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2016

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- この一年は、実践の年であった。サービスを一つ世に出し、運営した。多くの企画ごとや遊びを行い、人と交わった。
特にあらゆる価値観を肯定する、というスタンスに身を置くことを定め、実践を繰り返して態度を補強してきたのは、自分的には価値があった。交友関係は広がったし、思考の柔軟性も高まったように思う。また、価値観の肯定を心より行うためには、自身と違う考え方をまずは受け入れる必要があるが、そのために私は「面白い」という言葉を発するようになった。この習慣が、相手に対する自然な敬意を抱くことにもつながっており、相対的に自分が謙虚になるのも良い変化である。
ただ、あらゆる価値観を肯定するという態度を保ち続けることの難しさも日々実感している。どうしても好みは偏り、自分に禁じている以下の言葉を発してしまう。
・つまらない ・くだらない ・興味ない
来年は引き続き、こうした言葉を発さない人間になるための実践を繰り返す日々となるだろう。
また、今年は実践を重んじたがために、学問に時間を割けず、また、生活に意識的な学びの時間を入れることができなかった。来年は、最先端コンピューティングと数学、そして現実の社会に関する知識の習得に時間を割いていきたい。

貴賤

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 昨日から頭を占めている事柄は、学に貴賤はあるのか、ということだ。
「蹴鞠おじさん」という言い方で、ヨッピーさんが問題提起を行なった。その件について、当事者の方々のご意見などをSNSで拝見したりしているが、正直、議論が全く噛み合っていないように思える。
ちなみに私は「どっち派だ」と問われたら「どちらでもない」と答える。ただ、「蹴鞠おじさん」と呼ばれた側はやはり冷静さを欠いてしまっていて、何を突かれたのか理解していないようには見える。
「蹴鞠おじさん」の件から私が感じ取ったのは、要するに知識人、業界人の「上から目線」が鼻持ちならないというメッセージだ。もちろん、ヨッピーさんも「蹴鞠おじさん」も、もっといろんなことを引き合いに出して語っている。だが、私には「蹴鞠おじさん」のスノッブさを糾弾しているというのが、問題の大きなウェイトを占めているように思える。
そして思うのだ。学に貴賤はあるか?と。
話題になったハンドブックを「読めない」と漏らした人物を、「学が足りない」と見下すことは容易である。だがその人は、一般的に「学」と呼ばれる事の少ない、しかし実践的な知識を普段から学んでいるかもしれぬ。Google Analyticsの使い方や、引きの強いタイトルの付け方、いかに低コストでSEOに強い記事を生成するか、自分が対象とする読者層のニーズは何か、などなどなどなど。これは立派な学ではないか?
また「蹴鞠おじさん」はもしかすると、若い人よりも学びに時間を割いてきたから、より多くのことを知っているかもしれぬ。それが、これからも多くを学ぶはずの若いひとを見下す理由になるだろうか?
私がこうした物言いをしていることからも、何を学ぶかに貴賤はあるか?という問いについて、私がどう考えるかは明白だろう。私は「ない」と考える。
ただ、個人的な恥を晒すようで恐縮だか、私は昔、「ある」と考えていた。哲学を学ぶ方が、ゲームの攻略法を学ぶよりも価値が高いのだと。科学を学ぶ方が、ラノベを読むより価値が高いのだと。しかしその態度が最終的に私にもたらしたものは、「自分が興味を向けるものは価値が高く、そうでないものは価値が低い」「自分が学んだものは価値が高く、そうでないものは価値が低い」という我ながら鼻持ちならない態度であ…

内向

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 一箇所に留まっていられない性分の人間の常として、ぼくも波が激しいタイプの人間だ。ぼくの中にはいろんな波がある。睡眠時間や性的欲求など本能に根ざしたものから、仕事や読書へのやる気なども、原因があるのかないのこわからない波によって大きく左右される。
そして先週あたりに気付いたのだが、今ぼくは内向的な波が来ている。外との接触を避け、内に込もり、内省的な書き物が増え(まさにこの文章だ)、抽象的な思索を好み、視界は広く視野も長期的になるが、少し理想主義的で現実を離れた思考を好むようになり、日々の現実を伝えるニュースよりも、人の思想が込められたドキュメンタリーやノンフィクションを好むようになる。
それ自体は喜ぶべきことでも悲しむべきことでもないが、基本的にはただのオタクで、ビジネスマンとしてのバランスを欠いてしまった状態なのは間違いない。若い頃よりも自覚的になったという点では少し成長したのかとも思うが、若い頃ほど徹底できない(のもわかっている)という点で、衰えたとも言える。
ということで、多少はこのブログでのアウトプットも増えるかもしれない。最近はプライベートなメモも併用してるので、以前ほどではないかも知れないが。

私的言語

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 最近実は、個人的なメモアプリ(Google Keep)に考えを書き留めている。以前はそういう作業はこのブログで行うのが常だったのだが、より自由な思考を求めて、プライベートなメモを使用してみている。
やはり、誰にも見られないことが前提だと、開放的になって何でも書けるのは良いところだ。物事を考える時には、タブーを設けてはいけない。自然と考えの幅が狭くなってしまうからだ。
しかし副作用もある。自分にしか通用しない言葉をどんどんと生み出してしまうのだ。そして、言葉はどんどんと鋭さを帯びる。思考が先鋭化していくのを感じる。誰からも咎められる心配がないので、思考のバランスを取る必要がないからだ。
そうして鋭さを増し、自分の世界で論理的な完全性を何度も確かめられ、容易に崩せないドグマへと変容していく。そうしたドグマは、自分だけでなく他人にも大きな遠慮力を及ぼしてしまう。「絶対的な正当性」という幻想的な力をおびてしまうのだ。
このように、自分の言葉に一面的な「正しさ」を帯びさせることは、プロパガンダが必要な局面では非常に有効ではある。政治家、宗教家、マーケターにとっては必要不可欠な心的作業だ。しかし一方で、その正しさを普遍的なものと見なすようになることは実に容易であり、非常に危険だ。世界を客観的に眺められなくなり、時勢を見誤り、敵を作り、自分と異なる価値観を否定し、世界を狭くする思想だ。さらに良くないのは、その「正しさ」を自らが疑えなくなってしまうと、人にその正しさを伝えたくなってしまうのだ。自分と違う価値観を持つ人に対し「誤っている」と、特にまだ特定の価値観に染まっていない人には自分の正しい考えを植え付けようとしてしまう。これは本当に品のない行いで、絶対に辞めなくてはならない。
今回のことから得た教訓としては、否定を忘れた自由な思索は先鋭化して「正しさ」を帯び始めるということである。こうして一般公開しているブログに、他者の目を多少でも意識しながら書いているのは、そういう「自分へのブレーキ」という意味合いがあったのだと、今頃になって気付いた。
自己批判を忘れてはいけない。常に自分を二律背反の状態に置き、矛盾を飼いならすこと。そうすると言葉を失う。矛盾を抱えたままで正義の言葉を吐くことはできな…

