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私的言語

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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最近実は、個人的なメモアプリ(Google Keep)に考えを書き留めている。以前はそういう作業はこのブログで行うのが常だったのだが、より自由な思考を求めて、プライベートなメモを使用してみている。

やはり、誰にも見られないことが前提だと、開放的になって何でも書けるのは良いところだ。物事を考える時には、タブーを設けてはいけない。自然と考えの幅が狭くなってしまうからだ。

しかし副作用もある。自分にしか通用しない言葉をどんどんと生み出してしまうのだ。そして、言葉はどんどんと鋭さを帯びる。思考が先鋭化していくのを感じる。誰からも咎められる心配がないので、思考のバランスを取る必要がないからだ。

そうして鋭さを増し、自分の世界で論理的な完全性を何度も確かめられ、容易に崩せないドグマへと変容していく。そうしたドグマは、自分だけでなく他人にも大きな遠慮力を及ぼしてしまう。「絶対的な正当性」という幻想的な力をおびてしまうのだ。

このように、自分の言葉に一面的な「正しさ」を帯びさせることは、プロパガンダが必要な局面では非常に有効ではある。政治家、宗教家、マーケターにとっては必要不可欠な心的作業だ。しかし一方で、その正しさを普遍的なものと見なすようになることは実に容易であり、非常に危険だ。世界を客観的に眺められなくなり、時勢を見誤り、敵を作り、自分と異なる価値観を否定し、世界を狭くする思想だ。さらに良くないのは、その「正しさ」を自らが疑えなくなってしまうと、人にその正しさを伝えたくなってしまうのだ。自分と違う価値観を持つ人に対し「誤っている」と、特にまだ特定の価値観に染まっていない人には自分の正しい考えを植え付けようとしてしまう。これは本当に品のない行いで、絶対に辞めなくてはならない。

今回のことから得た教訓としては、否定を忘れた自由な思索は先鋭化して「正しさ」を帯び始めるということである。こうして一般公開しているブログに、他者の目を多少でも意識しながら書いているのは、そういう「自分へのブレーキ」という意味合いがあったのだと、今頃になって気付いた。

自己批判を忘れてはいけない。常に自分を二律背反の状態に置き、矛盾を飼いならすこと。そうすると言葉を失う。矛盾を抱えたままで正義の言葉を吐くことはできないからだ。そしてぼくは語る言葉をなくし、人の言葉を聴くしか無くなる。ぼくが言葉を発するのは、人の言葉を促す時と、アンチテーゼを控えめに提示することだけ、そうあるべきだ。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった