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削ぐ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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言葉は、削ぎ落とすごとに力を増す。10説明したいところをぐっとこらえ、削ぐ、削ぐ、削ぐを繰り返し、残った1には、100を伝える力がある。

削ぎ落とすという工程を経ない言葉は、幾重にも塗りたくった厚化粧のようなものだ。真に伝えるべき言葉の上に、不要な言葉を積み重ね、言葉のインパクトを損ね、真意を濁らせてしまう。

厚化粧してしまう理由は2つある。

1つは真意の価値を小さく見られまいという意識。真意の価値を1とするなら、1以下に見られないようにする努力のことだ。誤解への恐れ、過小評価への恐れだ。

もう1つは真意の価値をより大きく見せたいという意識だ。1の価値を持つ真意を、2,3に見せたいという努力のことだ。多くは虚栄心の為せる業だ。

人は誤解を恐れ、過小評価を恐れ、より自分を大きく見せたいがため、言葉の限りを尽くそうとする。だが残念ながら伝わらない。人間という、記憶にも集中力にも限りがある動物には、長い論理や、聞きたいこと以外の部分は頭に入ってこないのだ。

だから、削る。誤解されるかもしれない、小さく見えてしまうかもしれない、ギリギリのラインまで削る。時には敢えてラインを踏み越えて削る。「誤解を恐れず言うなら」「恥ずかしいことに」などの枕詞を添えれば、それでも真意は充分に伝わるものだ。

しかし、言葉を削ぐのは、他者に伝えるためだけではない。むしろ自分のためだ。

他者から誤解されること、他者から小さく見られることなど、実はそれほど大した事ではない。そんなことは日常茶飯事、他者が自分のことを正確に理解するなど、もとより期待できないのだから。それよりも恐ろしいのは、自分の綴った万の言葉に、自分自身が騙されてしまうことだ。

言葉を紡ぐという行為には、必ずフィクションの入り込む余地がある。多くの言葉を紡ぐなら、多くのフィクションが入り込む可能性があるということだ。

例えば、「自分のやりたいことは何か」と言った定番の質問に自問自答を帰納的に繰り返し、とても綺麗な結論を導き出す。その結論(「やりたいこと」)から今度は演繹的にやるべきことを定める。この長いステップの中に、人を間違いに導く分岐点がどれほど多く含まれていることだろうか。気付けば意に沿わぬ事をしている。ぼくはそんな回り道を、この人生で何度も何度も繰り返してきた。

そんな愚を繰り返さぬよう、ぼくは、言葉を削ぎ落とす。答えの出ない問いには、「答えられない」「わからない」で良い。「自分が生涯かけてやりたいことはなんですか?」と問われれば、「いやー、わからないですねー」と答える。それは勇気だ。飾らない言葉ほど、強い。飾らない勇気。

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ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

アキレスが亀に追いつけない」という逸話で有名なゼノンのパラドックスや、「クレタ人はみな嘘つきである」で有名なエピメニデスのパラドックス、そして先ほどの集合はラッセルのパラドックスから着想した問題らしいが、現実世界では問題にならないことが、思考で捉えようとすると、論理として成立せず、真とも偽とも言えない状態が…

2017

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 新しい年が始まった。初日はぼくの実家でダラダラしながら、合間にグダグダものを考えていた。ここに示すのはメモであり、私以外の人間が読んでもおそらく意味がわからないだろう。
昨年は、あらゆる価値観を肯定する術を見出したように思い、実践する日々であった。その結果得られた洞察もある。
あらゆる価値観を肯定しようとするものには、いくつかのハードルが現れる。
一つが道徳の問題。道徳に反することを肯定することは可能か、という問題である。これは陳腐な問いのようであり、答えは常にイエスとしか思えない。しかし、道徳の表す対象が、社会的な規範ではなく、内面的な規範や美学であった場合、事は複雑になる。私は、(自分的には絶対許せないと確信している)麻薬の売人や、女性や子供に暴力を振るう男を肯定できるのか?という問題である。絶対に肯定はしたくない。しかし一方で肯定もしたい。それは無矛盾を求める気持ちからである。
一つが主客の問題。私が許せるもしくは許せないことと、社会的に許されているもしくは許されていないことの間に、不一致があった場合のジレンマである。
さらに一つは、勉強熱心な政治家のジレンマである。政治家は勉強熱心であればあるほど、大衆の感覚がわからなくなっていく。大衆はそこまでものを考えていないからだ。これは、大衆をバカにしているのではない。専門家とそれ以外、という構図がある場合にはどこにでも成り立つことであり、いわば社会の至る所にあるジレンマである。ただそれが政治家の場合は、大衆の気持ちと乖離するということが彼にとって致命的だということだ。もしかすると国の将来にとっても。そういう意味で、私は昨年のトランプショックのことは忘れないだろう。 そして、私は価値観についての諸々を考えるうち、一般的な感覚からはだいぶ遠いところに来てしまった感覚がある。おかしい、私は社会一般、人間一般を探求していたはずなのだが。
このうち、前の二つについては今日、解決のヒントが見えた。
個人の価値観と集団の価値観の間にジレンマがある、というのが二つの問いの前提にある。そしてそこに乖離が生じたときに問題が発生する。
しかし私は実は、乖離が生じたときの問題については昨年乗り越えていたのだった。すなわち、社会的な価値観を受け入れるかどう…

2016

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- この一年は、実践の年であった。サービスを一つ世に出し、運営した。多くの企画ごとや遊びを行い、人と交わった。
特にあらゆる価値観を肯定する、というスタンスに身を置くことを定め、実践を繰り返して態度を補強してきたのは、自分的には価値があった。交友関係は広がったし、思考の柔軟性も高まったように思う。また、価値観の肯定を心より行うためには、自身と違う考え方をまずは受け入れる必要があるが、そのために私は「面白い」という言葉を発するようになった。この習慣が、相手に対する自然な敬意を抱くことにもつながっており、相対的に自分が謙虚になるのも良い変化である。
ただ、あらゆる価値観を肯定するという態度を保ち続けることの難しさも日々実感している。どうしても好みは偏り、自分に禁じている以下の言葉を発してしまう。
・つまらない ・くだらない ・興味ない
来年は引き続き、こうした言葉を発さない人間になるための実践を繰り返す日々となるだろう。
また、今年は実践を重んじたがために、学問に時間を割けず、また、生活に意識的な学びの時間を入れることができなかった。来年は、最先端コンピューティングと数学、そして現実の社会に関する知識の習得に時間を割いていきたい。