2016年1月6日水曜日

私記(前)

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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新年である。

昨年の総決算も、新年の抱負も、真面目に語るのがおこがましいという気持ちである。「価値」「価値観」といった言葉と内面的な格闘を繰り広げた結果、自分の人生には人に語るべきものなど何一つない、という結論に満足してしまっている自分がいる。よって、新年始まったところで、書くのは相変わらずの内的なメモである。人様に語って愉しませるようなものなど何も持ち合わせていない。自分に向かって書く。言語化そのものを目的として。

ここ数年、価値観について堂々巡りの思考を重ねてきた。この飽きっぽい自分が、目指すものを変えるたび、価値観も変化してきた。その変化のたびに、以前価値があると思っていたものが色褪せて見えたり、以前は嫌っていたものの価値を認めたり、という経験をしてきた。パラダイムシフト、というやつだ。

価値についてごちゃごちゃ考え始めたのは、単純に、この現象が不思議だったからだ。フッサール流に言うなら、主観の持ちようによって、全く違う世界像が結ばれると言おうか。
あと、自分とは違う価値観の存在を、どうにかして積極的に肯定できるようになりたいという気持ちもあった。自分とは違う価値観を否定してしまうことが、他者を傷つけたり、現実を直視する妨げになったり、という現象に悩まされてきたからだ。

しかし、自分と違う価値観の他者を無条件で肯定するのは、とても難しい。自分と他人に違う物差しを使うということであり(例えば「自分に厳しく他人に優しい」とのような)、そんな器用なことはぼくにはできなかった。

そこでぼくが一昨年から昨年前半くらいまでに身につけた所作が、価値観の相対化である。
絶対的な価値観などありはしない。自分が今感じている価値も含めて。核の炎に包まれたあとの荒野では、紙幣などケツを拭く紙にもなりゃしない。殺人が罪にならないとか、自殺が美徳だという世界だって、現実にある。
価値観とは、地域や時代によって移り変わるものであり、それに思考を縛られることこそが、自分の可能性を狭めるものに他ならない。

この考えを突き詰めることは、ぼくに精神的な自由をもたらした。
なにしろ、善悪の価値観も相対化されるので、道徳からも解放される。良心の声など幻聴に過ぎない。ぼくには、悪事をする自由も、不道徳をする自由もある!と言った具合に。

同時に、他者に対しても優しくなれる。誰もが、自分なりの価値観を持っていていい。善も悪も、価値は同じ。高潔も下劣も。論理も非論理も。理性も感性も。清貧も貪欲も。みんな自由にするといい。ぼくもそうする。

果たして、あらゆる価値観を肯定する、という目的は果たされた。そして、価値観とは何かについても答えが出た。価値観とはただの無益な思い込みのことだ。それ以上でもそれ以下でもない。価値観の相対化により、ニーチェ先生のお導きにより、ぼくの目的はすべて果たされた!

しかし、価値観の相対化は、同時に新たな問題の入り口でもあったのだ、当然ながら。

中編に続く)