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注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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今朝ジョギングをしていたら、道端に死んだ狸を見つけた。どうやら車に轢かれたものらしい。恐らく轢いた人の手によるものだろう、車道の脇にその死体は寄せられており、車の通行を妨げないようにされていた。

一度はその脇を走り過ぎたが、冷たい灰色のアスファルトの上に横たわる暖かい茶色の毛並、という鮮やかなコントラストがあまりに印象深く哀れを誘ったこと、また狸などという獣を近くで見たことも初めてだったこともあり、いつものように神社に参って折り返す頃には、その狸をせめてどこかの土の上にでも置いて、土に戻る手助けをしてやろうと心に決めていた。

とはいえあまりに非現実的に思えて、もしや早朝の眠気がもたらした幻ではないかなどと自分を疑いつつ元来た道を戻っていると、果たして狸は先ほどと同じように道端に伏していた。

口から軽く血を吐いて、狸は横たわっていた。半ばうつ伏せという姿勢ながらも、右の前足はねじ曲がって、体の外側に向かって大きく開いている。車に刎ねられて折れたのであろう。目はかっと見開かれており、まばたきをする気配はない。

意を決して抱き上げると、ほんのりと暖かいような気がした。死後硬直による、生き物ならぬ硬さや手触りを覚悟していたが、多いに弾力がある。もしかすると、事切れたのはつい先ほどのことかもしれぬ。もしや生きているのではと顔をじっと眺めてみたが、やはりまばたきはない。

産まれたての赤ん坊を抱くように、死んだ狸を横抱きにして、ぼくは山に向かって歩き始めた。たまたま狸の死んだ場所は、公園と隣り合った山の向かい側だったので、車道を渡るとすぐに山に向かう道の入り口に立っていた。山と言っても、入り口は人の手によって畑に切り開かれており、高さもビル5,6階あるかないかの小さな山である。それほど山の奥まで行くつもりもないので、ジョギングのための軽装ではあったが、入るのにためらうことはなかった。

山に入ったのは全くの気まぐれである。実際に狸を抱いて道を渡ってみるまでは、山の隣の公園に入って、どこか隅に置いていこうという算段であった。しかし早朝とはいえ、よく整備された大きめの公園では割と多くの年寄りが朝の散歩をしている。そこに、やたらと軽装の中年男が、死んだ狸なぞを赤ん坊のごとく抱いて現れたらさぞ奇異に映るだろうと思い至り、人気のない山に入ることにしたのであった。

恐らく地主が趣味で作ったものであろう、狭いがよく整えられた畑の横を、狸を抱いて通り過ぎると、枯れて尖った草が多い茂った竹やぶ山の麓に足を踏み入れた。なまじ人気がないだけに、逆にここで誰かに出会ってしまったら、ぼくの異様な立ち居振る舞いに悲鳴でも上げられてしまうのではないかと気が気ではなかったが、そんな心配は杞憂であった。畑の周りには誰もいなかった。いるのはぼくと、口の端からわずかに血を垂らした狸のみであった。

竹山の麓に立つと、尖った草の先っぽが足をちくちくと刺す痛みが、この体験を現実のものだと伝えてくる。すぐにでもこの狸を土に還してくれそうな、土の露出した部分を探す。だが地面は枯れ草に覆われており、どうやらそれはかなわなそうであった。一瞬土手の窪みが目に付き、そこにこの狸を入れてはと思ったが、まだ諦めきれずに地面を探す。微生物や昆虫がすぐにでも寄って来てくれそうな、湿っぽい土がいい。しかしこの「土に還してやりたい」という気持ちはなんなのだろう、自然に思えるが、不思議だ。そんなことを考えながら辺りをきょろきょろしたり、竹山の奥に目を凝らしたりしてみたが、どうやら望むような地面は見当たらないようだ。しょうがないと諦めて、先ほど見つけた窪みに狸を入れようと心を決めた。

竹山の麓の土手の、小さな横穴とでも呼べそうな窪みに狸を横たえる。まるでしつらえてでもあったかのように程よい大きさの窪みである。狸の重みを失った自分の両腕には、まだその温もりが残っているかのように思えた。

静かに横たわる狸に対し、愛おしさを感じた。抱き上げてからほんの数分の間に、ぼくの中には狸に対するこの上ない愛着が生まれていた。この場を去るのが寂しい、という気持ちをはっきりと感じながら、狸の死体が少しでも人目に触れぬよう、窪みの上から垂れ下がっていた枯れ草を下に引っ張ったりなぞした。

