日日曜日

周回

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
先日のIoCというタイトルの文章を書き終えたあと感じているのが、「また一周回った」という感覚である。

こうした感覚は、実は初めてのことではない。散々色んなことを考え漁った挙句、現実世界に「戻ってくる」という感覚だ。

といっても、旅をして戻ってきたという感覚とは違う。考えを進めるうちにどんどん現実世界から思考が乖離していき、ただの抽象的な記号を操作するような段階を経て、結局は現実世界をただ説明しただけに過ぎないということに気付くという体験である。

この体験を繰り返すうち、自分の「考え癖」みたいなものに特別な価値を置かなくなったのは良い傾向だ。昔は「哲学をしてる自分」にいくばくかの陶酔を感じていたものだが、結局その結果がいつも「あれ?これだけ?」という程度の収穫しかないものだから、これは大いなる無駄である、普通の人はこんなことに時間を使うべきではない、ただぼくはその無駄が好きだからやっているだけだと結論づけるに至ったのだ。

とはいえまあ、全くの無駄とも思ってはおらぬ。一周するたび、以前よりほんのちょっと世界に納得する。世界を説明するシナリオを、一つ増やすことができる。今回のシナリオはこんな感じだ。(今回の文章は、今回の周回に関するログを残すことが目的なので、いつもよりさらにひどい)

ぼくは価値や価値観と言った問題に深い関心を寄せている。その理由は様々だが、主なものを以下に挙げる。

1つは、価値観という物差しが現実認識を歪めることへの問題意識。バイアスなどと呼ばれる現象だ。経営者を志す以上、現実をシビアに捉える感覚が重要だと思ったのだ。

1つは、特定の価値観を支持すると必ず誰かを否定することになるということ。それにより、何人もの人を傷付けてきた。もう誰も否定したくない。あらゆる価値観を肯定したい。

更に1つ挙げるなら、仕事の面でいろんな角度で発想したり、様々な立場の人に配慮したりすることが求められたからだ。画一的な価値観にしがみついていては、発想の幅が限られてしまうし、違う立場に対する配慮も限られる。

そうした内的な要請により、ぼくは特定の価値観に与せず、あらゆる価値観を肯定する態度を身に付けられないかと模索した。そのためにぼくが依ったのが、価値の実在を否定するという手段である。

改めて価値の実在性に疑いの目を向けてみると、価値とは総じて無根拠なものであると気付く。何かが「良くて」、何かが「悪い」と判断するには、何らかの基準が必要だが、概してその基準とは人為的な論理に基づくものだ。

価値基準とはいわば一種のルールである。そのルールが守られる絶対的な保証などない。ルールを守れ、というルールは、無限退行を引き起こす。あらゆる価値観は、疑い得る存在なのだ。

そして、実在と存在の境目とは実は曖昧なもので、そこにある違いは確信の度合いでしかない。例えば目に見え触れるものは、その存在を疑い難く、実在すると感じるに十分な信頼を寄せられる。一方で、目に見えないものの存在は、なかなか信じることができない。目に見えぬ放射能のように。

こうして、価値という存在への絶対性を疑うことにより、価値の実在を否定することで、あらゆる価値の存在を否定し、あらゆる価値観を等しく無価値と見なし、あらゆる価値観を否定しない態度を身に付けようとしたのだった。

果たして、この試みはある程度成功し、従来否定していたものの多くを肯定できるようになった。また、法や道徳と言った社会的な価値観も相対化できたため、精神的な自由も獲得できた。すなわち、「悪を行う自由」の発見である。

しかし、新たな問題も生じる。1つは、生きている限り、価値観の相対化を徹底させることは不可能であると気付かざるを得なかったこと。もう1つは、多くの人が備えている価値感覚をすべて「(無益な)思い込み」と断じてしまう危険性だ。

1つ目の問題について。
すべては等しく無価値、と言う態度を徹底させることは不可能である。あらゆる価値判断が不可能になってしまうからだ。

よく考えると、人間の価値判断というものは、生物としての本能に根ざしたものであるに違いない。生きるため、食うため、殖えるためには、危険より安全を、不味いものより美味いものを、弱いつがいよりも強いつがいを、という判断が必要になる。こうした判断は、それぞれに価値を伴うものと言って差し支えあるまい。どれほど価値を相対化しようとも、生きる上で必要不可欠な価値観というものが残る限り、徹底させることは叶わぬ夢なのだ。

