2016年2月14日日曜日

周回

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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先日のIoCというタイトルの文章を書き終えたあと感じているのが、「また一周回った」という感覚である。

こうした感覚は、実は初めてのことではない。散々色んなことを考え漁った挙句、現実世界に「戻ってくる」という感覚だ。

といっても、旅をして戻ってきたという感覚とは違う。考えを進めるうちにどんどん現実世界から思考が乖離していき、ただの抽象的な記号を操作するような段階を経て、結局は現実世界をただ説明しただけに過ぎないということに気付くという体験である。

この体験を繰り返すうち、自分の「考え癖」みたいなものに特別な価値を置かなくなったのは良い傾向だ。昔は「哲学をしてる自分」にいくばくかの陶酔を感じていたものだが、結局その結果がいつも「あれ?これだけ?」という程度の収穫しかないものだから、これは大いなる無駄である、普通の人はこんなことに時間を使うべきではない、ただぼくはその無駄が好きだからやっているだけだと結論づけるに至ったのだ。

とはいえまあ、全くの無駄とも思ってはおらぬ。一周するたび、以前よりほんのちょっと世界に納得する。世界を説明するシナリオを、一つ増やすことができる。今回のシナリオはこんな感じだ。(今回の文章は、今回の周回に関するログを残すことが目的なので、いつもよりさらにひどい)

ぼくは価値や価値観と言った問題に深い関心を寄せている。その理由は様々だが、主なものを以下に挙げる。

1つは、価値観という物差しが現実認識を歪めることへの問題意識。バイアスなどと呼ばれる現象だ。経営者を志す以上、現実をシビアに捉える感覚が重要だと思ったのだ。

1つは、特定の価値観を支持すると必ず誰かを否定することになるということ。それにより、何人もの人を傷付けてきた。もう誰も否定したくない。あらゆる価値観を肯定したい。

更に1つ挙げるなら、仕事の面でいろんな角度で発想したり、様々な立場の人に配慮したりすることが求められたからだ。画一的な価値観にしがみついていては、発想の幅が限られてしまうし、違う立場に対する配慮も限られる。

そうした内的な要請により、ぼくは特定の価値観に与せず、あらゆる価値観を肯定する態度を身に付けられないかと模索した。そのためにぼくが依ったのが、価値の実在を否定するという手段である。

改めて価値の実在性に疑いの目を向けてみると、価値とは総じて無根拠なものであると気付く。何かが「良くて」、何かが「悪い」と判断するには、何らかの基準が必要だが、概してその基準とは人為的な論理に基づくものだ。

価値基準とはいわば一種のルールである。そのルールが守られる絶対的な保証などない。ルールを守れ、というルールは、無限退行を引き起こす。あらゆる価値観は、疑い得る存在なのだ。

そして、実在と存在の境目とは実は曖昧なもので、そこにある違いは確信の度合いでしかない。例えば目に見え触れるものは、その存在を疑い難く、実在すると感じるに十分な信頼を寄せられる。一方で、目に見えないものの存在は、なかなか信じることができない。目に見えぬ放射能のように。

こうして、価値という存在への絶対性を疑うことにより、価値の実在を否定することで、あらゆる価値の存在を否定し、あらゆる価値観を等しく無価値と見なし、あらゆる価値観を否定しない態度を身に付けようとしたのだった。

果たして、この試みはある程度成功し、従来否定していたものの多くを肯定できるようになった。また、法や道徳と言った社会的な価値観も相対化できたため、精神的な自由も獲得できた。すなわち、「悪を行う自由」の発見である。

しかし、新たな問題も生じる。1つは、生きている限り、価値観の相対化を徹底させることは不可能であると気付かざるを得なかったこと。もう1つは、多くの人が備えている価値感覚をすべて「(無益な)思い込み」と断じてしまう危険性だ。

1つ目の問題について。
すべては等しく無価値、と言う態度を徹底させることは不可能である。あらゆる価値判断が不可能になってしまうからだ。

よく考えると、人間の価値判断というものは、生物としての本能に根ざしたものであるに違いない。生きるため、食うため、殖えるためには、危険より安全を、不味いものより美味いものを、弱いつがいよりも強いつがいを、という判断が必要になる。こうした判断は、それぞれに価値を伴うものと言って差し支えあるまい。どれほど価値を相対化しようとも、生きる上で必要不可欠な価値観というものが残る限り、徹底させることは叶わぬ夢なのだ。

2つ目の問題は、他者の価値観をすべて単なる思い込みとして処理しようとする態度が発生してしまったことだ。

価値観は思い込みの一種であるということに間違いはないとしても、その思い込みが無益であるという前提は間違っている。それどころか、ほとんどの人にとって、それらの価値観は必要に迫られて保持していたり、好んで保持していたりするものであって、有益無益を他者が論じるような類のものではない。というか、それこそ価値観の押し付けではないか。

しかし、価値が相対的だと知りつつ、自発的に価値観を選び取っていくことはできるのではないか。それが今回、論理の円環を閉じることができた気付きであった。なるほど価値観なくしては、生きていくこともままならない。そして人は、自覚しているとしていないに関わらず、価値観の網の目を意識上に張り巡らせ、世界を眺めている。価値観というフィルターがどうしても必要ならば、必要に応じて使い分けていけばいい。

これでようやく、ぼくの内面が、「普通の人」と同じく構成できることになった。価値観のフィルターを幾重にも重ね合わせた内面世界。それを常態として受け入れる態度。しかし少しだけ、以前と違うことがあるとすれば、そのすべてが疑い得ると知ったこと、その「疑わしいもの」を、必要に応じて、もしくは自ら好んで選び取るという意識。

価値観を始めとした様々なルールには、「疑い得ない地点」を求めることはできぬ。絶対性は見果てぬ夢だ。しかしそれらのルールの存在を受け入れ、自らが望んで受け入れるなら、「自ら」がそのルールを守るべき根拠となる。それが自由という言葉の意味である。