2016年1月28日木曜日

削ぐ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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言葉は、削ぎ落とすごとに力を増す。10説明したいところをぐっとこらえ、削ぐ、削ぐ、削ぐを繰り返し、残った1には、100を伝える力がある。

削ぎ落とすという工程を経ない言葉は、幾重にも塗りたくった厚化粧のようなものだ。真に伝えるべき言葉の上に、不要な言葉を積み重ね、言葉のインパクトを損ね、真意を濁らせてしまう。

厚化粧してしまう理由は2つある。

1つは真意の価値を小さく見られまいという意識。真意の価値を1とするなら、1以下に見られないようにする努力のことだ。誤解への恐れ、過小評価への恐れだ。

もう1つは真意の価値をより大きく見せたいという意識だ。1の価値を持つ真意を、2,3に見せたいという努力のことだ。多くは虚栄心の為せる業だ。

人は誤解を恐れ、過小評価を恐れ、より自分を大きく見せたいがため、言葉の限りを尽くそうとする。だが残念ながら伝わらない。人間という、記憶にも集中力にも限りがある動物には、長い論理や、聞きたいこと以外の部分は頭に入ってこないのだ。

だから、削る。誤解されるかもしれない、小さく見えてしまうかもしれない、ギリギリのラインまで削る。時には敢えてラインを踏み越えて削る。「誤解を恐れず言うなら」「恥ずかしいことに」などの枕詞を添えれば、それでも真意は充分に伝わるものだ。

しかし、言葉を削ぐのは、他者に伝えるためだけではない。むしろ自分のためだ。

他者から誤解されること、他者から小さく見られることなど、実はそれほど大した事ではない。そんなことは日常茶飯事、他者が自分のことを正確に理解するなど、もとより期待できないのだから。それよりも恐ろしいのは、自分の綴った万の言葉に、自分自身が騙されてしまうことだ。

言葉を紡ぐという行為には、必ずフィクションの入り込む余地がある。多くの言葉を紡ぐなら、多くのフィクションが入り込む可能性があるということだ。

例えば、「自分のやりたいことは何か」と言った定番の質問に自問自答を帰納的に繰り返し、とても綺麗な結論を導き出す。その結論(「やりたいこと」)から今度は演繹的にやるべきことを定める。この長いステップの中に、人を間違いに導く分岐点がどれほど多く含まれていることだろうか。気付けば意に沿わぬ事をしている。ぼくはそんな回り道を、この人生で何度も何度も繰り返してきた。

そんな愚を繰り返さぬよう、ぼくは、言葉を削ぎ落とす。答えの出ない問いには、「答えられない」「わからない」で良い。「自分が生涯かけてやりたいことはなんですか?」と問われれば、「いやー、わからないですねー」と答える。それは勇気だ。飾らない言葉ほど、強い。飾らない勇気。

感情

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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昨日、「なぜ人を殺してはいけないか」を考えた際、法的、社会的な面から考えるのみで、感情面についての考察が足りないことに思い至った。完全に片手落ち。論理のみで考えるからこうなるのだ。

もちろん、法的に許されていないから、もしくは「みんながダメだと思っているから」という説明が有効でないとは言わない。しかし、人を「傷付けたくない」という気持ちも、確実に存在する。

こうした気持ちを持たない人間がいるであろうことも、人の命が軽い地域や時代があることも承知の上だ。そういう点で、ぼくはカントのように「道徳とはアプリオリな存在である」などと言うつもりはない。

ただ、論理を突き詰めていくと感情の存在を無視しがちである、という傾向に抗うため、帰納を一旦エポケーして、人を傷つけまいという感情が半ば本能的に生じるという現実をそのまま受け入れたいのだ。

だから、例えば「人を殺してはなぜいけないか?」を問われた際、第三の回答 - 「だって嫌だから」というのが、あっても良い。極めて主観的で、極めて普遍性に欠け、極めて説得力のある答え。結局、主観的な感情をストレートに出した言葉に、論理は敵わないのだ。そりゃそうだ。客観というのは、結局この多様な世界を「普遍性」で乱暴に括ろうとする無謀に過ぎないのだから。

2016年1月26日火曜日

ルール

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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前回の思索に引き続き、ルールという現象について考える。

ルールには、罰を伴うものと伴わないものがある。罰を伴うルールは、良心とその呵責を連れてくる。良心の呵責とは、罰への恐れだ。他者に知られたら罰される、そういう恐れが、良心の呵責の正体だ。そういう意味で、罰を伴うルールは道徳的規範そのものであるとも言える。