2つ目の問題は、他者の価値観をすべて単なる思い込みとして処理しようとする態度が発生してしまったことだ。

価値観は思い込みの一種であるということに間違いはないとしても、その思い込みが無益であるという前提は間違っている。それどころか、ほとんどの人にとって、それらの価値観は必要に迫られて保持していたり、好んで保持していたりするものであって、有益無益を他者が論じるような類のものではない。というか、それこそ価値観の押し付けではないか。

しかし、価値が相対的だと知りつつ、自発的に価値観を選び取っていくことはできるのではないか。それが今回、論理の円環を閉じることができた気付きであった。なるほど価値観なくしては、生きていくこともままならない。そして人は、自覚しているとしていないに関わらず、価値観の網の目を意識上に張り巡らせ、世界を眺めている。価値観というフィルターがどうしても必要ならば、必要に応じて使い分けていけばいい。

これでようやく、ぼくの内面が、「普通の人」と同じく構成できることになった。価値観のフィルターを幾重にも重ね合わせた内面世界。それを常態として受け入れる態度。しかし少しだけ、以前と違うことがあるとすれば、そのすべてが疑い得ると知ったこと、その「疑わしいもの」を、必要に応じて、もしくは自ら好んで選び取るという意識。

価値観を始めとした様々なルールには、「疑い得ない地点」を求めることはできぬ。絶対性は見果てぬ夢だ。しかしそれらのルールの存在を受け入れ、自らが望んで受け入れるなら、「自ら」がそのルールを守るべき根拠となる。それが自由という言葉の意味である。


2016年2月12日金曜日

IoC

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
----
昨今、有名人の覚せい剤使用が大きな話題になっているが、それを見て、「ぼくは麻薬の売人を肯定できるか?」という思考実験をしていた。

あらゆる価値観を肯定したいと望み、いろんな思考実験をして来た。そのおかげで、以前は許せなかった様々なものを許せるようになってきた。不道徳なことや、自己中心的なことも。だが、麻薬の売人を肯定するのには相当な心理的ハードルがある。

だが、あらゆる価値観を相対化し、そこには善も悪もないという立場を徹底するならば、例え麻薬の売人と言えども肯定出来なくてはおかしい。それは頭では分かっているのだが、どうしても肯定できない、「したくない」自分がいる。この現象について考えていたのだった。

そこで気付いたのは、「肯定したくないならしなければいい」という事である。当たり前の事のようだが、これはぼくにとって大きな発見であった。

なるほど世界に絶対的な善悪などない。例え道徳や法がそれを禁じていたとしても、それが悪である根拠は、突き詰めれば存在しない。

その事実に自分の内面も合わせなくてはならぬと、この世のあらゆる現象を肯定しなくてはと思っていた。そういう人間にならなくてはと思っていた。

だがそれは、自分の中にあるあらゆる価値観や道徳のたがを外す事であり、自身のモラルハザードを引き起こす結果に繋がる。今までの自分には、それは不可避の現象であり、道徳を含む様々な不自由から逃れるためのトレードオフなのだと思っていた。

しかし、そうではない。自分が、そうしたルールを気に入れば、それらを「守る」ことを選んでも良いのだ。麻薬を売るという行為が好きでないなら、人間を破壊するドラッグがなくなればいいと思うのなら、そのルールを支持すればいい。

この文章のタイトルである「IoC(Inversion of Control)」とは、プログラミングアーキテクチャの用語で、「制御の反転」を意味する。今回ぼくが発見したことはこれだ。絶対的に守らねばならないルールや価値観など、ない。しかし、ルールや価値観は、確かに世の中に存在はする。ぼくはただ、自らが望むように、そうしたルールを「使って」行けばいい。

ルールを、守りたいから守る。守りたくないルールは、守らない。ルールを守らねばならない根拠を、外に求めない。これが、「ルールを守らねばならないルールはあるか?」という問いが引き起こす無限退行を押しとどめる唯一の道だ。自分がそうしたいから、ルールを守る。もしくは破る。

これにより、「由なきこと」に思えていた世の中のルール全てが、「由」(根拠)を持つようになる。その根拠とは、自分である。由は我にあり。これが「自由」という言葉の意味するところである、と今は思うことにしよう。

2016年2月10日水曜日

矛盾

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
矛盾という単語を、このブログで何回取り上げたか知らない。同じタイトルで書いたこともあるかも知れない。それほどに、ぼくの中ではこの単語が大きな位置を占めている。

ぼくは矛盾を肯定する。そうしないと、社会も、人も、自分も肯定できないからだ。世界に矛盾が生じる理由の多くは、利他と利己のせめぎ合いによるものだ。利他は社会と言い換えてもいい。利他と利己、社会と個人の間には、論理的な断絶が深く横たわる。

