2016年3月1日火曜日

驚き

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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家族や友人と過ごす日々の中でたまに、「自分の死を悲しむかもしれない人がいる」ということを思い、その度にいつも新鮮な驚きを感じている。

そんな人は一人もいない、という方が自然に思える。理に適っているように思える。ぼくの死を悼む人がいる、というのはどうにも奇妙だ。理に合わないように感じる。

同様に、ぼくの言葉や行動が人に影響を与えたりする、という現象にも不思議を感じる。いや、そんな事はこれまでも一度もなかったのではないか。ぼくの言動が人の人生に影響をもたらすなんてことが、あり得るのだろうか?あり得ないことのように思える。しかしどうやら、多少はそんなこともあるようなのだと最近はうすうす感じており、やはり理に背いているような違和感を感じてならない。

別に、自己の存在を否定しているとか、自己嫌悪しているとかではない。本気で、このようなことを、ただ、感じているのだ。

別に原体験というわけではないだろうが、こういうことに思いを馳せた時に、必ずと言って良いほど思い出すエピソードがある。20代半ば、どこで知り合ったのかは忘れたが、とあるベンチャーの社長に入社を勧められた事がある。その時ぼくはある開発のプロジェクトに携わっていて、割と要職を務めていたつもりでもあったので、「自分が抜けると迷惑がかかる」と言うような事を言っていた。その時に、そのベンチャー社長が言った言葉が、当時のぼくには衝撃的だった。

「あなたがいなくてもプロジェクトは回るんだよ」

この言葉を聞いた時、ぼくはそれを真実だ、と捉えた。そして不思議と、その事を悲しむ気持ちとかは起きなかった。むしろ、今まで気付かなかったことに気付いたという爽快感、自身が精神的に成長したような気にさえなったものだ。そう、プロジェクトはぼくが居なくてもきっと大した問題もなく回る。果たしてそれはプロジェクトに限った話なのか?世界はどうだ?ぼくがこの世界から居なくなっても、世界はなんの問題もなく回るだろう。ぼくが居ても居なくても、世界は1ミリも変わらない。

この感覚を、ぼくはネガティヴな意味付けをほとんどすることなく、正しいと確信した。このブログで言うところの思考の結び目を、固く結んだのだった。ネガティヴな感情を伴わなかったことは、割と容易に証明できる。なぜならぼくはこの感覚をその後事あるごとに利用したからだ。いわば道具として。自分が世界に一切の影響を及ぼさないというのは、ある意味とても楽な立場だ。何をしても許される。ぼくがどんなことを述べても、何をしても、物事は壊れない。そんな気楽さを持って、その後数年、傍若無人に振る舞っていたことを今でも思い出す(さすがにその態度には問題があり、態度を見直さなくてはならなかったが)。

そして今もなお、ぼくは世界に影響しないという感覚は、自分の中に根強く残っている。単なる思い込みなのは分かっているので、解体しようと思えばできそうなのだが、その思い込みを解いてしまうと、人や世界に対して影響力を「持ちたい」という増長に繋がりそうで、それはなんとなく美学に反するなーという思いもあり、そのままにしている。だからぼくは未だに、色々やりたがる癖に、それが社会や他人に影響を及ぼすとは本気で信じていないという、矛盾の中に生きている。