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私記(後)

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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中編からの続き)
前編
価値観の相対化を進めた先にあった矛盾。それは、価値という概念の無謬性を確信し、存在を否定したい気持ちと、それでもなお価値感覚が自分の中に存在することを発見し、存在を否定できないというせめぎあいであった。

そして今ではその矛盾は、自分の中で折り合いがついている。それはただ、価値の存在を受け入れただけである。存在するものを否定しようとするから、矛盾に陥るのだ。受け入れてしまえばどうということはない。

確かに価値観とは相対的なもので、何かを論ずる際の絶対的な基盤とはなり得ない。だからと言って、絶対ではないからと言って、存在まで消しにかかる事はない。「ある」というのを受け入れてしまえばいい。

そもそも、なぜぼくは価値の存在を否定しようとしたのか。それは、絶対性が揺らいだときに、「実体がない」と捉えたこと、より踏み込んで言えば実在しないと捉えてしまったことにある。実在しないものの存在を信奉するという、この科学全盛の時代にそぐわない態度を、精神が拒絶しようとしたのだ。あたかも、霊魂や神の存在を拒絶するが如く。その存在否定が、価値感覚が存在するという事実と論理的に衝突し、矛盾を感じるに至ったのである。

しかしここで、存在を否定するという行為にストップをかけ、「事物に価値を感じる」という現象そのものを受け入れてしまえば、矛盾は解決する。「価値観というものは相対的なものだ、しかし、自分を含め、誰にでもその感覚は備わっている」という現実を受け入れることができる。

これは、フッサールだ。エポケーし、事象そのものへと向かったわけだ。なんのことはない、ぼくの数年間の葛藤は、フッサールの実践そのものであった。

先の、存在否定へと至る道筋も、フッサール的に解釈できる。「(価値は)実在しないから、存在を認めない」その態度が、現実との衝突を引き起こしたわけだが、そもそも実在と存在の間に確固たる違いなど、ない。その存在を確信する度合いが違うだけだ。

目に見え、手で触れるものは存在を強く確信でき、「実在する」と感じやすい。それすら、感覚器官に頼っているだけでしかないのだが。感覚器官を騙されれば、人は容易に実在を感じることだろう。

そうでないものについては、その人がどういう経緯で存在を感じたかによる。大きなウェイトを占めるのは、幼少期の教育だろう。子供を育てていると判るが、子供は善悪の価値観も、貨幣価値も、目に見えない国境も、美醜についても、人種や障害の有無による差別も、職業の貴賎に対する感覚も、何も持ち合わせていない。それらをインストールするのは、周りの大人たちだ。

そうして、教育や洗脳、自らの経験によって強固に信じ込まされた概念を、人は実在すると感じる。そしてさらに、実在するものは、実在しないものよりも価値が高い、という価値観も、今の僕らにはインストールされている(「実在があやふやなものに畏敬の念を感じる」という時代も、人間の歴史にはあっただろう)。

だから、(ぼくが陥ったように)事物の実在を疑わされる出来事があると、それらを無価値と断じ、排斥しようという心が働いてしまうのだ。

だがそもそも、「実在と存在の間には、主観による確信の度合いという差しかない」となれば、実在と非実在の間に価値の差を感ずる必要もなくなる。というか、実在と非実在という二項対立そのものが意味を成さなくなる。
「絶対的なものなどない、それはその人の主観が事物から勝手に「絶対性」を感じ取っているだけだ」となれば、絶対性の確信が崩れたときに落胆することもない。というか、そもそも絶対性を信じることもない。
こんな態度を「色即是空、空即是色」「諸行無常」などと表してもよかろう。まあ、宗教臭くなって、却って怪しくなるから、ほどほどにしておくが。

ここに至るまで数年、ぐちゃぐちゃと考えを巡らした結果、ようやく、こうした「納得」が訪れた。「哲学とは何か」を語るのは難しいし、ぼくにはその資格があるとも思えないが、一つ自分の言葉で語れることがあるとすれば、この「納得」を得ることが哲学の目的なのだとも思う。今自分が生きている世界と、自分の人生に納得するための思索。

これだけ思索して得たものは結局のところ「普通」である。ぼくの中の哲学は外の世界を少しも変えてはいないし、ぼくを超人にすることもなかった。年相応の世界に対する納得感、人生との折り合いを付けられたというだけだ。ぼくは「普通の人」をこそ尊敬する。

価値の相対化がなされたことで、ぼくの世界との接し方は、また変わった。自分の人生を価値あるものに、なんて考えなくなってしまった。価値なんてあやふやなものに、人生を捧げてたまるか、くらいの気持ちである。物事の善悪に頭を巡らすこともない。正しいかどうか、すらあまり考えなくなった。客観的で絶対的な基準など、存在しないからだ。