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 変な人やものが好きである。正確に言えば、ここ一、二年で好きになった。
ここ一、二年の私の内的な努力は、すべて内なる価値観の破壊であったと言っても過言ではない。無矛盾の美しさを追い求めていた自分から、矛盾を内包することによって生まれる複雑な模様を好む自分への生まれ変わりを欲した。そのために、「良い」「悪い」という感覚を抱くたびに、その感覚を自ら否定し続けた。善悪の基準を持つことは、「良い」ものを目指す志向へとつながり、最後は無矛盾と完全性を求めることに繋がる。そうならないために、私は積極的に矛盾を好んだ。自分と真逆の思考を喜んだ。世界が自分の思う通りではないことを発見するたびにゾクゾクとするような楽しさを感じた。
その挙句が、変なもの好きである。変な人が好きだ。予想だにしない受け答えをしてくれる人と話すのは楽しくてならない。もちろんそういう人は常識もなかったりするから、裏切られることも腹の立つこともあるが、そもそもそんな感情を人に呼び起こされることも珍しい体験なので、面白い。一旦はその「変さ」に辟易して親しい人に愚痴ったりしてしまうこともある。だが、ほとぼりが冷めてみると、そういう変な人がまたも恋しくてたまらなくなるのだ。
そして私は、そういう人たちのユニークネスに比べて自分の平凡さを嘆くのだ。
やれやれ、妙な事になった。この人生、どこに向かうのか。ただ、今が楽しいことだけは間違いない。

哲学脳

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- ゆるふわ哲学コンパというイベントを先日(2016/10/6)に行った。4時間近くに渡り、哲学めいた話に時間と脳を費やした。
哲学にこれほど長時間想いを馳せるのは、実に久しぶりの体験だ。最初のうちは、脳のチャンネルがなかなか合わなくて苦労した。
チャンネルが合わないと、個々の思想を形成する論理を思い出せず、結論だけになってしまう。なぜニーチェはキリスト教への攻撃と、西洋哲学全般への攻撃を同時に行ったのだったか。なぜフッサールは主観と客観の問題を掘り下げることで諸学問の基礎づけを行えると考えたのだったか。うーむ、思い出せない。再勉強が必要だな。
だがまあ、途中から少しずつ哲学的な脳が暖まってきて、最後の方では割と哲学的な直観を取り戻せていたように思う。
哲学を学んできて良かったと思うことは、論理の組み立てが上手になったことだ。しかしここでいう論理の組み立てとは、一分の隙もない論理を構築して相手の反論を許さない、ということではない。むしろ逆だ。自分が限られた情報しか持っていないこと、自分の認知能力には限界があること、自分の考えにはバイアスがかかっている可能性があること…などを率直に受け入れた上で、相手に助けを求めつつ自分なりの論理を披露することだ。事象の分析に費やす時間も、集められる情報も限られているのが世の常であり、その中で最善の結果を導くためには、穴だらけの論理(仮説ともいう)を持ち寄って現実への近似と置き、具体的な行動を以って望む未来を手繰り寄せる努力をしていくほか、ないように思える。

やりたい事探し

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 世の中、「やりたい事を見つける」と言うのが正しい事であるとされているようだ。やりたいことに全力を費やす、そんな時間の楽しさを知っている人間が、悩める人間に与えるアドバイスとしては、しごく真っ当なものだろう。
だが私はここ数年、そうした風潮に異を唱えてきた。私は、会社を3回転職してフリー、その後起業すること3回、一度は収入をかなぐり捨ててコミュニティ活動に全力を費やしたりもした人間だ。「やりたいこと探し」に費やした時間だけは、そうそう人に負けない自信がある。そして、やりたいことを見つけたと思って踏み出すと、その道は大きく外れていて軌道修正を余儀なくされる…という目に何度もあってきた。だから、やりたいことを探す、という行為には非常に懐疑的であった。そんなことに時間を費やすなら、何も考えずに、心の赴くまま行動するほうが良いと。
ただ、そうした「思考放棄」にも聞こえる思想は、実際悩める人々には伝わらないということも最近分かってきた。いやまあ、アドバイスなんてガラではないし、むしろ忌避したいと思うくらいなのだが、年を取るとたまに若い子とそういう話になる事もある。そして、「やりたいこと探し」に大きな時間を費やした人間としては、何事かを伝えたくなってしまうのもまた、事実だ。
そんなことをなんとはなしに考えていたある朝、ほぼ夢うつつの状態で、この件に関して脳が勝手に思考し、答えをまとめていた。そういうことはたまにあるが、だいたい忘れてしまう。しかし今回は、起きたあともはっきり覚えていたので、自分に対しての備忘録がてら書き残そうと思う。
「やりたいこと探し」は、自由な社会に生きる私たち特有の悩みといえよう。今後も自由が保たれるなら -- そうしなくてはならない -- 私たちにずっとついて回る、もしかすると一生付いて回る問いかも知れぬ。
その問いを愚問だとして退けることも難しい。その問いに心が囚われた瞬間から、その人に取って人生最大の関心事となるのは間違いないからだ。では真正面から向かい合うとして、何に気をつけるべきか。どうしたらその問いに誤りなく答えることができるのか。
私が考えるに、気をつけるべきことは3つある。 一つ、「今」に最も集中すること。 一つ、私の「欲」を表す言葉を使うこと。 一つ、答え…

