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私記(前)

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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新年である。

昨年の総決算も、新年の抱負も、真面目に語るのがおこがましいという気持ちである。「価値」「価値観」といった言葉と内面的な格闘を繰り広げた結果、自分の人生には人に語るべきものなど何一つない、という結論に満足してしまっている自分がいる。よって、新年始まったところで、書くのは相変わらずの内的なメモである。人様に語って愉しませるようなものなど何も持ち合わせていない。自分に向かって書く。言語化そのものを目的として。

ここ数年、価値観について堂々巡りの思考を重ねてきた。この飽きっぽい自分が、目指すものを変えるたび、価値観も変化してきた。その変化のたびに、以前価値があると思っていたものが色褪せて見えたり、以前は嫌っていたものの価値を認めたり、という経験をしてきた。パラダイムシフト、というやつだ。

価値についてごちゃごちゃ考え始めたのは、単純に、この現象が不思議だったからだ。フッサール流に言うなら、主観の持ちようによって、全く違う世界像が結ばれると言おうか。
あと、自分とは違う価値観の存在を、どうにかして積極的に肯定できるようになりたいという気持ちもあった。自分とは違う価値観を否定してしまうことが、他者を傷つけたり、現実を直視する妨げになったり、という現象に悩まされてきたからだ。

しかし、自分と違う価値観の他者を無条件で肯定するのは、とても難しい。自分と他人に違う物差しを使うということであり(例えば「自分に厳しく他人に優しい」とのような)、そんな器用なことはぼくにはできなかった。

そこでぼくが一昨年から昨年前半くらいまでに身につけた所作が、価値観の相対化である。
絶対的な価値観などありはしない。自分が今感じている価値も含めて。核の炎に包まれたあとの荒野では、紙幣などケツを拭く紙にもなりゃしない。殺人が罪にならないとか、自殺が美徳だという世界だって、現実にある。
価値観とは、地域や時代によって移り変わるものであり、それに思考を縛られることこそが、自分の可能性を狭めるものに他ならない。

この考えを突き詰めることは、ぼくに精神的な自由をもたらした。
なにしろ、善悪の価値観も相対化されるので、道徳からも解放される。良心の声など幻聴に過ぎない。ぼくには、悪事をする自由も、不道徳をする自由もある!と言った具合に。

同時に、他者に対しても優しくなれる。誰もが、自分なりの価値観を持っていていい。善も悪も、価値は同じ。高潔も下劣も。論理も非論理も。理性も感性も。清貧も貪欲も。みんな自由にするといい。ぼくもそうする。

果たして、あらゆる価値観を肯定する、という目的は果たされた。そして、価値観とは何かについても答えが出た。価値観とはただの無益な思い込みのことだ。それ以上でもそれ以下でもない。価値観の相対化により、ニーチェ先生のお導きにより、ぼくの目的はすべて果たされた!

しかし、価値観の相対化は、同時に新たな問題の入り口でもあったのだ、当然ながら。

中編に続く)

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ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

アキレスが亀に追いつけない」という逸話で有名なゼノンのパラドックスや、「クレタ人はみな嘘つきである」で有名なエピメニデスのパラドックス、そして先ほどの集合はラッセルのパラドックスから着想した問題らしいが、現実世界では問題にならないことが、思考で捉えようとすると、論理として成立せず、真とも偽とも言えない状態が…

2017

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 新しい年が始まった。初日はぼくの実家でダラダラしながら、合間にグダグダものを考えていた。ここに示すのはメモであり、私以外の人間が読んでもおそらく意味がわからないだろう。
昨年は、あらゆる価値観を肯定する術を見出したように思い、実践する日々であった。その結果得られた洞察もある。
あらゆる価値観を肯定しようとするものには、いくつかのハードルが現れる。
一つが道徳の問題。道徳に反することを肯定することは可能か、という問題である。これは陳腐な問いのようであり、答えは常にイエスとしか思えない。しかし、道徳の表す対象が、社会的な規範ではなく、内面的な規範や美学であった場合、事は複雑になる。私は、(自分的には絶対許せないと確信している)麻薬の売人や、女性や子供に暴力を振るう男を肯定できるのか?という問題である。絶対に肯定はしたくない。しかし一方で肯定もしたい。それは無矛盾を求める気持ちからである。
一つが主客の問題。私が許せるもしくは許せないことと、社会的に許されているもしくは許されていないことの間に、不一致があった場合のジレンマである。
さらに一つは、勉強熱心な政治家のジレンマである。政治家は勉強熱心であればあるほど、大衆の感覚がわからなくなっていく。大衆はそこまでものを考えていないからだ。これは、大衆をバカにしているのではない。専門家とそれ以外、という構図がある場合にはどこにでも成り立つことであり、いわば社会の至る所にあるジレンマである。ただそれが政治家の場合は、大衆の気持ちと乖離するということが彼にとって致命的だということだ。もしかすると国の将来にとっても。そういう意味で、私は昨年のトランプショックのことは忘れないだろう。 そして、私は価値観についての諸々を考えるうち、一般的な感覚からはだいぶ遠いところに来てしまった感覚がある。おかしい、私は社会一般、人間一般を探求していたはずなのだが。
このうち、前の二つについては今日、解決のヒントが見えた。
個人の価値観と集団の価値観の間にジレンマがある、というのが二つの問いの前提にある。そしてそこに乖離が生じたときに問題が発生する。
しかし私は実は、乖離が生じたときの問題については昨年乗り越えていたのだった。すなわち、社会的な価値観を受け入れるかどう…

2016

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- この一年は、実践の年であった。サービスを一つ世に出し、運営した。多くの企画ごとや遊びを行い、人と交わった。
特にあらゆる価値観を肯定する、というスタンスに身を置くことを定め、実践を繰り返して態度を補強してきたのは、自分的には価値があった。交友関係は広がったし、思考の柔軟性も高まったように思う。また、価値観の肯定を心より行うためには、自身と違う考え方をまずは受け入れる必要があるが、そのために私は「面白い」という言葉を発するようになった。この習慣が、相手に対する自然な敬意を抱くことにもつながっており、相対的に自分が謙虚になるのも良い変化である。
ただ、あらゆる価値観を肯定するという態度を保ち続けることの難しさも日々実感している。どうしても好みは偏り、自分に禁じている以下の言葉を発してしまう。
・つまらない ・くだらない ・興味ない
来年は引き続き、こうした言葉を発さない人間になるための実践を繰り返す日々となるだろう。
また、今年は実践を重んじたがために、学問に時間を割けず、また、生活に意識的な学びの時間を入れることができなかった。来年は、最先端コンピューティングと数学、そして現実の社会に関する知識の習得に時間を割いていきたい。