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ルール

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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前回の思索に引き続き、ルールという現象について考える。

ルールには、罰を伴うものと伴わないものがある。罰を伴うルールは、良心とその呵責を連れてくる。良心の呵責とは、罰への恐れだ。他者に知られたら罰される、そういう恐れが、良心の呵責の正体だ。そういう意味で、罰を伴うルールは道徳的規範そのものであるとも言える。

ルールは人が定めるものであり、そこには必ず何らかの「意図」が作用する。なるべく、コミュニティの大多数の幸福に利する意図のみが法となるよう、「みんなで決める」という方式を採用しているのが民主主義である。

ルールの本質的な性質として、「ルールを守らねばならないというルール」は根本的に定義できないというものがある。そのため、ルール自体に対して「なぜこれを守らねばならないか?」を問うと、すぐに行き止まりにぶち当たる。「人を殺してはいけないのはなぜか?」という問いに対して、法を持ち出して答えても、「なぜその法を守らねばならないのか?」を問われればそこでギブアップだ。

しかし普通はそこまで考えない。多くの人に取って、法と罰則があれば、充分に法を遵守する理由になる。罰則があるならば、先の「なぜその法を守らなければならないのか?」という質問に対して、「罰されるから」と答えることで、罰=不快を避けたいという人間の原初的な本能が、ルールを守る根拠となる。そうして「守るのが得策」という状態を勝ち得ることが、「法を作る」という行為の一つの理想と言える。

ルールの遵守を強制させる方法として、懲罰以外に強力なのは、「みんながそのルールを守っている」という状態を作り上げることである。多くの人がそのルールに概ね満足し、守っているなら、それは大きな強制力となる。社会という存在が、ルールを「護る」のだ。

このように、ルールを皆が守る状況をを作るには、強力な警察力を備えると言った「懲罰」の面からのアプローチも考えられるが、「みんなが既にそれとなく守っている規範」を明文化するといった方法もある。ハイエクの言うところの自生的秩序というやつだ。懲罰によるアプローチと、自生的秩序によるアプローチが、それぞれ冷戦下の社会主義と自由主義のアプローチに重なるのは、決して偶然ではあるまい。

だから、「なぜ人を殺してはいけないか?」という答えにはこう答えられる。まず懲罰の観点から、「殺すと罰されるから」。そして社会的な観点から、「皆が『殺してはいけない』というルールを守っているから」。

とはいえ、論理的に言えばこうなるが、「人を殺す」という行為に対する嫌悪感や反発心を、単純な懲罰への恐れや同調圧力に還してしまうことには異論もあろう。我が国の教育や報道によって、殺人をタブーとする道徳は、強固この上ないものとなっている。こういう状況下で、「なぜ殺人はいけないか」はもはや「語り得ぬもの」の領域にある。殺人がダメな理由は、「ダメだからダメ」とトートロジーで答えるのが、最もふさわしいように思える。

ルールの明文化

ルールが明文化されることには大きな意味がある。明文化されていない状態は、移ろいやすい。そのルールの確固たる存在を認識できない。「書く」ことで、ルールは存在を確固たるものとする。人々が存在に対する確信の度合いを深める。人によってはそれが「実在」と感じられるほどに。

明文化されたルールは、人間の記憶よりは確かなものとして存在するようになる。だから人は、安心してルールの存在を普段は忘れていられる。しかし、時にそのルールを必要とした際、明文化されたルールは変わらずそこに「ある」。

この「変わらない」という性質は、非常なトレードオフを伴う。時代にそぐわないルール、コミュニティ内の多様性に対応できないルール、そもそも成文化のスキルが低く、曖昧過ぎたり、厳密過ぎたり、意図が読み取れなかったりするルールなどが、コミュニティのメンバーを苦しめることになる。

ツールとしてのルール

最後に、ルールとはツールである。ルールが存在すると、何か判断を求められる状況になった際、人はルールに合致しているかどうかのみ考えれば良くなり、思索に費やす時間を大幅に節約できる。ルールより下を考えなくて済むのだ。

「決戦は金曜日」と決めたならば、「決戦をいつにするか」についてはもう考えなくて良い。法的に悪とされていることは、その行為をすべきかどうか、しても良いかどうかをもはや考える必要がない。

なので、例えば組織のスピードを上げたい場合は、適切なルールを定め、更に明文化しておくことで、劇的なスピードアップを図ることができるだろう。その際には、ルールを皆が守るよう、懲罰の仕組みを整えたり、秩序が自生するまで待つ忍耐も必要だろう。メンバーがルールを守りやすいよう、様々なツールを使用するのも良い。時にリーダー自ら懲罰役となり、ルールを組織に浸透させていく必要もあるだろう。組織が大きい場合は、ルールを行き渡らせるために、コストをかけてシステムを構築する必要もあるだろう。

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ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