ルールは人が定めるものであり、そこには必ず何らかの「意図」が作用する。なるべく、コミュニティの大多数の幸福に利する意図のみが法となるよう、「みんなで決める」という方式を採用しているのが民主主義である。

ルールの本質的な性質として、「ルールを守らねばならないというルール」は根本的に定義できないというものがある。そのため、ルール自体に対して「なぜこれを守らねばならないか?」を問うと、すぐに行き止まりにぶち当たる。「人を殺してはいけないのはなぜか?」という問いに対して、法を持ち出して答えても、「なぜその法を守らねばならないのか?」を問われればそこでギブアップだ。

しかし普通はそこまで考えない。多くの人に取って、法と罰則があれば、充分に法を遵守する理由になる。罰則があるならば、先の「なぜその法を守らなければならないのか?」という質問に対して、「罰されるから」と答えることで、罰=不快を避けたいという人間の原初的な本能が、ルールを守る根拠となる。そうして「守るのが得策」という状態を勝ち得ることが、「法を作る」という行為の一つの理想と言える。

ルールの遵守を強制させる方法として、懲罰以外に強力なのは、「みんながそのルールを守っている」という状態を作り上げることである。多くの人がそのルールに概ね満足し、守っているなら、それは大きな強制力となる。社会という存在が、ルールを「護る」のだ。

このように、ルールを皆が守る状況をを作るには、強力な警察力を備えると言った「懲罰」の面からのアプローチも考えられるが、「みんなが既にそれとなく守っている規範」を明文化するといった方法もある。ハイエクの言うところの自生的秩序というやつだ。懲罰によるアプローチと、自生的秩序によるアプローチが、それぞれ冷戦下の社会主義と自由主義のアプローチに重なるのは、決して偶然ではあるまい。

だから、「なぜ人を殺してはいけないか?」という答えにはこう答えられる。まず懲罰の観点から、「殺すと罰されるから」。そして社会的な観点から、「皆が『殺してはいけない』というルールを守っているから」。

とはいえ、論理的に言えばこうなるが、「人を殺す」という行為に対する嫌悪感や反発心を、単純な懲罰への恐れや同調圧力に還してしまうことには異論もあろう。我が国の教育や報道によって、殺人をタブーとする道徳は、強固この上ないものとなっている。こういう状況下で、「なぜ殺人はいけないか」はもはや「語り得ぬもの」の領域にある。殺人がダメな理由は、「ダメだからダメ」とトートロジーで答えるのが、最もふさわしいように思える。

ルールの明文化

ルールが明文化されることには大きな意味がある。明文化されていない状態は、移ろいやすい。そのルールの確固たる存在を認識できない。「書く」ことで、ルールは存在を確固たるものとする。人々が存在に対する確信の度合いを深める。人によってはそれが「実在」と感じられるほどに。

明文化されたルールは、人間の記憶よりは確かなものとして存在するようになる。だから人は、安心してルールの存在を普段は忘れていられる。しかし、時にそのルールを必要とした際、明文化されたルールは変わらずそこに「ある」。

この「変わらない」という性質は、非常なトレードオフを伴う。時代にそぐわないルール、コミュニティ内の多様性に対応できないルール、そもそも成文化のスキルが低く、曖昧過ぎたり、厳密過ぎたり、意図が読み取れなかったりするルールなどが、コミュニティのメンバーを苦しめることになる。

ツールとしてのルール

最後に、ルールとはツールである。ルールが存在すると、何か判断を求められる状況になった際、人はルールに合致しているかどうかのみ考えれば良くなり、思索に費やす時間を大幅に節約できる。ルールより下を考えなくて済むのだ。

「決戦は金曜日」と決めたならば、「決戦をいつにするか」についてはもう考えなくて良い。法的に悪とされていることは、その行為をすべきかどうか、しても良いかどうかをもはや考える必要がない。

なので、例えば組織のスピードを上げたい場合は、適切なルールを定め、更に明文化しておくことで、劇的なスピードアップを図ることができるだろう。その際には、ルールを皆が守るよう、懲罰の仕組みを整えたり、秩序が自生するまで待つ忍耐も必要だろう。メンバーがルールを守りやすいよう、様々なツールを使用するのも良い。時にリーダー自ら懲罰役となり、ルールを組織に浸透させていく必要もあるだろう。組織が大きい場合は、ルールを行き渡らせるために、コストをかけてシステムを構築する必要もあるだろう。

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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法とは、ルールとは何か、というのは、ぼくの中で数年来に渡って残り続けている問題である。今も、会社に人を増やして組織を作っている最中なので、ルール作りの難しさや意義について日々考えている。

そんな中、ぼくの想像力を刺激してくれる、以下のような記事に出会った。

これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態 法よりも道徳が大事なの!?


