2016年1月25日月曜日

エクリチュール

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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書くとは不思議な行為だ。先日、「私記」と題した駄文を公開することで、自分の中に様々な変化が訪れたことを実感する。

書くということに限らず、何事にも良い面と悪い面がある。

書くことの良い面については、世の中の様々なところで語られているので割愛する。ここでは、世の中であまり語られていないように思える、書くことの悪い面について考えたい。

書くことの悪い面とは、思うに、考えが一度「形を成してしまう」ことだ。

様々に発散する可能性のある思索が、書くという行為によって一点に収束する。一度収束してしまうと、次の思索はその収束点を起点に考え始めてしまう。そこで論理の糸に一つ結び目が出来てしまう。その結び目から思索を開始する方が、毎回ゼロから考え直すよりも楽なので、役立つ拠点として何度も利用する。そのうちに、その拠点の「正しさ」を疑えなくなってくる。ドグマの誕生だ。

そして、形になり、人目に触れるようになった思索は、メディアとして一人歩きを始める。そうなると、社会からも一貫性を求められ(もしくは書き手がそう思い込み)、より、「書く以前」の自分に戻ることが難しくなる。

ぼく自身、書くことによって余計な思い込みを生み出し、そこから脱するのにどれほどの労力を費やしたか、計り知れない。人をマインドコントロールしたければ、「書かせる」「言わせる」のが一番だ。

かように、「書く」という行為は大きなリスクを伴うものと考えるが、世の中は不思議と書くことを礼賛する論評ばかり見かける気がする。この件に対峙したのはデリダくらいか。デリダは全く読んだことがなく、難解という印象が先行してなかなか手が伸びないのだが、一度挑戦してみるか。