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貴賤

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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昨日から頭を占めている事柄は、学に貴賤はあるのか、ということだ。


「蹴鞠おじさん」という言い方で、ヨッピーさんが問題提起を行なった。その件について、当事者の方々のご意見などをSNSで拝見したりしているが、正直、議論が全く噛み合っていないように思える。


ちなみに私は「どっち派だ」と問われたら「どちらでもない」と答える。ただ、「蹴鞠おじさん」と呼ばれた側はやはり冷静さを欠いてしまっていて、何を突かれたのか理解していないようには見える。


「蹴鞠おじさん」の件から私が感じ取ったのは、要するに知識人、業界人の「上から目線」が鼻持ちならないというメッセージだ。もちろん、ヨッピーさんも「蹴鞠おじさん」も、もっといろんなことを引き合いに出して語っている。だが、私には「蹴鞠おじさん」のスノッブさを糾弾しているというのが、問題の大きなウェイトを占めているように思える。


そして思うのだ。学に貴賤はあるか?と。


話題になったハンドブックを「読めない」と漏らした人物を、「学が足りない」と見下すことは容易である。だがその人は、一般的に「学」と呼ばれる事の少ない、しかし実践的な知識を普段から学んでいるかもしれぬ。Google Analyticsの使い方や、引きの強いタイトルの付け方、いかに低コストでSEOに強い記事を生成するか、自分が対象とする読者層のニーズは何か、などなどなどなど。これは立派な学ではないか?


また「蹴鞠おじさん」はもしかすると、若い人よりも学びに時間を割いてきたから、より多くのことを知っているかもしれぬ。それが、これからも多くを学ぶはずの若いひとを見下す理由になるだろうか?


私がこうした物言いをしていることからも、何を学ぶかに貴賤はあるか?という問いについて、私がどう考えるかは明白だろう。私は「ない」と考える。


ただ、個人的な恥を晒すようで恐縮だか、私は昔、「ある」と考えていた。哲学を学ぶ方が、ゲームの攻略法を学ぶよりも価値が高いのだと。科学を学ぶ方が、ラノベを読むより価値が高いのだと。しかしその態度が最終的に私にもたらしたものは、「自分が興味を向けるものは価値が高く、そうでないものは価値が低い」「自分が学んだものは価値が高く、そうでないものは価値が低い」という我ながら鼻持ちならない態度であり、それに気付いてからは、何を学ぶかということに対する価値観の物差しを投げ捨てた。全ての学びは同様に価値があり、価値がない。そう考えれば、あらゆる人が私より何かを学んでおり、知っており、あらゆる人を師と仰ぐことができる。そうした態度の方が、この無知蒙昧極まりない私という人間には合っている。


さらに言えば、学ぶことは学ばないことよりも価値が高いのだろうか?否、と答えたい。


価値があるから学ぶのではない。学びたいから学ぶのだ。

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近況

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 久しぶりの書き込みである。が、書きたいことが特にある訳ではない。 今年初めは、価値観という長年追ってきたテーマについて多くの発想があったので、よくアウトプットしていた。そこについてもひと段落してからは、特に書き留めておきたいこともなく、今に至る。
価値観の件については、以前得た様々な発想を実践に移しているところだ。悪くない。誰のどんな価値観を開示されても、どうせこちらにはイエスと答えるしか選択肢がないので、余計なことに思い煩わずに済む。何を言っても肯定されるという雰囲気が相手に伝わるのか、以前ならなかなか話してもらえなかったような、個人的なことを開示される機会も増えた気がする。
仕事などについては、精一杯やってるとしか言いようがない。ただ、個人的には、死ぬまでの時間を遊んでいるという感覚は日増しに強くなっている。これも、価値の相対化によるものだろう。例えば何が無駄か、無駄でないかを判断するのは、主観の産物でしかない。遊びは無駄で、仕事は無駄じゃない。そんな感覚を失ってみると、全てが水泡に帰するかもしれない遊びでしかなくなる。全くもって不真面目な人間になりつつある。
目下の一番の悩みは食生活だ。爛れた食生活が嫌でたまらないのに、一向に改善しない。要は食の快感に依存している訳だ。しかも、その快感は毎食ごとに呼び起こされてしまうものだからタチが悪い。この依存を断ち切り、健康に関する不安を取り除きたい。そしてできれば長く人生を遊んでいたいというのが、今最も望んでいて、手に入らないことである。

ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合平についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

アキレスが亀に追いつけない」という逸話で有名なゼノンのパラドックスや、「クレタ人はみな嘘つきである」で有名なエピメニデスのパラドックス、そして先ほどの集合平はラッセルのパラドックスから着想した問題らしいが、現実世界では問題にならないことが、思考で捉えようとすると、論理として成立せず、真とも偽とも言えない状態が…

2017

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 新しい年が始まった。初日はぼくの実家でダラダラしながら、合間にグダグダものを考えていた。ここに示すのはメモであり、私以外の人間が読んでもおそらく意味がわからないだろう。
昨年は、あらゆる価値観を肯定する術を見出したように思い、実践する日々であった。その結果得られた洞察もある。
あらゆる価値観を肯定しようとするものには、いくつかのハードルが現れる。
一つが道徳の問題。道徳に反することを肯定することは可能か、という問題である。これは陳腐な問いのようであり、答えは常にイエスとしか思えない。しかし、道徳の表す対象が、社会的な規範ではなく、内面的な規範や美学であった場合、事は複雑になる。私は、(自分的には絶対許せないと確信している)麻薬の売人や、女性や子供に暴力を振るう男を肯定できるのか?という問題である。絶対に肯定はしたくない。しかし一方で肯定もしたい。それは無矛盾を求める気持ちからである。
一つが主客の問題。私が許せるもしくは許せないことと、社会的に許されているもしくは許されていないことの間に、不一致があった場合のジレンマである。
さらに一つは、勉強熱心な政治家のジレンマである。政治家は勉強熱心であればあるほど、大衆の感覚がわからなくなっていく。大衆はそこまでものを考えていないからだ。これは、大衆をバカにしているのではない。専門家とそれ以外、という構図がある場合にはどこにでも成り立つことであり、いわば社会の至る所にあるジレンマである。ただそれが政治家の場合は、大衆の気持ちと乖離するということが彼にとって致命的だということだ。もしかすると国の将来にとっても。そういう意味で、私は昨年のトランプショックのことは忘れないだろう。 そして、私は価値観についての諸々を考えるうち、一般的な感覚からはだいぶ遠いところに来てしまった感覚がある。おかしい、私は社会一般、人間一般を探求していたはずなのだが。
このうち、前の二つについては今日、解決のヒントが見えた。
個人の価値観と集団の価値観の間にジレンマがある、というのが二つの問いの前提にある。そしてそこに乖離が生じたときに問題が発生する。
しかし私は実は、乖離が生じたときの問題については昨年乗り越えていたのだった。すなわち、社会的な価値観を受け入れるかどう…