著者は憲法学者の方だそうで、読み応えのある文章である。このようなテキストに出会うと、「考えたい」という欲求が刺激される。少し自分の意見も述べたくなってくる。知識も見解もこの記事の著者に及ぶべくもないと知りつつ、このブログは読者不在を心掛けているので、「素人が何を言うか」というそしりも恐れずに何事かを語ってみよう。

上の記事によれば、法と道徳の間には普遍性の有無という違いがあるとのことである。ぼくはここに疑問を覚える。上の記事の著者も、「『日本国内での』普遍性」という二重カッコ書きを意識的にか、無意識的にか除いているが、ぼくはそこを重視する。「限られた地域の中で、これまでの歴史を踏まえつつ、なるべく普遍であろうとする努力がなされている(が、そもそも人が決めるものなので、真に普遍的ということはあり得ないが)」などと、クドイけれど、述べてくれるならしっくりくる。「法と、道徳や地域法の違いは普遍性である」と言われると、そうではないように思えるのだ。

ぼくが考えるに、国の法とは、「国内共通のルールである」というこの一点のみが他との違いである。明文化されていること、強制するための実力機関を持つこと、罰則も合わせて定められること、民主的に決定されること、司法機関を伴うこと…といった事柄は、特に国法に限ったものではない。ただ単に、国がやるから、そのそれぞれに膨大なコストを掛けられるというたけだ。どれも「ルール」という、極めて人間的な社会現象に他ならない。

ぼくはその、「ルール」というやつそのものが気になる。ルールとは何か。その功罪は?

多弁

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また書く。昨日2つも文章をしたためた事からもわかるが、今のぼくはどうやら多弁である。

こういうことは、これまでも何度もあった。新しい何かを発見したと感じた時、学んだと感じた時、それを人に喋りたくてしょうがなくなる。その「語るべきもの」が、本当に自分の血肉になる頃に、そうした多弁は鳴りを潜めるようになる。まあ、ぼくのような小人間にはありがちな話だ。

明らかに、新年始まってから「私記」という文章を書いたことが影響している。あの文章そのものに、大した価値はない。だが、あの文章を綴る過程で様々な思索に及び、自分の中で考えが深まったような気がしているから、今これほど多弁なのだ。(そしてその、深まった知恵とやらを数年後に根本的に覆したりするのも、いつものことだ)

まあこれはいつものことだし、そのうち収まるし、人に話した時の反応も貴重な体験になるし、悪いことでもない(そもそも最近善悪の区別に少し疎いのだ)ので、今はこのまま、思うところを語っていくとしよう。

2016年1月25日月曜日

ツール

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今日は筆が乗る。こんな日もある。

前回のポストで、「書く」ことの功罪について考えた。

書くことに限らず、およそこの世にあるものはすべて、善悪長短両面持ち合わせている、という想いを強くしている。もはやそれはぼくの中でのドグマに近い。それは価値の相対化が自分の中で働き始めた結果だ。何事も、単純に割り切らなくなってきた。「良い」と思った瞬間その物事の悪い面を、「悪い」と思った瞬間にその物事の良い面に想いを巡らせる。そうした態度の積み重ねにより、特定の価値観に支配されない自分を作ろうという、些細な取り組みである。

物事にはすべて善悪両面ある、という態度が少しずつ身に付いてくるにつれ、次に湧き上がってきたのが、すべてはツールである、という気持ちである。

例えば書くことには功罪がある。では、もう書くべきではないのか?そうではない。むしろ、「書く」という行為の利点欠点を見据え、うまく利用すべきだと考える。書くことが思考を固定化させてしまうのであれば、その欠点には気を払いつつ、考えを一旦固定化させたいときに、意識的に「書く」という行為を行えば良い。例えば今書いているこの文章のように。書くことで一旦思索を収束させ、次の思索の起点とする。ぼくはこれを、「(書くことで)思索に結び目を作る」と呼ぼう。あとでほどきやすいよう、ゆるく結んでおくことが肝要だ。