人間

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 最近書いていないのは、特に書きたいことがなかったためだ。ぼくが書きたい気持ちになる時というのは、考えがなかなかまとまりそうもないテーマについて、何度も言語化を試みて、一歩ずつでも近づいていきたいと思う時だ。
で、最近少し、もやもやとしていることがある。まだそれは自分の中でも形を成していない疑問なのだが、きっかけは昨今の人工知能ブームである。
アルファ碁然り、電王戦然り、特定の領域で人間の知能をコンピュータが上回ることはもはや当たり前のことになってきた。数年経てば、人間が勝てないことは当たり前の事として受け入れられるだろう。
そんな、万物の霊長たる立場を危うくしている今、人間が人間に対して行う活動、例えば経済活動などについて、根本的な意味の変化が起きるのではないか?
今ぼくはビジネスについて学んでいるところであるが、ビジネスには実に、人間の「バグ」というか「癖」を前提としたものが多い。人間の認知能力の限界、愛着、道徳に伴うアンビバレンスな感情、慣習、身体性、依存性、などなど。しかし、こうしたバグを持たない超知性が誕生しつつある今、こうしたバグを前提とした活動にどれほどの意味が残されるのだろうか?そもそも超知性をいつまで道具として従えていられるのか?などなど。
まだうまく言葉にできず、無理に言葉を捻り出してみたところで、人工知能に関する月並みな疑問にしか見えないのが歯がゆい。だが、何か自分の中で、単なる人工知能の是非や礼賛/恐怖といった次元ではない、人間存在の意味といった点においての揺らぎを感じずにはいられない。それは、人工知能が人間を滅ぼすかどうかといった話ではなくて、人間を前提とした活動全てが意味を失うのではないか、といった存在論的、意味論的な不安だ。
この不安の正体はまだ掴みきれていない。もしかすると、継続的に言語化を試みるやもしれぬ。しないやもしれぬ。

近況

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 久しぶりの書き込みである。が、書きたいことが特にある訳ではない。 今年初めは、価値観という長年追ってきたテーマについて多くの発想があったので、よくアウトプットしていた。そこについてもひと段落してからは、特に書き留めておきたいこともなく、今に至る。
価値観の件については、以前得た様々な発想を実践に移しているところだ。悪くない。誰のどんな価値観を開示されても、どうせこちらにはイエスと答えるしか選択肢がないので、余計なことに思い煩わずに済む。何を言っても肯定されるという雰囲気が相手に伝わるのか、以前ならなかなか話してもらえなかったような、個人的なことを開示される機会も増えた気がする。
仕事などについては、精一杯やってるとしか言いようがない。ただ、個人的には、死ぬまでの時間を遊んでいるという感覚は日増しに強くなっている。これも、価値の相対化によるものだろう。例えば何が無駄か、無駄でないかを判断するのは、主観の産物でしかない。遊びは無駄で、仕事は無駄じゃない。そんな感覚を失ってみると、全てが水泡に帰するかもしれない遊びでしかなくなる。全くもって不真面目な人間になりつつある。
目下の一番の悩みは食生活だ。爛れた食生活が嫌でたまらないのに、一向に改善しない。要は食の快感に依存している訳だ。しかも、その快感は毎食ごとに呼び起こされてしまうものだからタチが悪い。この依存を断ち切り、健康に関する不安を取り除きたい。そしてできれば長く人生を遊んでいたいというのが、今最も望んでいて、手に入らないことである。

実践

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ----
少し久しぶりの更新である。書かない間は、以前までこのブログでくよくよと考えていたこと、価値観に関するあれこれを実践していた時間であった。
ポランニーは、形式知と暗黙知の相互作用を解き明かしたが、まさにそれを今地でいっているようだ。最初は考え考え実践する。あらゆる人の価値観を肯定できる人間になるため、「否定する自分」を攻撃したり、自分が拒絶したり無関心だったものに敢えて近づいていったり、などだ。
それを繰り返しているうち、段々と考えなくとも、そうした所作が実践できるようになってくる。言葉が、論理が失われていく。単なる「自分の一部」へと消化されていく。そんな日々である。

38

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 今日、1つ歳を取った。しかし感慨は、薄い。

歳を取るにつれ、自分に起こる出来事に、どんどんと淡白になっていくようだ。

先ほどから何事かを書こうと思うが、何も思い浮かばない。書くべきことが見つからない。

無理に書くこともないと思うので、一旦筆を置こう。とりあえず1つ歳を取りましたよ、というご連絡まで。

弛緩

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- この一年、生活が弛緩していると感じる。ジョギングの頻度が減ってしまったのがその象徴だ。それだけではない。睡眠時間もすごく伸びているし、食生活は荒れ放題だ。
これではいけないとか、切り替えなくてはという気持ちは常に持っているが、いざ少しでも空腹を感じると甘いものを食べたくなるし、ジョギングに行くのは億劫になってしまった。
で、頭で考えてもしょうがないのも、ここまで長く生きていると分かってくる。頭でいくら考えても、「わかっちゃいるけどやめられない」だけだ。やめるという行動を実践し、続け、それが自分にとって普通のことになるまで、続けるしかないのだ。
一時期、今から考えると理想的な生活をしていた時分がある。食事は野菜や魚中心、お菓子やジュースの類は一切取らない。常に朝5:30に起きて、晴れていればジョギング、雨なら筋トレ。
あの頃は、全身にエネルギーが満ちていたし、大して寝なくても元気だった。あの頃に戻りたい。
ということで、戻るための生活を実践する事にする。
間食しない。飲み物は水のみ。とりあえず朝5:00に起きて1時間運動。
そしてそのことをこのブログに書くようにしよう。

選択

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 価値観について考えていると、自然と、人生における選択というトピックに辿り着く。人が価値観というものを必要とするのは、主に物事を選択するためだからだ。
選択に迷うのは、価値観が定まっていないからだ。価値観が定まっていなければ、何に重きを置き、何を諦めるかが決められない。人生における難しい問いの数々は、価値を定められない自分こそがその原因である。
何かを選ぶという事は、何かを捨てるということだ。選んだものがあるなら、選ばなかったものがある。ぼくが常々問題にしているのは、この「自分が選ばなかったもの」を軽んじる態度のことだ。そして、自分が選んだものこそが「価値が高い」と見なしてしまう態度のことだ。
自分が選ばなかったものを、とても大事に選び取った人や、それを選ばざるを得なかった人も、きっといる。だから、自分が選ばなかった物事を軽んじたり、悪し様に言うのは常に悪手である。むしろ、自分が選ばなかった道を選んだ人に、敬意を持って接するべきである。
選ばなかった物事に対しては、自然と関心が薄くなり、あまり知らないという状態になる。だから、自分が選ばなかった物事については多くを語るべきでない。広く世の中に関心を持って、バイアスの少ないものの見方をしたいと思うのなら、価値判断は可能な限り減らし、「選ばない」物事を減らすべきなのである。