ぼくは矛盾を歓迎する。矛盾と戦い抜いた結果に、シンプルさが生まれる。どうしようもないせめぎ合いはお互いを打ち消し合い、最後に本質的なもののみが残る。物事が複雑なままだとしたら、矛盾と戦い尽くしていないからだ。

ぼくは矛盾を愛する。矛盾を抱えた人間は魅力的だ。深く分裂した2つの顔を持つような人は、なんと複雑で味わい深いことか。強欲な慈善家。淫乱な聖女。心弱き文豪。LGBT。矛盾に悩み、乗り越えようと戦う姿は美しい。

矛盾を嫌い、世界に整合を求めていたのはいつのことだったか。矛盾は面白い。混沌は楽しい。変化は興奮する。不協和音は音楽に深みと刺激を与える。世界はなかなか面白い。

形式知

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
最近、よくこのブログを書いている。そのうち更新も止まるだろうから、書きたいうちにいっぱい書いておこう、という気持ちだ。

これほど書いている理由の一つに、今の自分の思考を形式知にしておきたいという思いがある。正直なところ、今の自分は気に入ってはいるが、危ういバランスの上で成り立っている気がしているからだ。いつまた、根拠なき思い込みと虚栄心に塗れた傲慢な人間に戻らないか、常に不安なのだ。

今の自分 ー 他者からの評価を(そんなに)気にしなくなった自分 ー を成り立たせているものは、自分の思い込みをエポケーすることと、価値の相対化に依るところが大きい。フッサールとニーチェの影響をもろに受けた形だ。しかし、この2つは持続させることが難しい。価値観という物差しは、社会生活を営む上で必要不可欠であり、価値観の固定化(思い込み)や絶対視に至る道は日常の中にいくらでも存在しているからだ。かのニーチェですら、自分の思想の価値だけは疑えなかったのだから。

かように不安定な土台の上で成り立っている心の平穏を少しでも永らえさせたく、その方法を形式知にしておきたいという訳である。まあそれはまた、1つの思い込みを作る作業に過ぎないのだが。

2016年2月9日火曜日

衝突

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
「価値」「価値観」と言った言葉に、なぜこれほど執着しているのか、自分でもよくわからぬ。しかしその理由の一つに、他人との衝突で自分が傷付くのを避けたかった、という気持ちが入っているのは間違いない。

他人はどうか知らぬが、ぼくはコミュニケーションがうまくいかなかった時、割と大きくダメージを受ける方だと思う。傷付く。情緒不安定になる。何度となく思い出す。焦る。それで、突拍子もない行動に出たりする。

コミュニケーションがうまくいかない原因の多くは、価値観のズレだ。自分が大事だと思うことがないがしろにされることほど、腹の立つことはないからだ。

概して人は、自分の思っていることが正しく、価値が高いと思っているものだ。自分が思い付いたアイデア、自分が発見した問題、自分の好きな物事。

問題は、他者と一つのことに当たる場合、必ずしも自分の大事に思っていることが重視される訳ではないということだ。だから人は会社を辞める。人とぶつかる。だから、類は友を呼ぶ。なるべく近しい価値観を持った者同士であれば、ぶつかることが少ない。仲間意識も芽生えやすい。

しかし、社会生活を営む上で、価値観の衝突は避けられない。そして、誰かが重視する物事を、組織として優先できないことも。組織は、必ず誰かの価値観を挫きながら成り立っている。

2016年2月8日月曜日

押し売り

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
自己の価値観を解体する、ぼくの編み出したボキャブラリーで言うなら「結び目をほどく」ということだが、その道半ばにして、一つ困っていることがある。他者が持つ価値観とどう折り合うか、という問題だ。

この数年というもの、結び目をほどいてばかりいる、つまり自分の中の思い込みを解体しようとばかりしているおかげで、なるほどそういう作業には長けてきた。自分の中に生じた結び目を見つけてはほどく。ほどく。結び目は、気付かぬうちにすぐできている。今日この文章を書こうと思ったのだって、自分の中に「結び目は解くのが望ましい」という思い込み=結び目が生まれているのを発見したためだ。

そんな作業に慣れてきたからといって、調子に乗って他者の結び目まで解いてみようとしたりする。新たな何かを身につけたと思い上がった時の、お決まりのパターンだ。

そんな中で、ふと気づく。結び目をほどくことは、そんなに望ましいことなのであろうかと。

人が何かを信じている。その確信には根拠がないかも知れないことを示してみる。すると、一瞬ハッとした顔をした後、少し考え込むような顔になる。

その後、目をキラキラさせて「世界の見方が変わった」とでも感謝の言葉を述べてくれることをこちらは期待する。しかし、結果は芳しくないことが多い。「そういう見方もあるね、でも…」と不満気だったり、ひどい時には、自分の思い込みを正当化しようとする方向にエネルギーが向かってしまい、さらにその結び目が固くなってしまうこともある。