ではここで、道徳という現象について考えてみる。ここ数年のぼくは、ニーチェよろしく道徳を攻撃するばかりで、その利点には目を向けてこなかった。改めて考えてみると、道徳とは、人が社会を営む上で蓄積された、価値観の集大成と言える。その地域が持つ歴史によって道徳の有り様は様々だが、その地域で社会生活を営むものは、その道徳を尊重する義務を負わされる。およそその地域に住むもの全て、道徳という一枚岩の価値観を、程度の差こそあれ共有している。道徳から外れれば、社会から阻害される。あまりに道徳的では、嘘臭い。道徳は人間の感情や愛着、幸福感、自由という概念とも密接に関連している…など。

道徳とは、こういう類のツールである。「ツールである」という、この突き放しが、大事なのだ。ツールならば、利用できる。道徳に支配されることなく、道徳をコントロールできる。

このように、全てがツールであるという想いを強めているのが最近のぼく、新年に「私記」というタイトルの結び目を作って以降のぼくである。これが、ハイデガーが「道具」と呼んでいた概念であろうか。そうかもしれない。ハイデガーは例によって挫折中だが、そのうちまたチャレンジしてみよう。

エクリチュール

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書くとは不思議な行為だ。先日、「私記」と題した駄文を公開することで、自分の中に様々な変化が訪れたことを実感する。

書くということに限らず、何事にも良い面と悪い面がある。

書くことの良い面については、世の中の様々なところで語られているので割愛する。ここでは、世の中であまり語られていないように思える、書くことの悪い面について考えたい。

書くことの悪い面とは、思うに、考えが一度「形を成してしまう」ことだ。

様々に発散する可能性のある思索が、書くという行為によって一点に収束する。一度収束してしまうと、次の思索はその収束点を起点に考え始めてしまう。そこで論理の糸に一つ結び目が出来てしまう。その結び目から思索を開始する方が、毎回ゼロから考え直すよりも楽なので、役立つ拠点として何度も利用する。そのうちに、その拠点の「正しさ」を疑えなくなってくる。ドグマの誕生だ。

そして、形になり、人目に触れるようになった思索は、メディアとして一人歩きを始める。そうなると、社会からも一貫性を求められ(もしくは書き手がそう思い込み)、より、「書く以前」の自分に戻ることが難しくなる。

ぼく自身、書くことによって余計な思い込みを生み出し、そこから脱するのにどれほどの労力を費やしたか、計り知れない。人をマインドコントロールしたければ、「書かせる」「言わせる」のが一番だ。

かように、「書く」という行為は大きなリスクを伴うものと考えるが、世の中は不思議と書くことを礼賛する論評ばかり見かける気がする。この件に対峙したのはデリダくらいか。デリダは全く読んだことがなく、難解という印象が先行してなかなか手が伸びないのだが、一度挑戦してみるか。

2016年1月19日火曜日

私記(後)

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中編からの続き)
前編
価値観の相対化を進めた先にあった矛盾。それは、価値という概念の無謬性を確信し、存在を否定したい気持ちと、それでもなお価値感覚が自分の中に存在することを発見し、存在を否定できないというせめぎあいであった。

そして今ではその矛盾は、自分の中で折り合いがついている。それはただ、価値の存在を受け入れただけである。存在するものを否定しようとするから、矛盾に陥るのだ。受け入れてしまえばどうということはない。

確かに価値観とは相対的なもので、何かを論ずる際の絶対的な基盤とはなり得ない。だからと言って、絶対ではないからと言って、存在まで消しにかかる事はない。「ある」というのを受け入れてしまえばいい。

そもそも、なぜぼくは価値の存在を否定しようとしたのか。それは、絶対性が揺らいだときに、「実体がない」と捉えたこと、より踏み込んで言えば実在しないと捉えてしまったことにある。実在しないものの存在を信奉するという、この科学全盛の時代にそぐわない態度を、精神が拒絶しようとしたのだ。あたかも、霊魂や神の存在を拒絶するが如く。その存在否定が、価値感覚が存在するという事実と論理的に衝突し、矛盾を感じるに至ったのである。

しかしここで、存在を否定するという行為にストップをかけ、「事物に価値を感じる」という現象そのものを受け入れてしまえば、矛盾は解決する。「価値観というものは相対的なものだ、しかし、自分を含め、誰にでもその感覚は備わっている」という現実を受け入れることができる。