驚き

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 家族や友人と過ごす日々の中でたまに、「自分の死を悲しむかもしれない人がいる」ということを思い、その度にいつも新鮮な驚きを感じている。
そんな人は一人もいない、という方が自然に思える。理に適っているように思える。ぼくの死を悼む人がいる、というのはどうにも奇妙だ。理に合わないように感じる。
同様に、ぼくの言葉や行動が人に影響を与えたりする、という現象にも不思議を感じる。いや、そんな事はこれまでも一度もなかったのではないか。ぼくの言動が人の人生に影響をもたらすなんてことが、あり得るのだろうか?あり得ないことのように思える。しかしどうやら、多少はそんなこともあるようなのだと最近はうすうす感じており、やはり理に背いているような違和感を感じてならない。
別に、自己の存在を否定しているとか、自己嫌悪しているとかではない。本気で、このようなことを、ただ、感じているのだ。
別に原体験というわけではないだろうが、こういうことに思いを馳せた時に、必ずと言って良いほど思い出すエピソードがある。20代半ば、どこで知り合ったのかは忘れたが、とあるベンチャーの社長に入社を勧められた事がある。その時ぼくはある開発のプロジェクトに携わっていて、割と要職を務めていたつもりでもあったので、「自分が抜けると迷惑がかかる」と言うような事を言っていた。その時に、そのベンチャー社長が言った言葉が、当時のぼくには衝撃的だった。
「あなたがいなくてもプロジェクトは回るんだよ」
この言葉を聞いた時、ぼくはそれを真実だ、と捉えた。そして不思議と、その事を悲しむ気持ちとかは起きなかった。むしろ、今まで気付かなかったことに気付いたという爽快感、自身が精神的に成長したような気にさえなったものだ。そう、プロジェクトはぼくが居なくてもきっと大した問題もなく回る。果たしてそれはプロジェクトに限った話なのか?世界はどうだ?ぼくがこの世界から居なくなっても、世界はなんの問題もなく回るだろう。ぼくが居ても居なくても、世界は1ミリも変わらない。
この感覚を、ぼくはネガティヴな意味付けをほとんどすることなく、正しいと確信した。このブログで言うところの思考の結び目を、固く結んだのだった。ネガティヴな感情を伴わなかったことは、割と容易に証明できる。なぜなら…

筋道

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 昨日、日曜日朝にやっている将棋の番組を見ていて、取材を受けていた棋士が興味深いことを言っていた。その棋士は、将棋に限らず政治、経済、文化を幅広く網羅する知識の持ち主だとのことだった。彼が言うには、「すべて将棋に強くなるため」なのだという。
なぜ、政治や経済について学ぶことが、将棋の強さに繋がるのか、その筋道は門外漢にはわからぬ。しかし同時に、その気持ちは痛いほどよくわかる。ぼくは、「将棋に強くなる」と言った明確な目標は持たぬまでも、自分の世界を広げたいという欲望は常に切実に感じているからだ。
しかしここでいつもネックになっていたのが、自分が物事に対して関心を向ける際の「癖」だ。ぼくの関心の向け方は、母親譲りなのだろう、深くて狭い。一度のめり込むと周りが見えなくなるタチだ。そういう言い方をすると、人から「そこまでのめり込めるなんて羨ましい」と言われる事も多いが、ぼくからすると自然にバランスの取れた関心を配れるタイプが羨ましくてしょうがない。ぼくはこの性格のせいで、いつまで経っても世間知らずだし、自分が関心を持てないことを「価値が低い」と断じてしまう悪い癖からなかなか抜け切れない。
ただ、最近では朗報もある。1つは、自分が歩み始めた「起業家」という道は、あらゆることに関心を配ることが、本当に重要だということ。経営者にとって世間知らずは致命的だ。それは、あらゆることに関心を配らねばならない理由となる。そして、理由があるとぼくはハマれるタイプである。筋道が必要なのだ。件の棋士も、きっとそういうタイプだと信じて疑わない。
もう1つは、価値観に関してグダグダ考えていたおかげで、先に述べた悪癖 ー 自分が関心を持てないことの価値を低く見積もろうとする ー が、克服できる兆しが出て来たということ。まだまだ完全には程遠いが、自分が何かの価値を低く見積もろうとした瞬間に、「待て」が掛かるようになってきた。価値を低く見積もろうとしているのは、自分の理解が足りていないからではないか?というわけだ(そしてそれは常に正しい)。すると、自分が関心を向けていなかったところにこそ、価値があるもの、面白いものがあるのではないかと思えるようになる。自然な関心が沸き起こるようになってきた。
最近だと、これまで全然…