自然と、合掌した。

狸を抱いていた腕からは、これまで嗅いだことのないような生臭い匂いがした。これが、野生の獣の匂いか。その豊穣な香りを少しでも味合わんと深く息を吸い込みながら、ぼくはその場をあとにした。

次の日も同じようにジョギングをし、その山の前に差し掛かった時、ぼくはまたも手を合わせた。狸の霊が、八百万の神の一柱となって、その場所を守っているかのような想いを抱いた。ぼくにとってその場が特別な意味を持つようになったことを思い知った。

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近況

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 久しぶりの書き込みである。が、書きたいことが特にある訳ではない。 今年初めは、価値観という長年追ってきたテーマについて多くの発想があったので、よくアウトプットしていた。そこについてもひと段落してからは、特に書き留めておきたいこともなく、今に至る。
価値観の件については、以前得た様々な発想を実践に移しているところだ。悪くない。誰のどんな価値観を開示されても、どうせこちらにはイエスと答えるしか選択肢がないので、余計なことに思い煩わずに済む。何を言っても肯定されるという雰囲気が相手に伝わるのか、以前ならなかなか話してもらえなかったような、個人的なことを開示される機会も増えた気がする。
仕事などについては、精一杯やってるとしか言いようがない。ただ、個人的には、死ぬまでの時間を遊んでいるという感覚は日増しに強くなっている。これも、価値の相対化によるものだろう。例えば何が無駄か、無駄でないかを判断するのは、主観の産物でしかない。遊びは無駄で、仕事は無駄じゃない。そんな感覚を失ってみると、全てが水泡に帰するかもしれない遊びでしかなくなる。全くもって不真面目な人間になりつつある。
目下の一番の悩みは食生活だ。爛れた食生活が嫌でたまらないのに、一向に改善しない。要は食の快感に依存している訳だ。しかも、その快感は毎食ごとに呼び起こされてしまうものだからタチが悪い。この依存を断ち切り、健康に関する不安を取り除きたい。そしてできれば長く人生を遊んでいたいというのが、今最も望んでいて、手に入らないことである。

ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合平についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

アキレスが亀に追いつけない」という逸話で有名なゼノンのパラドックスや、「クレタ人はみな嘘つきである」で有名なエピメニデスのパラドックス、そして先ほどの集合平はラッセルのパラドックスから着想した問題らしいが、現実世界では問題にならないことが、思考で捉えようとすると、論理として成立せず、真とも偽とも言えない状態が…

2017

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 新しい年が始まった。初日はぼくの実家でダラダラしながら、合間にグダグダものを考えていた。ここに示すのはメモであり、私以外の人間が読んでもおそらく意味がわからないだろう。
昨年は、あらゆる価値観を肯定する術を見出したように思い、実践する日々であった。その結果得られた洞察もある。
あらゆる価値観を肯定しようとするものには、いくつかのハードルが現れる。
一つが道徳の問題。道徳に反することを肯定することは可能か、という問題である。これは陳腐な問いのようであり、答えは常にイエスとしか思えない。しかし、道徳の表す対象が、社会的な規範ではなく、内面的な規範や美学であった場合、事は複雑になる。私は、(自分的には絶対許せないと確信している)麻薬の売人や、女性や子供に暴力を振るう男を肯定できるのか?という問題である。絶対に肯定はしたくない。しかし一方で肯定もしたい。それは無矛盾を求める気持ちからである。
一つが主客の問題。私が許せるもしくは許せないことと、社会的に許されているもしくは許されていないことの間に、不一致があった場合のジレンマである。
さらに一つは、勉強熱心な政治家のジレンマである。政治家は勉強熱心であればあるほど、大衆の感覚がわからなくなっていく。大衆はそこまでものを考えていないからだ。これは、大衆をバカにしているのではない。専門家とそれ以外、という構図がある場合にはどこにでも成り立つことであり、いわば社会の至る所にあるジレンマである。ただそれが政治家の場合は、大衆の気持ちと乖離するということが彼にとって致命的だということだ。もしかすると国の将来にとっても。そういう意味で、私は昨年のトランプショックのことは忘れないだろう。 そして、私は価値観についての諸々を考えるうち、一般的な感覚からはだいぶ遠いところに来てしまった感覚がある。おかしい、私は社会一般、人間一般を探求していたはずなのだが。
このうち、前の二つについては今日、解決のヒントが見えた。
個人の価値観と集団の価値観の間にジレンマがある、というのが二つの問いの前提にある。そしてそこに乖離が生じたときに問題が発生する。
しかし私は実は、乖離が生じたときの問題については昨年乗り越えていたのだった。すなわち、社会的な価値観を受け入れるかどう…