これは、フッサールだ。エポケーし、事象そのものへと向かったわけだ。なんのことはない、ぼくの数年間の葛藤は、フッサールの実践そのものであった。

先の、存在否定へと至る道筋も、フッサール的に解釈できる。「(価値は)実在しないから、存在を認めない」その態度が、現実との衝突を引き起こしたわけだが、そもそも実在と存在の間に確固たる違いなど、ない。その存在を確信する度合いが違うだけだ。

目に見え、手で触れるものは存在を強く確信でき、「実在する」と感じやすい。それすら、感覚器官に頼っているだけでしかないのだが。感覚器官を騙されれば、人は容易に実在を感じることだろう。

そうでないものについては、その人がどういう経緯で存在を感じたかによる。大きなウェイトを占めるのは、幼少期の教育だろう。子供を育てていると判るが、子供は善悪の価値観も、貨幣価値も、目に見えない国境も、美醜についても、人種や障害の有無による差別も、職業の貴賎に対する感覚も、何も持ち合わせていない。それらをインストールするのは、周りの大人たちだ。

そうして、教育や洗脳、自らの経験によって強固に信じ込まされた概念を、人は実在すると感じる。そしてさらに、実在するものは、実在しないものよりも価値が高い、という価値観も、今の僕らにはインストールされている(「実在があやふやなものに畏敬の念を感じる」という時代も、人間の歴史にはあっただろう)。

だから、(ぼくが陥ったように)事物の実在を疑わされる出来事があると、それらを無価値と断じ、排斥しようという心が働いてしまうのだ。

だがそもそも、「実在と存在の間には、主観による確信の度合いという差しかない」となれば、実在と非実在の間に価値の差を感ずる必要もなくなる。というか、実在と非実在という二項対立そのものが意味を成さなくなる。
「絶対的なものなどない、それはその人の主観が事物から勝手に「絶対性」を感じ取っているだけだ」となれば、絶対性の確信が崩れたときに落胆することもない。というか、そもそも絶対性を信じることもない。
こんな態度を「色即是空、空即是色」「諸行無常」などと表してもよかろう。まあ、宗教臭くなって、却って怪しくなるから、ほどほどにしておくが。

ここに至るまで数年、ぐちゃぐちゃと考えを巡らした結果、ようやく、こうした「納得」が訪れた。「哲学とは何か」を語るのは難しいし、ぼくにはその資格があるとも思えないが、一つ自分の言葉で語れることがあるとすれば、この「納得」を得ることが哲学の目的なのだとも思う。今自分が生きている世界と、自分の人生に納得するための思索。

これだけ思索して得たものは結局のところ「普通」である。ぼくの中の哲学は外の世界を少しも変えてはいないし、ぼくを超人にすることもなかった。年相応の世界に対する納得感、人生との折り合いを付けられたというだけだ。ぼくは「普通の人」をこそ尊敬する。

価値の相対化がなされたことで、ぼくの世界との接し方は、また変わった。自分の人生を価値あるものに、なんて考えなくなってしまった。価値なんてあやふやなものに、人生を捧げてたまるか、くらいの気持ちである。物事の善悪に頭を巡らすこともない。正しいかどうか、すらあまり考えなくなった。客観的で絶対的な基準など、存在しないからだ。

こんなふうに世界に接し始めてから、まだ日が浅い。新たな発見も多い。今しばらくは、こんなスタンスで世界と接してみようと思う。

2016年1月7日木曜日

私記(中)

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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前編からの続き)
価値観の相対化(というと大げさだが、要はあらゆる価値観は絶対的なものではない、と考える努力をするということだ)がもたらした新たな問題、それは、善悪の価値観つまり道徳をも相対化して無価値と断ずることによる享楽主義、そして万物は無価値であると切り捨てることによるニヒリズム…ではなかった。そこまで思想を先鋭化するには少し年を取り過ぎていたし、思想を論理的に研ぎ澄ますことを望んでいたわけでもなかったからだ。(もちろん、多少のモラル低下や虚無感はあったのだが)

ぼくを悩ませたのは、価値観の相対化に伴って生じる矛盾の存在だ。
人間が生きていくためには、価値観の存在が不可欠だ…ぼくはそのことを身をもって知った。日常のあらゆる選択に、価値観という物差しが必要とされる。それが単に「今から何を食べるか」などの軽微な価値判断ばかりならいいが、事業作りなどの、価値判断に一貫した連続性が求められるような状況では、どうしても、意思決定者の価値観に根ざした判断が(頻繁に)求められる。

