2016年1月19日火曜日

私記(後)

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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中編からの続き)
前編
価値観の相対化を進めた先にあった矛盾。それは、価値という概念の無謬性を確信し、存在を否定したい気持ちと、それでもなお価値感覚が自分の中に存在することを発見し、存在を否定できないというせめぎあいであった。

そして今ではその矛盾は、自分の中で折り合いがついている。それはただ、価値の存在を受け入れただけである。存在するものを否定しようとするから、矛盾に陥るのだ。受け入れてしまえばどうということはない。

確かに価値観とは相対的なもので、何かを論ずる際の絶対的な基盤とはなり得ない。だからと言って、絶対ではないからと言って、存在まで消しにかかる事はない。「ある」というのを受け入れてしまえばいい。

そもそも、なぜぼくは価値の存在を否定しようとしたのか。それは、絶対性が揺らいだときに、「実体がない」と捉えたこと、より踏み込んで言えば実在しないと捉えてしまったことにある。実在しないものの存在を信奉するという、この科学全盛の時代にそぐわない態度を、精神が拒絶しようとしたのだ。あたかも、霊魂や神の存在を拒絶するが如く。その存在否定が、価値感覚が存在するという事実と論理的に衝突し、矛盾を感じるに至ったのである。

しかしここで、存在を否定するという行為にストップをかけ、「事物に価値を感じる」という現象そのものを受け入れてしまえば、矛盾は解決する。「価値観というものは相対的なものだ、しかし、自分を含め、誰にでもその感覚は備わっている」という現実を受け入れることができる。

これは、フッサールだ。エポケーし、事象そのものへと向かったわけだ。なんのことはない、ぼくの数年間の葛藤は、フッサールの実践そのものであった。

先の、存在否定へと至る道筋も、フッサール的に解釈できる。「(価値は)実在しないから、存在を認めない」その態度が、現実との衝突を引き起こしたわけだが、そもそも実在と存在の間に確固たる違いなど、ない。その存在を確信する度合いが違うだけだ。

目に見え、手で触れるものは存在を強く確信でき、「実在する」と感じやすい。それすら、感覚器官に頼っているだけでしかないのだが。感覚器官を騙されれば、人は容易に実在を感じることだろう。

そうでないものについては、その人がどういう経緯で存在を感じたかによる。大きなウェイトを占めるのは、幼少期の教育だろう。子供を育てていると判るが、子供は善悪の価値観も、貨幣価値も、目に見えない国境も、美醜についても、人種や障害の有無による差別も、職業の貴賎に対する感覚も、何も持ち合わせていない。それらをインストールするのは、周りの大人たちだ。

そうして、教育や洗脳、自らの経験によって強固に信じ込まされた概念を、人は実在すると感じる。そしてさらに、実在するものは、実在しないものよりも価値が高い、という価値観も、今の僕らにはインストールされている(「実在があやふやなものに畏敬の念を感じる」という時代も、人間の歴史にはあっただろう)。

だから、(ぼくが陥ったように)事物の実在を疑わされる出来事があると、それらを無価値と断じ、排斥しようという心が働いてしまうのだ。

だがそもそも、「実在と存在の間には、主観による確信の度合いという差しかない」となれば、実在と非実在の間に価値の差を感ずる必要もなくなる。というか、実在と非実在という二項対立そのものが意味を成さなくなる。
「絶対的なものなどない、それはその人の主観が事物から勝手に「絶対性」を感じ取っているだけだ」となれば、絶対性の確信が崩れたときに落胆することもない。というか、そもそも絶対性を信じることもない。
こんな態度を「色即是空、空即是色」「諸行無常」などと表してもよかろう。まあ、宗教臭くなって、却って怪しくなるから、ほどほどにしておくが。

ここに至るまで数年、ぐちゃぐちゃと考えを巡らした結果、ようやく、こうした「納得」が訪れた。「哲学とは何か」を語るのは難しいし、ぼくにはその資格があるとも思えないが、一つ自分の言葉で語れることがあるとすれば、この「納得」を得ることが哲学の目的なのだとも思う。今自分が生きている世界と、自分の人生に納得するための思索。

これだけ思索して得たものは結局のところ「普通」である。ぼくの中の哲学は外の世界を少しも変えてはいないし、ぼくを超人にすることもなかった。年相応の世界に対する納得感、人生との折り合いを付けられたというだけだ。ぼくは「普通の人」をこそ尊敬する。

価値の相対化がなされたことで、ぼくの世界との接し方は、また変わった。自分の人生を価値あるものに、なんて考えなくなってしまった。価値なんてあやふやなものに、人生を捧げてたまるか、くらいの気持ちである。物事の善悪に頭を巡らすこともない。正しいかどうか、すらあまり考えなくなった。客観的で絶対的な基準など、存在しないからだ。

こんなふうに世界に接し始めてから、まだ日が浅い。新たな発見も多い。今しばらくは、こんなスタンスで世界と接してみようと思う。