こんなふうに世界に接し始めてから、まだ日が浅い。新たな発見も多い。今しばらくは、こんなスタンスで世界と接してみようと思う。

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ミッション

今日はぼくにとって重要な日となった。
個人のミッションステートメントを変更したのだ。

新しいミッションステートメントは「ひとのために生きる」である。

これまでのミッションステートメントは「0から1を、1つでも多く生み出す」であった。2014年、とあるイベントで人前で宣言してしまい、それ以来従事してきたミッションだ。それに従って数多くの物事を生み出してきて、クリエイティブな思考の鍛錬と、多くの人々をつないできた。

しかし数を追う思考になってしまい、集中力の欠如、配慮の欠如、作り手中心の目線、自己中心的な心理、サステナビリティの欠如、家族との時間が減る、などの弊害も生み出してきた。

とはいえ物事はすべて表と裏、トレードオフがあるものだ。弊害があったとしても、それを反省、後悔してミッションを変えるに至ったわけでもない。

ただ、スタートアップ創業者という立場によって集中を余儀なくされ、ミッションを字義通りに追いかけていくことが難しくなったこと、そして何より、ミッション・ステートメントから力を得られなくなっていたことが問題であった。

ミッションとは、自分の行動を一貫させ、意思決定のコストを減らし、物事を迅速に進めるためにある。そうした力を得られないミッション・ステートメントは、かえって弊害にしかならない。実際、ここ最近、謎のストレスと不完全燃焼感に付きまとわれていた。

そうしたとき、自分が最もやる気が出ることに思いを馳せると、「人が喜んでくれるのが嬉しい」というシンプルなことであった。自分の行動や言動で、人が笑顔になってくれることが嬉しい。その笑顔のためなら、自分は限界以上の力を出せる。

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コピーライターとして一つだけ工夫したのは、「ひと」をひらがなで開いたことだ。この「ひと」には、どんな漢字を充てても良い。「他人」でもいいし、「人」でもいいし、「人間」でもいい。

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「本好きの祭典」東京読書サミット#4を開催します!

今週土曜(7/6)、「東京読書サミット」というイベントを開催します📖

このイベントは今回で4回目。
毎回「本」と「本好きの人々」に囲まれた、幸せな空間を演出しております。
どんなイベントか? 今回で4回目ですので、だんだんイベントの「型」も定まってまいりました。
毎回こんな構成で行っております。

16:00-16:30 受付
16:30-16:35 はじめに
16:35-17:20 トークライブ
17:20-17:50 ビブリオトーナメント(予選)
17:50-18:00 10分間休憩
17:55-18:20 ビブリオトーナメント(決勝)
18:20-18:30 結果発表・写真撮影・終了
18:30-19:30 懇親会

ビブリオトーナメントとは?
ビブリオトーナメントとは、参加者同士をつなぐために考案された東京読書サミットの目玉企画です。

このワークショップでは、まず参加者の皆さまをグループに分けたあと、グループ内で「わたしの大事な一冊」をテーマにプレゼン&ディスカッション。

その後投票を行い、一番「読んでみたい」と思わせる本の紹介をした方は、決勝プレゼンに進むことができます。
(決勝プレゼンと言っても、司会者との対談形式で進めますので、あがり症の方でも安心です)



決勝プレゼン後の投票で一位に選ばれたら、その方と、その方を輩出したグループの皆様にはちょっとした景品を贈呈いたします。
ちょっとしたゲーム要素があるおかげで、会話が盛り上がること、グループのメンバーと仲良くなれることは請け合いです😊
トークライブトークライブは、ゲストが「わたしの大事な一冊」をテーマにして、縦横無尽に語り尽くします。

無知

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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今日は、自分が一番物を知らなくて、一番物分りが悪くて、一番ピントがズレてて、そこに居た皆さんが先生で、ずっと緊張してて…最高に楽しかった。ぼくはなんだか、自分の世界を常に広げ続けていたいタイプらしい。願わくば、死ぬまで世界を広げ続けていたいものだ。自分に価値を求めないことで心の安寧を得ている人間としては、自分の慢心を打ち砕き、自分が一番無知であるような場は本当にありがたい。そんな場では、誰もぼくに特段の関心を払わない。なぜなら、その場で一番無価値な人間だからだ。
もちろんそんな場は居心地が悪い。逃げ出したい。不安だ。疲れる。つらい。
しかし、そんな場で素直に自分の無知を認め、自分よりも遥かに年下の人たちに教えを乞うという体験が、最高に刺激的で、生きていると言う実感さえ得られる。逆に言えば、居心地のいい場所でのんびり構えている時は、半ば死んでいるようなものとすら感じられる。願わくば死ぬまでこういう経験をしていきたいものだ。死ぬほど、生きろ。悪くないコピーじゃないか?