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 今朝ジョギングをしていたら、道端に死んだ狸を見つけた。どうやら車に轢かれたものらしい。恐らく轢いた人の手によるものだろう、車道の脇にその死体は寄せられており、車の通行を妨げないようにされていた。
一度はその脇を走り過ぎたが、冷たい灰色のアスファルトの上に横たわる暖かい茶色の毛並、という鮮やかなコントラストがあまりに印象深く哀れを誘ったこと、また狸などという獣を近くで見たことも初めてだったこともあり、いつものように神社に参って折り返す頃には、その狸をせめてどこかの土の上にでも置いて、土に戻る手助けをしてやろうと心に決めていた。
とはいえあまりに非現実的に思えて、もしや早朝の眠気がもたらした幻ではないかなどと自分を疑いつつ元来た道を戻っていると、果たして狸は先ほどと同じように道端に伏していた。
口から軽く血を吐いて、狸は横たわっていた。半ばうつ伏せという姿勢ながらも、右の前足はねじ曲がって、体の外側に向かって大きく開いている。車に刎ねられて折れたのであろう。目はかっと見開かれており、まばたきをする気配はない。
意を決して抱き上げると、ほんのりと暖かいような気がした。死後硬直による、生き物ならぬ硬さや手触りを覚悟していたが、多いに弾力がある。もしかすると、事切れたのはつい先ほどのことかもしれぬ。もしや生きているのではと顔をじっと眺めてみたが、やはりまばたきはない。
産まれたての赤ん坊を抱くように、死んだ狸を横抱きにして、ぼくは山に向かって歩き始めた。たまたま狸の死んだ場所は、公園と隣り合った山の向かい側だったので、車道を渡るとすぐに山に向かう道の入り口に立っていた。山と言っても、入り口は人の手によって畑に切り開かれており、高さもビル5,6階あるかないかの小さな山である。それほど山の奥まで行くつもりもないので、ジョギングのための軽装ではあったが、入るのにためらうことはなかった。
山に入ったのは全くの気まぐれである。実際に狸を抱いて道を渡ってみるまでは、山の隣の公園に入って、どこか隅に置いていこうという算段であった。しかし早朝とはいえ、よく整備された大きめの公園では割と多くの年寄りが朝の散歩をしている。そこに、やたらと軽装の中年男が、死んだ狸なぞを赤ん坊のごとく抱いて現れたらさぞ奇異に…

人並み

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- ここに綴られている一連の文章を、どう表したら良いのか、などどうでも良いことを考えていた。
今のところ一番しっくり来ているのは、
「馬鹿が人並みに近づいていく足跡」
と言ったものだ。内省すればするほど自分の無知愚昧を思い知るばかり、というぼくの最近の心境を表現してみた。
ただ恐ろしいのは、「馬鹿」と自分のことを呼ぶことが、別の意味を付与されないかということだ。自己に対する憐憫、陶酔、キャラクター作り、自意識過剰、何でも良いが、書かれている以上のことを勝手に読み取られることが恐ろしい。ただただ字面通りに受け取ってもらえることを望むのみなのだが、「馬鹿」などと激しく、そしてアイコニックなことばを使うからいけない。
そういう点で、上のフレーズはまだまだいかん。ただ今はこれ以上考えるのも面倒なので、とりあえず上のフレーズをドラフトとして記憶に留めておくこととしよう。

フェチ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 何でも屋、になりつつある。プログラミングやライティング、プランニングあたりが得意領域だが、最近はプロダクトマネジメントはもちろん、アプリや名刺、パンフレットなどのデザインを自分でしてみたり、起業するにあたって、ファイナンスなどについても最低限の知識が必要になってきた。
こうして様々な役割を担うようになると、プロフェッショナルとアマチュアの違いとはなんなのか、を考えたくもなる。
例えばデザイン。最近はデジタルなツールが充実しているので、ツールの使い方を少し覚えてしまえば、それなりのものは作れてしまう。で、自分で言うのもなんだが、割と人に見られたり読まれたりという活動をしてきたので、それなりに自分の生み出したものを客観視する力はあるつもりだ。平均点くらいのものは作れる自信がある。
しかし、それ以上となると、なかなか難しい。もっと時間をかけてツールに習熟したり、知識を集めればもっと上達できる気はするのだけど、そこまでは行かない。つまり、「そこまで時間をかけるほど関心が高まらない」というのが、一番のボトルネックなのだ。
ぼくは「関心」というキーワードに特に思い入れがあるものだから、プロフェッショナルとアマチュアを分ける大きな要素は「関心の強さ」だと思いたい。金が稼げてればプロ、とかそんな分け方はつまらない。対象に強い関心を持ち、ひたすら細部にこだわり完璧を目指せる人。それに情熱を注げる人。フェティズムを発揮できる人。変態性すらも肯定される、というより、ぼくは肯定したい。
翻ってぼくは、どんなフェチだろうか。なんにでも関心はあるが、フェチと言えるほどの関心を持って取り組んでいることはない。ただ1つあるとするなら、新しいものを生み出すこと、そこには強い関心がある。今やっている起業活動も、「お金」というものに向き合わずに新しいものを生み出すのには限界を感じたからこそ、お金を扱う術を身に付けるためにやっているのだ。まだまだ一歩を踏み出しただけであるが、「新しい物事を生み出すプロフェッショナル」と呼ばれる日が来ることを目指して、日々精進あるのみである。

悪癖

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 昨日、「周回」という文章を書いたことで、何かひと段落ついたような気がしている。今年に入ってから続いていた内省の日々に、一旦終わりが訪れるのやも知れぬ。
何度も書いているが、こうした内省の日々は、ほぼ無駄だ。自己満足のための文章、多分に反駁の余地が残る論理、そんなものを後に残すだけだ。おまけに、そんな論理すら記憶の彼方に消えていくのだ。
どこかでケリを付けて、現実世界に戻らねばならぬ。現実世界に背を向けて、あれやこれやと理屈を付けることの、なんと楽なことか。昔はこんな時間を貴重なものと考えてきた。今はただの悪癖としか思わぬ。
限られた人生の時間を、そろそろ現実との戦いに振り向けるときが来ているのを感じる。そろそろ。

疑う

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- これまで、人生で数多くの予測を外して来た。「来る」と思った技術が来ない。「外す」と思ったサービスが当たる。「ダメだ」と思ったイベントに結構人が来る。ここまで外すと、もう自分の予測は全く当てにならないと結論付けるしかない。
再三に渡って書いているように、ぼくは価値観のフィルターを外したいと願っているが、それは1つに「バイアスを取り除けば、少しはマシな予測ができるのではないか」という想いがある。自分が知らないもの、好まないものの価値を低く見積もってしまうという、どうしようもない癖をなくせば、もう少し現実と未来をうまく見渡せるのではないか。
確かにそうだろう。だが、それだけではおそらく不十分だ。ただフラットに、遠くから見ているだけでは、対象の価値を正しく感じ取ることができない。価値がわからなければ、それに関心を寄せる人々の求めることも理解できない。
そして、「価値」という言葉には死ぬほど注意が必要だ。散々書いてきたように。同じ関心を寄せる人々の中で価値観というルールが醸成される。そのルールをどれだけ知り尽くしているかが、例えばビジネスで言えば「顧客を知り尽くしている」という評価につながる。
つまり、何事も飛び込んで、そこでのルールを学ばねばならないのだ。そのためにはまず、自分を徹底的に疑うことが求められる。「飛び込まない」という過ちを犯すのは、常に対象を少ない知識で低く見積もる、という自分の悪癖から生まれるのだから。