例えば自分の仕事に誇りを持てぬまま、金のために働いている風俗嬢がいたとする。彼女に「職業に貴賎なし」を説いて「自分の仕事に誇りを持つべきだ」などと高説を垂れたところで、彼女の心には少しも響くまい。彼女が望むことは、職種の肯定ではない。自分の肯定なのだ。

要は、結び目をほどくことを相手が望んでいないのに、ぼくが調子に乗ってほどこうとするのがおかしいのだ。還元の押し売りだ。「結び目は解いた方が良い」という新たな思い込みが、ぼくの中に生じていたのだ。だから押し売りする。

そもそも普通の人が持ち合わせている結び目の数々は、この社会を生きていく上で普通に持ち合わせておくべき価値観であり、普段は解体する必要のないものだ。そうした結び目に疑問を持たずに生活することで、人はもっと高次の生産活動や、知識や経験を獲得しているのだ。ぼくが、結び目をほどこうと遊んでいる間に、みんなもっと生産的な事をしている。

自分に向けて、敢えて言いたい。結び目をほどこうなんてことに、思い込みを解こうなんてことに、人生の時間を膨大に費やすことは、無駄であると。無駄だから、普通はそこまで時間を費やさない。

ぼくはその無駄を、好きだからやっている。いわば趣味だ。哲学だの思索だのと、まるで高級な事をしているつもりになるのは愚の骨頂。恥を知れ、と自分に言い聞かせたい。

2016年2月5日金曜日

極端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
ぼくはどうやら、極端を愛する性格らしい。ほどほど、ができない。タバコを吸えば吸いすぎる。お酒を飲めば飲みすぎる。趣味にハマればハマりすぎる。そして、ある時点ですっと、潮が引くように辞めたりする。タバコももう吸ってない。お酒も飲んでない。以前ハマった数々の趣味も、今はほとんどやってない。こういうのは、母親譲りだ。

こういう性格だから、例えばぼくが宗教や思想にかぶれたとしたら、なかなかの狂信っぷりを発揮することだろう。実際、社会貢献や非営利活動に精を出していた頃は、利他的な思考を徹底させようと努めていたものだ。一時期のぼくはストイックな聖人君子で理想主義者であった。

ただ、利他的で社会主義的な思想が行き過ぎると、自分という個人の欲望との折り合いがつかなくなってくる。その矛盾に耐えかねて、「社会起業家」という範疇から逃げ出したし、「善悪とは何か」という問題が、ずっとぼくの中での重要なテーマであり続けることになったのだった。そしてそうすると、今度はそういうテーマをずっと追いかける羽目になるのだ。極端に。

そして、そういうテーマについて考えをあれこれ巡らせているとそのうち、「中庸」の大事さがわかってくる。何事もやり過ぎはよくない。過ぎたるは及ばざるが如し。

そしてこういう中庸的な価値観は、実は多くの人が自然と身に付けている所作だったりする。ぼくが長い長い回り道をして理解し、ようやく実践に移そうかという事柄を、世の中のほとんどの人は考えることもなく実践しているのだ。こういうところからも、最近ぼくが感じている「普通の人が凄い」という感覚が生まれているのだろう。

とはいえ、ぼくのように極端な人間には、中庸は実に難しい。どうすれば中庸をぼくなりに実践できるかを考え続け、そのやり方を見出したのはつい最近だ。そのやり方とは、両極端を全力で肯定することである。善も、悪も肯定する。右も左も。美も醜も。論理も非論理も。おかげで、物事を肯定するためのボキャブラリーがすぐ口を突いて出るようになった。特に「面白い」は魔法の言葉だと思う。

そしてもう一つ。こうやって考え過ぎるのも、極端な振る舞いの一つだから良くない、ということにも気付いている。だから一時期、一切思想や哲学から離れていた時期もある。下手な考え休むに似たり、というやつだ。

しかし、考え過ぎる性格もどうやら性分らしく、やめられない。だからぼくは、考えはするけれども、その考えは無価値であると思うようにした。自分の考えたことを後生大事にありがたがって「気付き」だの「真実」「哲学」だのと位置付けるから良くないのだ。それが、現実をすぐに見誤らせる。ぼくの考えることには一銭の価値もない。なぜ考えるかといえば、それがただ楽しいからだ。こんな風に考えるようになって、ようやくこの世に落ち着いて居られるようになった。誠に我ながら面倒だが、まあそんな自分ももう嫌いではなかったりして。

