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押し売り

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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自己の価値観を解体する、ぼくの編み出したボキャブラリーで言うなら「結び目をほどく」ということだが、その道半ばにして、一つ困っていることがある。他者が持つ価値観とどう折り合うか、という問題だ。

この数年というもの、結び目をほどいてばかりいる、つまり自分の中の思い込みを解体しようとばかりしているおかげで、なるほどそういう作業には長けてきた。自分の中に生じた結び目を見つけてはほどく。ほどく。結び目は、気付かぬうちにすぐできている。今日この文章を書こうと思ったのだって、自分の中に「結び目は解くのが望ましい」という思い込み=結び目が生まれているのを発見したためだ。

そんな作業に慣れてきたからといって、調子に乗って他者の結び目まで解いてみようとしたりする。新たな何かを身につけたと思い上がった時の、お決まりのパターンだ。

そんな中で、ふと気づく。結び目をほどくことは、そんなに望ましいことなのであろうかと。

人が何かを信じている。その確信には根拠がないかも知れないことを示してみる。すると、一瞬ハッとした顔をした後、少し考え込むような顔になる。

その後、目をキラキラさせて「世界の見方が変わった」とでも感謝の言葉を述べてくれることをこちらは期待する。しかし、結果は芳しくないことが多い。「そういう見方もあるね、でも…」と不満気だったり、ひどい時には、自分の思い込みを正当化しようとする方向にエネルギーが向かってしまい、さらにその結び目が固くなってしまうこともある。

例えば自分の仕事に誇りを持てぬまま、金のために働いている風俗嬢がいたとする。彼女に「職業に貴賎なし」を説いて「自分の仕事に誇りを持つべきだ」などと高説を垂れたところで、彼女の心には少しも響くまい。彼女が望むことは、職種の肯定ではない。自分の肯定なのだ。

要は、結び目をほどくことを相手が望んでいないのに、ぼくが調子に乗ってほどこうとするのがおかしいのだ。還元の押し売りだ。「結び目は解いた方が良い」という新たな思い込みが、ぼくの中に生じていたのだ。だから押し売りする。

そもそも普通の人が持ち合わせている結び目の数々は、この社会を生きていく上で普通に持ち合わせておくべき価値観であり、普段は解体する必要のないものだ。そうした結び目に疑問を持たずに生活することで、人はもっと高次の生産活動や、知識や経験を獲得しているのだ。ぼくが、結び目をほどこうと遊んでいる間に、みんなもっと生産的な事をしている。

自分に向けて、敢えて言いたい。結び目をほどこうなんてことに、思い込みを解こうなんてことに、人生の時間を膨大に費やすことは、無駄であると。無駄だから、普通はそこまで時間を費やさない。

ぼくはその無駄を、好きだからやっている。いわば趣味だ。哲学だの思索だのと、まるで高級な事をしているつもりになるのは愚の骨頂。恥を知れ、と自分に言い聞かせたい。

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近況

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 久しぶりの書き込みである。が、書きたいことが特にある訳ではない。 今年初めは、価値観という長年追ってきたテーマについて多くの発想があったので、よくアウトプットしていた。そこについてもひと段落してからは、特に書き留めておきたいこともなく、今に至る。
価値観の件については、以前得た様々な発想を実践に移しているところだ。悪くない。誰のどんな価値観を開示されても、どうせこちらにはイエスと答えるしか選択肢がないので、余計なことに思い煩わずに済む。何を言っても肯定されるという雰囲気が相手に伝わるのか、以前ならなかなか話してもらえなかったような、個人的なことを開示される機会も増えた気がする。
仕事などについては、精一杯やってるとしか言いようがない。ただ、個人的には、死ぬまでの時間を遊んでいるという感覚は日増しに強くなっている。これも、価値の相対化によるものだろう。例えば何が無駄か、無駄でないかを判断するのは、主観の産物でしかない。遊びは無駄で、仕事は無駄じゃない。そんな感覚を失ってみると、全てが水泡に帰するかもしれない遊びでしかなくなる。全くもって不真面目な人間になりつつある。
目下の一番の悩みは食生活だ。爛れた食生活が嫌でたまらないのに、一向に改善しない。要は食の快感に依存している訳だ。しかも、その快感は毎食ごとに呼び起こされてしまうものだからタチが悪い。この依存を断ち切り、健康に関する不安を取り除きたい。そしてできれば長く人生を遊んでいたいというのが、今最も望んでいて、手に入らないことである。

ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合平についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

アキレスが亀に追いつけない」という逸話で有名なゼノンのパラドックスや、「クレタ人はみな嘘つきである」で有名なエピメニデスのパラドックス、そして先ほどの集合平はラッセルのパラドックスから着想した問題らしいが、現実世界では問題にならないことが、思考で捉えようとすると、論理として成立せず、真とも偽とも言えない状態が…

2017

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 新しい年が始まった。初日はぼくの実家でダラダラしながら、合間にグダグダものを考えていた。ここに示すのはメモであり、私以外の人間が読んでもおそらく意味がわからないだろう。
昨年は、あらゆる価値観を肯定する術を見出したように思い、実践する日々であった。その結果得られた洞察もある。
あらゆる価値観を肯定しようとするものには、いくつかのハードルが現れる。
一つが道徳の問題。道徳に反することを肯定することは可能か、という問題である。これは陳腐な問いのようであり、答えは常にイエスとしか思えない。しかし、道徳の表す対象が、社会的な規範ではなく、内面的な規範や美学であった場合、事は複雑になる。私は、(自分的には絶対許せないと確信している)麻薬の売人や、女性や子供に暴力を振るう男を肯定できるのか?という問題である。絶対に肯定はしたくない。しかし一方で肯定もしたい。それは無矛盾を求める気持ちからである。
一つが主客の問題。私が許せるもしくは許せないことと、社会的に許されているもしくは許されていないことの間に、不一致があった場合のジレンマである。
さらに一つは、勉強熱心な政治家のジレンマである。政治家は勉強熱心であればあるほど、大衆の感覚がわからなくなっていく。大衆はそこまでものを考えていないからだ。これは、大衆をバカにしているのではない。専門家とそれ以外、という構図がある場合にはどこにでも成り立つことであり、いわば社会の至る所にあるジレンマである。ただそれが政治家の場合は、大衆の気持ちと乖離するということが彼にとって致命的だということだ。もしかすると国の将来にとっても。そういう意味で、私は昨年のトランプショックのことは忘れないだろう。 そして、私は価値観についての諸々を考えるうち、一般的な感覚からはだいぶ遠いところに来てしまった感覚がある。おかしい、私は社会一般、人間一般を探求していたはずなのだが。
このうち、前の二つについては今日、解決のヒントが見えた。
個人の価値観と集団の価値観の間にジレンマがある、というのが二つの問いの前提にある。そしてそこに乖離が生じたときに問題が発生する。
しかし私は実は、乖離が生じたときの問題については昨年乗り越えていたのだった。すなわち、社会的な価値観を受け入れるかどう…