周回

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 先日のIoCというタイトルの文章を書き終えたあと感じているのが、「また一周回った」という感覚である。
こうした感覚は、実は初めてのことではない。散々色んなことを考え漁った挙句、現実世界に「戻ってくる」という感覚だ。
といっても、旅をして戻ってきたという感覚とは違う。考えを進めるうちにどんどん現実世界から思考が乖離していき、ただの抽象的な記号を操作するような段階を経て、結局は現実世界をただ説明しただけに過ぎないということに気付くという体験である。
この体験を繰り返すうち、自分の「考え癖」みたいなものに特別な価値を置かなくなったのは良い傾向だ。昔は「哲学をしてる自分」にいくばくかの陶酔を感じていたものだが、結局その結果がいつも「あれ?これだけ?」という程度の収穫しかないものだから、これは大いなる無駄である、普通の人はこんなことに時間を使うべきではない、ただぼくはその無駄が好きだからやっているだけだと結論づけるに至ったのだ。
とはいえまあ、全くの無駄とも思ってはおらぬ。一周するたび、以前よりほんのちょっと世界に納得する。世界を説明するシナリオを、一つ増やすことができる。今回のシナリオはこんな感じだ。(今回の文章は、今回の周回に関するログを残すことが目的なので、いつもよりさらにひどい)
ぼくは価値や価値観と言った問題に深い関心を寄せている。その理由は様々だが、主なものを以下に挙げる。
1つは、価値観という物差しが現実認識を歪めることへの問題意識。バイアスなどと呼ばれる現象だ。経営者を志す以上、現実をシビアに捉える感覚が重要だと思ったのだ。
1つは、特定の価値観を支持すると必ず誰かを否定することになるということ。それにより、何人もの人を傷付けてきた。もう誰も否定したくない。あらゆる価値観を肯定したい。
更に1つ挙げるなら、仕事の面でいろんな角度で発想したり、様々な立場の人に配慮したりすることが求められたからだ。画一的な価値観にしがみついていては、発想の幅が限られてしまうし、違う立場に対する配慮も限られる。
そうした内的な要請により、ぼくは特定の価値観に与せず、あらゆる価値観を肯定する態度を身に付けられないかと模索した。そのためにぼくが依ったのが、価値の実在を否定するという手段である。
改めて価…

IoC

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
---- 昨今、有名人の覚せい剤使用が大きな話題になっているが、それを見て、「ぼくは麻薬の売人を肯定できるか?」という思考実験をしていた。
あらゆる価値観を肯定したいと望み、いろんな思考実験をして来た。そのおかげで、以前は許せなかった様々なものを許せるようになってきた。不道徳なことや、自己中心的なことも。だが、麻薬の売人を肯定するのには相当な心理的ハードルがある。
だが、あらゆる価値観を相対化し、そこには善も悪もないという立場を徹底するならば、例え麻薬の売人と言えども肯定出来なくてはおかしい。それは頭では分かっているのだが、どうしても肯定できない、「したくない」自分がいる。この現象について考えていたのだった。
そこで気付いたのは、「肯定したくないならしなければいい」という事である。当たり前の事のようだが、これはぼくにとって大きな発見であった。
なるほど世界に絶対的な善悪などない。例え道徳や法がそれを禁じていたとしても、それが悪である根拠は、突き詰めれば存在しない。
その事実に自分の内面も合わせなくてはならぬと、この世のあらゆる現象を肯定しなくてはと思っていた。そういう人間にならなくてはと思っていた。
だがそれは、自分の中にあるあらゆる価値観や道徳のたがを外す事であり、自身のモラルハザードを引き起こす結果に繋がる。今までの自分には、それは不可避の現象であり、道徳を含む様々な不自由から逃れるためのトレードオフなのだと思っていた。
しかし、そうではない。自分が、そうしたルールを気に入れば、それらを「守る」ことを選んでも良いのだ。麻薬を売るという行為が好きでないなら、人間を破壊するドラッグがなくなればいいと思うのなら、そのルールを支持すればいい。
この文章のタイトルである「IoC(Inversion of Control)」とは、プログラミングアーキテクチャの用語で、「制御の反転」を意味する。今回ぼくが発見したことはこれだ。絶対的に守らねばならないルールや価値観など、ない。しかし、ルールや価値観は、確かに世の中に存在はする。ぼくはただ、自らが望むように、そうしたルールを「使って」行けばいい。
ルールを、守りたいから守る。守りたくないルールは、守らない。ルールを守らねばならない根拠を、外…

矛盾

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 矛盾という単語を、このブログで何回取り上げたか知らない。同じタイトルで書いたこともあるかも知れない。それほどに、ぼくの中ではこの単語が大きな位置を占めている。
ぼくは矛盾を肯定する。そうしないと、社会も、人も、自分も肯定できないからだ。世界に矛盾が生じる理由の多くは、利他と利己のせめぎ合いによるものだ。利他は社会と言い換えてもいい。利他と利己、社会と個人の間には、論理的な断絶が深く横たわる。
ぼくは矛盾を歓迎する。矛盾と戦い抜いた結果に、シンプルさが生まれる。どうしようもないせめぎ合いはお互いを打ち消し合い、最後に本質的なもののみが残る。物事が複雑なままだとしたら、矛盾と戦い尽くしていないからだ。
ぼくは矛盾を愛する。矛盾を抱えた人間は魅力的だ。深く分裂した2つの顔を持つような人は、なんと複雑で味わい深いことか。強欲な慈善家。淫乱な聖女。心弱き文豪。LGBT。矛盾に悩み、乗り越えようと戦う姿は美しい。
矛盾を嫌い、世界に整合を求めていたのはいつのことだったか。矛盾は面白い。混沌は楽しい。変化は興奮する。不協和音は音楽に深みと刺激を与える。世界はなかなか面白い。