2016年2月3日水曜日

結び目

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
以前、「書く」という行為の問題を取り上げた際に、「書くことで思索に『結び目』が生まれる」と書いた。自分自身、結び目という表現は気に入っている。

結び目とは、思索の一旦の収束地点だ。例えば「人を殺してはいけない」という結び目は、社会生活を営む上で数かぎりない要因によって何度となく結び固められ、多くの人にとって、もはや疑う余地もない、結び目を解いてみようという気すら起きない地点となっている。少なくとも、この日本では。

ぼくは幸か不幸かこの人生で、そうした様々な結び目を自分の中で解いてみたいと思うようになった。結果、およそ徹底はできていないものの、以前自分の中にあった多くの根拠なき思い込みを、ある程度は解くことには成功したように思える。

問題はその後だ。結び目を一旦全て解いたとして、しかし、そのままでは生きてはいけない。例えば法を守らない自由を発見したとして、実際に守らなければ、社会生活を営めない。例えば仕事で、そもそも0から考え直すというのは時に有意義だが、打ち合わせのたびにそれをやられたんじゃたまらない。コンセンサスという名の、「みんなで作った結び目」を毎回解きにかかるような奴は疎まれるだろうし、そもそもコンセンサスが形成できまい。結び目は、人が生きる上で必要不可欠なのだ。

とはいえ、苦労して一旦解いた思索の糸束に、また沢山の固い結び目を作り、色んな思い込みを抱え込むのも面白くない。せっかく心が自由になったのに、また自分自身を束縛することになる。

ならば、ゆるく結ぼう。必要だから、結ぶ。必要だから法を守り、疑わない。よほど異論がない限りはコンセンサスを尊重し、疑わない。ただ、必要な時にはいつでも疑えるようにしておく。信じることが結び目を作ること、疑うことが結び目を解くことである。

また、結び目について人にあまり語らぬことだ。人に語れば、人目を気にして、結び目を解きづらくなる。

そして、徹底的に疑うべきは自分だ。意図して作ったはずの結び目に自分が囚われるなど愚の骨頂であるが、容易に想像できるシナリオだ。自分の発する言葉を疑え。自分の書いた文章を疑え。

そうして、ぼくの言葉から「真実」「真理」の匂いを徹底的に消す。ぼくが発する言葉は、常に何らか間違っている。願わくば誰も、ぼくの言葉から真理などを読み取ることのありませんように。真理を語る口より、ユーモアが欲しい。

2016年2月2日火曜日

10度

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
チームを率いている。スタートアップの、とても小さいチームだ。

スタートアップのチームを率いるなど、初めての経験である。ぼくだけではない。メンバー全員が、スタートアップなど初めての経験である。当然、うまくいかない。

生産性も低い。ビジネスに必要な知識もない。組織をどう導けば良いのかも、誰も知らない。だから学び、変化し続けていかなくてはならない。生産性を上げ、ビジネス感覚を養い、居て心地よい組織を作り上げていかなくてはならない。要は、場を絶えず変化させていかなくてはならないということだ。

しかし、現状にどれほど不満があろうとも、場をいきなり劇的に変えることは難しい。誰かの放った一言が、メンバー全員の心に深く突き刺さり、次の瞬間から見違えるようにメンバー全員が一つの方向に向かって動き出す…というのは、フィクションとしては面白いが、現実的にはなかなか難しい。

この文章のタイトルを「10度」としたのは、チャンスを捉えて、組織の向きを「10度」変えられたら御の字だ、と思えたからだ。

10度は、ほんの僅かな角度である。だが、それを3回繰り返すだけで30度変えられる。組織の向きが30度変わり、その角度が組織の向かう方向を決めるのだとすれば、その行く先は全く違ったものになるのは間違いない。

10度変えようとすればいい、というのは、リーダーにとっても楽な話だ。180度変えなければならないとなれば、歴史に残るような名演説でも打たなくてはならなそうだが、10度変えるというのであれば、限られた人の心をほんの少し動かせば、事足りるかも知れない。

大事なのは、確実に10度変えること。そして、10度変えるチャンスを見逃さないことだ。人は基本的には変化を嫌う。変えるのはほんの僅かでなくてはならない。そして、良い方向に変わったことを確認しなくてはならない。その時にはまた、新たな課題が見えているはず。その課題を克服するため、またほんの少し変える。この繰り返しが重要なのだ。