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極端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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ぼくはどうやら、極端を愛する性格らしい。ほどほど、ができない。タバコを吸えば吸いすぎる。お酒を飲めば飲みすぎる。趣味にハマればハマりすぎる。そして、ある時点ですっと、潮が引くように辞めたりする。タバコももう吸ってない。お酒も飲んでない。以前ハマった数々の趣味も、今はほとんどやってない。こういうのは、母親譲りだ。

こういう性格だから、例えばぼくが宗教や思想にかぶれたとしたら、なかなかの狂信っぷりを発揮することだろう。実際、社会貢献や非営利活動に精を出していた頃は、利他的な思考を徹底させようと努めていたものだ。一時期のぼくはストイックな聖人君子で理想主義者であった。

ただ、利他的で社会主義的な思想が行き過ぎると、自分という個人の欲望との折り合いがつかなくなってくる。その矛盾に耐えかねて、「社会起業家」という範疇から逃げ出したし、「善悪とは何か」という問題が、ずっとぼくの中での重要なテーマであり続けることになったのだった。そしてそうすると、今度はそういうテーマをずっと追いかける羽目になるのだ。極端に。

そして、そういうテーマについて考えをあれこれ巡らせているとそのうち、「中庸」の大事さがわかってくる。何事もやり過ぎはよくない。過ぎたるは及ばざるが如し。

そしてこういう中庸的な価値観は、実は多くの人が自然と身に付けている所作だったりする。ぼくが長い長い回り道をして理解し、ようやく実践に移そうかという事柄を、世の中のほとんどの人は考えることもなく実践しているのだ。こういうところからも、最近ぼくが感じている「普通の人が凄い」という感覚が生まれているのだろう。

とはいえ、ぼくのように極端な人間には、中庸は実に難しい。どうすれば中庸をぼくなりに実践できるかを考え続け、そのやり方を見出したのはつい最近だ。そのやり方とは、両極端を全力で肯定することである。善も、悪も肯定する。右も左も。美も醜も。論理も非論理も。おかげで、物事を肯定するためのボキャブラリーがすぐ口を突いて出るようになった。特に「面白い」は魔法の言葉だと思う。

そしてもう一つ。こうやって考え過ぎるのも、極端な振る舞いの一つだから良くない、ということにも気付いている。だから一時期、一切思想や哲学から離れていた時期もある。下手な考え休むに似たり、というやつだ。

しかし、考え過ぎる性格もどうやら性分らしく、やめられない。だからぼくは、考えはするけれども、その考えは無価値であると思うようにした。自分の考えたことを後生大事にありがたがって「気付き」だの「真実」「哲学」だのと位置付けるから良くないのだ。それが、現実をすぐに見誤らせる。ぼくの考えることには一銭の価値もない。なぜ考えるかといえば、それがただ楽しいからだ。こんな風に考えるようになって、ようやくこの世に落ち着いて居られるようになった。誠に我ながら面倒だが、まあそんな自分ももう嫌いではなかったりして。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった