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やりたい事探し

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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世の中、「やりたい事を見つける」と言うのが正しい事であるとされているようだ。やりたいことに全力を費やす、そんな時間の楽しさを知っている人間が、悩める人間に与えるアドバイスとしては、しごく真っ当なものだろう。

だが私はここ数年、そうした風潮に異を唱えてきた。私は、会社を3回転職してフリー、その後起業すること3回、一度は収入をかなぐり捨ててコミュニティ活動に全力を費やしたりもした人間だ。「やりたいこと探し」に費やした時間だけは、そうそう人に負けない自信がある。そして、やりたいことを見つけたと思って踏み出すと、その道は大きく外れていて軌道修正を余儀なくされる…という目に何度もあってきた。だから、やりたいことを探す、という行為には非常に懐疑的であった。そんなことに時間を費やすなら、何も考えずに、心の赴くまま行動するほうが良いと。

ただ、そうした「思考放棄」にも聞こえる思想は、実際悩める人々には伝わらないということも最近分かってきた。いやまあ、アドバイスなんてガラではないし、むしろ忌避したいと思うくらいなのだが、年を取るとたまに若い子とそういう話になる事もある。そして、「やりたいこと探し」に大きな時間を費やした人間としては、何事かを伝えたくなってしまうのもまた、事実だ。

そんなことをなんとはなしに考えていたある朝、ほぼ夢うつつの状態で、この件に関して脳が勝手に思考し、答えをまとめていた。そういうことはたまにあるが、だいたい忘れてしまう。しかし今回は、起きたあともはっきり覚えていたので、自分に対しての備忘録がてら書き残そうと思う。

「やりたいこと探し」は、自由な社会に生きる私たち特有の悩みといえよう。今後も自由が保たれるなら -- そうしなくてはならない -- 私たちにずっとついて回る、もしかすると一生付いて回る問いかも知れぬ。

その問いを愚問だとして退けることも難しい。その問いに心が囚われた瞬間から、その人に取って人生最大の関心事となるのは間違いないからだ。では真正面から向かい合うとして、何に気をつけるべきか。どうしたらその問いに誤りなく答えることができるのか。

私が考えるに、気をつけるべきことは3つある。
一つ、「今」に最も集中すること。
一つ、私の「欲」を表す言葉を使うこと。
一つ、答えが複数あること、そしてそれらが時に矛盾することを受け入れること。

「やりたいこと」を問われて、「ご飯食べたい」「寝たい」と答える人は、アホだと思われることだろう。やはりこれからしばらくの未来にかけて、もしかすると「一生かけてやりたいこと」を念頭に置いて考えようとするのが、真面目な人間の在り方だ。しかし、未来の事など誰も分からないし、未来の自分がどう考えるかなど分からない。また、「やりたいこと」を想像するからには、それはつまり「まだやってないこと」なのだ。やったこともないことを想像するのには限界がある。それほど不確定な未来を考慮に入れながら、正確な答えを探ろうとするのはハナから無理がある。考えるべきは、未来の自分が何をしたいかではなく、今、自分が何をしたいか、だ。

また、やりたいことを人に伝える時、どうしても格好の良い言葉を使いたくなる。「金が欲しい」「働きたくない」などとは、なかなか言えないものだ。だが、そうした飾り気のない自分の「欲」「ワガママ」こそが本音であり、今後の自分にとっての活力となるモチベーションなのだ。「やりたいこと」として思い描かれる多くの格好の良い言葉は、いわば自分の欲を満たすための手段とみなしていい。そのほうが、格好いい言葉だけが上滑りしているような「やりたいこと宣言」よりもよほど説得力があるというものだ。

そして、「欲」とそれを叶える「手段」という構造は、自然と複数の「やりたいこと」を生み出す。欲と手段だけでも二つ。目的にたどり着くための手段は複数あるのが普通だから、自ずから「やりたいこと」は複数生じるのが普通なのだ。
しかし、私も苦い経験があるが、「やりたいこと」を問われると、たった一つの正解を見出そうとしてしまう。曖昧さを嫌う私たちの感情がそうさせるのだ。この、「答えを一つに絞らなければならない」というプレッシャーが、すでに目の前に見えているはずの答えを時に否定し、私たちに遠回りを強いることとなる。
しかし先ほども述べたように、答えは複数あるのが本来正しい。それらは時に矛盾することもあるが、それで良い。その矛盾はだいたいに置いて、利己的な欲と利他的な欲の発現であり、それは社会的動物としての我々が避けることのできない、だが超克することが可能な矛盾である。少しも悪いことではない。

これが、私が考える「やりたいこと探し」のコツである。私以外には何の役にも立たないまとめかも知れないが、一応忘れぬよう書き綴っておく。

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ミッション

今日はぼくにとって重要な日となった。
個人のミッションステートメントを変更したのだ。

新しいミッションステートメントは「ひとのために生きる」である。

これまでのミッションステートメントは「0から1を、1つでも多く生み出す」であった。2014年、とあるイベントで人前で宣言してしまい、それ以来従事してきたミッションだ。それに従って数多くの物事を生み出してきて、クリエイティブな思考の鍛錬と、多くの人々をつないできた。

しかし数を追う思考になってしまい、集中力の欠如、配慮の欠如、作り手中心の目線、自己中心的な心理、サステナビリティの欠如、家族との時間が減る、などの弊害も生み出してきた。

とはいえ物事はすべて表と裏、トレードオフがあるものだ。弊害があったとしても、それを反省、後悔してミッションを変えるに至ったわけでもない。

ただ、スタートアップ創業者という立場によって集中を余儀なくされ、ミッションを字義通りに追いかけていくことが難しくなったこと、そして何より、ミッション・ステートメントから力を得られなくなっていたことが問題であった。

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16:00-16:30 受付
16:30-16:35 はじめに
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17:50-18:00 10分間休憩
17:55-18:20 ビブリオトーナメント(決勝)
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18:30-19:30 懇親会

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ビブリオトーナメントとは、参加者同士をつなぐために考案された東京読書サミットの目玉企画です。

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(決勝プレゼンと言っても、司会者との対談形式で進めますので、あがり症の方でも安心です)



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もちろんそんな場は居心地が悪い。逃げ出したい。不安だ。疲れる。つらい。
しかし、そんな場で素直に自分の無知を認め、自分よりも遥かに年下の人たちに教えを乞うという体験が、最高に刺激的で、生きていると言う実感さえ得られる。逆に言えば、居心地のいい場所でのんびり構えている時は、半ば死んでいるようなものとすら感じられる。願わくば死ぬまでこういう経験をしていきたいものだ。死ぬほど、生きろ。悪くないコピーじゃないか?