形式知

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 最近、よくこのブログを書いている。そのうち更新も止まるだろうから、書きたいうちにいっぱい書いておこう、という気持ちだ。
これほど書いている理由の一つに、今の自分の思考を形式知にしておきたいという思いがある。正直なところ、今の自分は気に入ってはいるが、危ういバランスの上で成り立っている気がしているからだ。いつまた、根拠なき思い込みと虚栄心に塗れた傲慢な人間に戻らないか、常に不安なのだ。
今の自分 ー 他者からの評価を(そんなに)気にしなくなった自分 ー を成り立たせているものは、自分の思い込みをエポケーすることと、価値の相対化に依るところが大きい。フッサールとニーチェの影響をもろに受けた形だ。しかし、この2つは持続させることが難しい。価値観という物差しは、社会生活を営む上で必要不可欠であり、価値観の固定化(思い込み)や絶対視に至る道は日常の中にいくらでも存在しているからだ。かのニーチェですら、自分の思想の価値だけは疑えなかったのだから。
かように不安定な土台の上で成り立っている心の平穏を少しでも永らえさせたく、その方法を形式知にしておきたいという訳である。まあそれはまた、1つの思い込みを作る作業に過ぎないのだが。

衝突

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 「価値」「価値観」と言った言葉に、なぜこれほど執着しているのか、自分でもよくわからぬ。しかしその理由の一つに、他人との衝突で自分が傷付くのを避けたかった、という気持ちが入っているのは間違いない。
他人はどうか知らぬが、ぼくはコミュニケーションがうまくいかなかった時、割と大きくダメージを受ける方だと思う。傷付く。情緒不安定になる。何度となく思い出す。焦る。それで、突拍子もない行動に出たりする。
コミュニケーションがうまくいかない原因の多くは、価値観のズレだ。自分が大事だと思うことがないがしろにされることほど、腹の立つことはないからだ。
概して人は、自分の思っていることが正しく、価値が高いと思っているものだ。自分が思い付いたアイデア、自分が発見した問題、自分の好きな物事。
問題は、他者と一つのことに当たる場合、必ずしも自分の大事に思っていることが重視される訳ではないということだ。だから人は会社を辞める。人とぶつかる。だから、類は友を呼ぶ。なるべく近しい価値観を持った者同士であれば、ぶつかることが少ない。仲間意識も芽生えやすい。
しかし、社会生活を営む上で、価値観の衝突は避けられない。そして、誰かが重視する物事を、組織として優先できないことも。組織は、必ず誰かの価値観を挫きながら成り立っている。

押し売り

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 自己の価値観を解体する、ぼくの編み出したボキャブラリーで言うなら「結び目をほどく」ということだが、その道半ばにして、一つ困っていることがある。他者が持つ価値観とどう折り合うか、という問題だ。
この数年というもの、結び目をほどいてばかりいる、つまり自分の中の思い込みを解体しようとばかりしているおかげで、なるほどそういう作業には長けてきた。自分の中に生じた結び目を見つけてはほどく。ほどく。結び目は、気付かぬうちにすぐできている。今日この文章を書こうと思ったのだって、自分の中に「結び目は解くのが望ましい」という思い込み=結び目が生まれているのを発見したためだ。
そんな作業に慣れてきたからといって、調子に乗って他者の結び目まで解いてみようとしたりする。新たな何かを身につけたと思い上がった時の、お決まりのパターンだ。
そんな中で、ふと気づく。結び目をほどくことは、そんなに望ましいことなのであろうかと。
人が何かを信じている。その確信には根拠がないかも知れないことを示してみる。すると、一瞬ハッとした顔をした後、少し考え込むような顔になる。
その後、目をキラキラさせて「世界の見方が変わった」とでも感謝の言葉を述べてくれることをこちらは期待する。しかし、結果は芳しくないことが多い。「そういう見方もあるね、でも…」と不満気だったり、ひどい時には、自分の思い込みを正当化しようとする方向にエネルギーが向かってしまい、さらにその結び目が固くなってしまうこともある。
例えば自分の仕事に誇りを持てぬまま、金のために働いている風俗嬢がいたとする。彼女に「職業に貴賎なし」を説いて「自分の仕事に誇りを持つべきだ」などと高説を垂れたところで、彼女の心には少しも響くまい。彼女が望むことは、職種の肯定ではない。自分の肯定なのだ。
要は、結び目をほどくことを相手が望んでいないのに、ぼくが調子に乗ってほどこうとするのがおかしいのだ。還元の押し売りだ。「結び目は解いた方が良い」という新たな思い込みが、ぼくの中に生じていたのだ。だから押し売りする。
そもそも普通の人が持ち合わせている結び目の数々は、この社会を生きていく上で普通に持ち合わせておくべき価値観であり、普段は解体する必要のないものだ。そうした結び目に疑問を持たずに生活…

極端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- ぼくはどうやら、極端を愛する性格らしい。ほどほど、ができない。タバコを吸えば吸いすぎる。お酒を飲めば飲みすぎる。趣味にハマればハマりすぎる。そして、ある時点ですっと、潮が引くように辞めたりする。タバコももう吸ってない。お酒も飲んでない。以前ハマった数々の趣味も、今はほとんどやってない。こういうのは、母親譲りだ。
こういう性格だから、例えばぼくが宗教や思想にかぶれたとしたら、なかなかの狂信っぷりを発揮することだろう。実際、社会貢献や非営利活動に精を出していた頃は、利他的な思考を徹底させようと努めていたものだ。一時期のぼくはストイックな聖人君子で理想主義者であった。
ただ、利他的で社会主義的な思想が行き過ぎると、自分という個人の欲望との折り合いがつかなくなってくる。その矛盾に耐えかねて、「社会起業家」という範疇から逃げ出したし、「善悪とは何か」という問題が、ずっとぼくの中での重要なテーマであり続けることになったのだった。そしてそうすると、今度はそういうテーマをずっと追いかける羽目になるのだ。極端に。
そして、そういうテーマについて考えをあれこれ巡らせているとそのうち、「中庸」の大事さがわかってくる。何事もやり過ぎはよくない。過ぎたるは及ばざるが如し。
そしてこういう中庸的な価値観は、実は多くの人が自然と身に付けている所作だったりする。ぼくが長い長い回り道をして理解し、ようやく実践に移そうかという事柄を、世の中のほとんどの人は考えることもなく実践しているのだ。こういうところからも、最近ぼくが感じている「普通の人が凄い」という感覚が生まれているのだろう。
とはいえ、ぼくのように極端な人間には、中庸は実に難しい。どうすれば中庸をぼくなりに実践できるかを考え続け、そのやり方を見出したのはつい最近だ。そのやり方とは、両極端を全力で肯定することである。善も、悪も肯定する。右も左も。美も醜も。論理も非論理も。おかげで、物事を肯定するためのボキャブラリーがすぐ口を突いて出るようになった。特に「面白い」は魔法の言葉だと思う。
そしてもう一つ。こうやって考え過ぎるのも、極端な振る舞いの一つだから良くない、ということにも気付いている。だから一時期、一切思想や哲学から離れていた時期もある。下手な考え休む…

