2016年1月7日木曜日

私記(中)

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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前編からの続き)
価値観の相対化(というと大げさだが、要はあらゆる価値観は絶対的なものではない、と考える努力をするということだ)がもたらした新たな問題、それは、善悪の価値観つまり道徳をも相対化して無価値と断ずることによる享楽主義、そして万物は無価値であると切り捨てることによるニヒリズム…ではなかった。そこまで思想を先鋭化するには少し年を取り過ぎていたし、思想を論理的に研ぎ澄ますことを望んでいたわけでもなかったからだ。(もちろん、多少のモラル低下や虚無感はあったのだが)

ぼくを悩ませたのは、価値観の相対化に伴って生じる矛盾の存在だ。
人間が生きていくためには、価値観の存在が不可欠だ…ぼくはそのことを身をもって知った。日常のあらゆる選択に、価値観という物差しが必要とされる。それが単に「今から何を食べるか」などの軽微な価値判断ばかりならいいが、事業作りなどの、価値判断に一貫した連続性が求められるような状況では、どうしても、意思決定者の価値観に根ざした判断が(頻繁に)求められる。

そこで、ある程度価値観を固定させようと試みると、とたんに「それは過ちだ」という心の声が聞こえてくる。ニーチェの思想では、相対的な価値観の存在も許さなかったと言われるが、まさにその状態である。一貫した、固定化した価値観を心の中に持ち育てること、それがいずれ絶対的なものに育ってしまうことを恐れるあまり、価値感覚を抱いたそばから否定するという状態になってしまった。これは、新しい種類の良心の声である。「価値観を抱くことは罪である」という、新しい道徳から生まれた、新しい良心の咎め。道徳やドグマを否定する行為そのものが、新たな道徳とドグマを生み出してしまったのだ。これが、ぼくが直面した大きな矛盾であった。

とはいえ、繰り返すが、価値判断なくして人間は生きてはいけない。新しく生まれた良心に咎められながらも、毎日を生きていくしかなかった。結局前述の矛盾は、日々の暮らしを続けているうちに「自然と」解消されていったのである。何かドラスティックな発見や啓示を受けて、乗り越えられたわけではない。「時が解決した」というやつだ。

だが今なら、自分の心に何が起こり、矛盾を乗り越えられた…というか折り合いを付けた…のかは多少言語化できる。それについては後編に記すこととする。
後編に続く)