そこで、ある程度価値観を固定させようと試みると、とたんに「それは過ちだ」という心の声が聞こえてくる。ニーチェの思想では、相対的な価値観の存在も許さなかったと言われるが、まさにその状態である。一貫した、固定化した価値観を心の中に持ち育てること、それがいずれ絶対的なものに育ってしまうことを恐れるあまり、価値感覚を抱いたそばから否定するという状態になってしまった。これは、新しい種類の良心の声である。「価値観を抱くことは罪である」という、新しい道徳から生まれた、新しい良心の咎め。道徳やドグマを否定する行為そのものが、新たな道徳とドグマを生み出してしまったのだ。これが、ぼくが直面した大きな矛盾であった。

とはいえ、繰り返すが、価値判断なくして人間は生きてはいけない。新しく生まれた良心に咎められながらも、毎日を生きていくしかなかった。結局前述の矛盾は、日々の暮らしを続けているうちに「自然と」解消されていったのである。何かドラスティックな発見や啓示を受けて、乗り越えられたわけではない。「時が解決した」というやつだ。

だが今なら、自分の心に何が起こり、矛盾を乗り越えられた…というか折り合いを付けた…のかは多少言語化できる。それについては後編に記すこととする。
後編に続く)

2016年1月6日水曜日

私記(前)

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新年である。

昨年の総決算も、新年の抱負も、真面目に語るのがおこがましいという気持ちである。「価値」「価値観」といった言葉と内面的な格闘を繰り広げた結果、自分の人生には人に語るべきものなど何一つない、という結論に満足してしまっている自分がいる。よって、新年始まったところで、書くのは相変わらずの内的なメモである。人様に語って愉しませるようなものなど何も持ち合わせていない。自分に向かって書く。言語化そのものを目的として。

ここ数年、価値観について堂々巡りの思考を重ねてきた。この飽きっぽい自分が、目指すものを変えるたび、価値観も変化してきた。その変化のたびに、以前価値があると思っていたものが色褪せて見えたり、以前は嫌っていたものの価値を認めたり、という経験をしてきた。パラダイムシフト、というやつだ。

価値についてごちゃごちゃ考え始めたのは、単純に、この現象が不思議だったからだ。フッサール流に言うなら、主観の持ちようによって、全く違う世界像が結ばれると言おうか。
あと、自分とは違う価値観の存在を、どうにかして積極的に肯定できるようになりたいという気持ちもあった。自分とは違う価値観を否定してしまうことが、他者を傷つけたり、現実を直視する妨げになったり、という現象に悩まされてきたからだ。

しかし、自分と違う価値観の他者を無条件で肯定するのは、とても難しい。自分と他人に違う物差しを使うということであり(例えば「自分に厳しく他人に優しい」とのような)、そんな器用なことはぼくにはできなかった。

そこでぼくが一昨年から昨年前半くらいまでに身につけた所作が、価値観の相対化である。
絶対的な価値観などありはしない。自分が今感じている価値も含めて。核の炎に包まれたあとの荒野では、紙幣などケツを拭く紙にもなりゃしない。殺人が罪にならないとか、自殺が美徳だという世界だって、現実にある。
価値観とは、地域や時代によって移り変わるものであり、それに思考を縛られることこそが、自分の可能性を狭めるものに他ならない。

この考えを突き詰めることは、ぼくに精神的な自由をもたらした。
なにしろ、善悪の価値観も相対化されるので、道徳からも解放される。良心の声など幻聴に過ぎない。ぼくには、悪事をする自由も、不道徳をする自由もある!と言った具合に。

同時に、他者に対しても優しくなれる。誰もが、自分なりの価値観を持っていていい。善も悪も、価値は同じ。高潔も下劣も。論理も非論理も。理性も感性も。清貧も貪欲も。みんな自由にするといい。ぼくもそうする。

果たして、あらゆる価値観を肯定する、という目的は果たされた。そして、価値観とは何かについても答えが出た。価値観とはただの無益な思い込みのことだ。それ以上でもそれ以下でもない。価値観の相対化により、ニーチェ先生のお導きにより、ぼくの目的はすべて果たされた!

しかし、価値観の相対化は、同時に新たな問題の入り口でもあったのだ、当然ながら。

中編に続く)