アキレスが亀に追いつけない」という逸話で有名なゼノンのパラドックスや、「クレタ人はみな嘘つきである」で有名なエピメニデスのパラドックス、そして先ほどの集合はラッセルのパラドックスから着想した問題らしいが、現実世界では問題にならないことが、思考で捉えようとすると、論理として成立せず、真とも偽とも言えない状態が…

2017

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 新しい年が始まった。初日はぼくの実家でダラダラしながら、合間にグダグダものを考えていた。ここに示すのはメモであり、私以外の人間が読んでもおそらく意味がわからないだろう。
昨年は、あらゆる価値観を肯定する術を見出したように思い、実践する日々であった。その結果得られた洞察もある。
あらゆる価値観を肯定しようとするものには、いくつかのハードルが現れる。
一つが道徳の問題。道徳に反することを肯定することは可能か、という問題である。これは陳腐な問いのようであり、答えは常にイエスとしか思えない。しかし、道徳の表す対象が、社会的な規範ではなく、内面的な規範や美学であった場合、事は複雑になる。私は、(自分的には絶対許せないと確信している)麻薬の売人や、女性や子供に暴力を振るう男を肯定できるのか?という問題である。絶対に肯定はしたくない。しかし一方で肯定もしたい。それは無矛盾を求める気持ちからである。
一つが主客の問題。私が許せるもしくは許せないことと、社会的に許されているもしくは許されていないことの間に、不一致があった場合のジレンマである。
さらに一つは、勉強熱心な政治家のジレンマである。政治家は勉強熱心であればあるほど、大衆の感覚がわからなくなっていく。大衆はそこまでものを考えていないからだ。これは、大衆をバカにしているのではない。専門家とそれ以外、という構図がある場合にはどこにでも成り立つことであり、いわば社会の至る所にあるジレンマである。ただそれが政治家の場合は、大衆の気持ちと乖離するということが彼にとって致命的だということだ。もしかすると国の将来にとっても。そういう意味で、私は昨年のトランプショックのことは忘れないだろう。 そして、私は価値観についての諸々を考えるうち、一般的な感覚からはだいぶ遠いところに来てしまった感覚がある。おかしい、私は社会一般、人間一般を探求していたはずなのだが。
このうち、前の二つについては今日、解決のヒントが見えた。
個人の価値観と集団の価値観の間にジレンマがある、というのが二つの問いの前提にある。そしてそこに乖離が生じたときに問題が発生する。
しかし私は実は、乖離が生じたときの問題については昨年乗り越えていたのだった。すなわち、社会的な価値観を受け入れるかどう…

やりたい事探し

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 世の中、「やりたい事を見つける」と言うのが正しい事であるとされているようだ。やりたいことに全力を費やす、そんな時間の楽しさを知っている人間が、悩める人間に与えるアドバイスとしては、しごく真っ当なものだろう。
だが私はここ数年、そうした風潮に異を唱えてきた。私は、会社を3回転職してフリー、その後起業すること3回、一度は収入をかなぐり捨ててコミュニティ活動に全力を費やしたりもした人間だ。「やりたいこと探し」に費やした時間だけは、そうそう人に負けない自信がある。そして、やりたいことを見つけたと思って踏み出すと、その道は大きく外れていて軌道修正を余儀なくされる…という目に何度もあってきた。だから、やりたいことを探す、という行為には非常に懐疑的であった。そんなことに時間を費やすなら、何も考えずに、心の赴くまま行動するほうが良いと。
ただ、そうした「思考放棄」にも聞こえる思想は、実際悩める人々には伝わらないということも最近分かってきた。いやまあ、アドバイスなんてガラではないし、むしろ忌避したいと思うくらいなのだが、年を取るとたまに若い子とそういう話になる事もある。そして、「やりたいこと探し」に大きな時間を費やした人間としては、何事かを伝えたくなってしまうのもまた、事実だ。
そんなことをなんとはなしに考えていたある朝、ほぼ夢うつつの状態で、この件に関して脳が勝手に思考し、答えをまとめていた。そういうことはたまにあるが、だいたい忘れてしまう。しかし今回は、起きたあともはっきり覚えていたので、自分に対しての備忘録がてら書き残そうと思う。
「やりたいこと探し」は、自由な社会に生きる私たち特有の悩みといえよう。今後も自由が保たれるなら -- そうしなくてはならない -- 私たちにずっとついて回る、もしかすると一生付いて回る問いかも知れぬ。
その問いを愚問だとして退けることも難しい。その問いに心が囚われた瞬間から、その人に取って人生最大の関心事となるのは間違いないからだ。では真正面から向かい合うとして、何に気をつけるべきか。どうしたらその問いに誤りなく答えることができるのか。
私が考えるに、気をつけるべきことは3つある。 一つ、「今」に最も集中すること。 一つ、私の「欲」を表す言葉を使うこと。 一つ、答え…