結び目

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 以前、「書く」という行為の問題を取り上げた際に、「書くことで思索に『結び目』が生まれる」と書いた。自分自身、結び目という表現は気に入っている。
結び目とは、思索の一旦の収束地点だ。例えば「人を殺してはいけない」という結び目は、社会生活を営む上で数かぎりない要因によって何度となく結び固められ、多くの人にとって、もはや疑う余地もない、結び目を解いてみようという気すら起きない地点となっている。少なくとも、この日本では。
ぼくは幸か不幸かこの人生で、そうした様々な結び目を自分の中で解いてみたいと思うようになった。結果、およそ徹底はできていないものの、以前自分の中にあった多くの根拠なき思い込みを、ある程度は解くことには成功したように思える。
問題はその後だ。結び目を一旦全て解いたとして、しかし、そのままでは生きてはいけない。例えば法を守らない自由を発見したとして、実際に守らなければ、社会生活を営めない。例えば仕事で、そもそも0から考え直すというのは時に有意義だが、打ち合わせのたびにそれをやられたんじゃたまらない。コンセンサスという名の、「みんなで作った結び目」を毎回解きにかかるような奴は疎まれるだろうし、そもそもコンセンサスが形成できまい。結び目は、人が生きる上で必要不可欠なのだ。
とはいえ、苦労して一旦解いた思索の糸束に、また沢山の固い結び目を作り、色んな思い込みを抱え込むのも面白くない。せっかく心が自由になったのに、また自分自身を束縛することになる。
ならば、ゆるく結ぼう。必要だから、結ぶ。必要だから法を守り、疑わない。よほど異論がない限りはコンセンサスを尊重し、疑わない。ただ、必要な時にはいつでも疑えるようにしておく。信じることが結び目を作ること、疑うことが結び目を解くことである。
また、結び目について人にあまり語らぬことだ。人に語れば、人目を気にして、結び目を解きづらくなる。
そして、徹底的に疑うべきは自分だ。意図して作ったはずの結び目に自分が囚われるなど愚の骨頂であるが、容易に想像できるシナリオだ。自分の発する言葉を疑え。自分の書いた文章を疑え。
そうして、ぼくの言葉から「真実」「真理」の匂いを徹底的に消す。ぼくが発する言葉は、常に何らか間違っている。願わくば誰も、ぼくの言葉から…

10度

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- チームを率いている。スタートアップの、とても小さいチームだ。
スタートアップのチームを率いるなど、初めての経験である。ぼくだけではない。メンバー全員が、スタートアップなど初めての経験である。当然、うまくいかない。
生産性も低い。ビジネスに必要な知識もない。組織をどう導けば良いのかも、誰も知らない。だから学び、変化し続けていかなくてはならない。生産性を上げ、ビジネス感覚を養い、居て心地よい組織を作り上げていかなくてはならない。要は、場を絶えず変化させていかなくてはならないということだ。
しかし、現状にどれほど不満があろうとも、場をいきなり劇的に変えることは難しい。誰かの放った一言が、メンバー全員の心に深く突き刺さり、次の瞬間から見違えるようにメンバー全員が一つの方向に向かって動き出す…というのは、フィクションとしては面白いが、現実的にはなかなか難しい。
この文章のタイトルを「10度」としたのは、チャンスを捉えて、組織の向きを「10度」変えられたら御の字だ、と思えたからだ。
10度は、ほんの僅かな角度である。だが、それを3回繰り返すだけで30度変えられる。組織の向きが30度変わり、その角度が組織の向かう方向を決めるのだとすれば、その行く先は全く違ったものになるのは間違いない。
10度変えようとすればいい、というのは、リーダーにとっても楽な話だ。180度変えなければならないとなれば、歴史に残るような名演説でも打たなくてはならなそうだが、10度変えるというのであれば、限られた人の心をほんの少し動かせば、事足りるかも知れない。
大事なのは、確実に10度変えること。そして、10度変えるチャンスを見逃さないことだ。人は基本的には変化を嫌う。変えるのはほんの僅かでなくてはならない。そして、良い方向に変わったことを確認しなくてはならない。その時にはまた、新たな課題が見えているはず。その課題を克服するため、またほんの少し変える。この繰り返しが重要なのだ。

削ぐ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 言葉は、削ぎ落とすごとに力を増す。10説明したいところをぐっとこらえ、削ぐ、削ぐ、削ぐを繰り返し、残った1には、100を伝える力がある。
削ぎ落とすという工程を経ない言葉は、幾重にも塗りたくった厚化粧のようなものだ。真に伝えるべき言葉の上に、不要な言葉を積み重ね、言葉のインパクトを損ね、真意を濁らせてしまう。
厚化粧してしまう理由は2つある。
1つは真意の価値を小さく見られまいという意識。真意の価値を1とするなら、1以下に見られないようにする努力のことだ。誤解への恐れ、過小評価への恐れだ。
もう1つは真意の価値をより大きく見せたいという意識だ。1の価値を持つ真意を、2,3に見せたいという努力のことだ。多くは虚栄心の為せる業だ。
人は誤解を恐れ、過小評価を恐れ、より自分を大きく見せたいがため、言葉の限りを尽くそうとする。だが残念ながら伝わらない。人間という、記憶にも集中力にも限りがある動物には、長い論理や、聞きたいこと以外の部分は頭に入ってこないのだ。
だから、削る。誤解されるかもしれない、小さく見えてしまうかもしれない、ギリギリのラインまで削る。時には敢えてラインを踏み越えて削る。「誤解を恐れず言うなら」「恥ずかしいことに」などの枕詞を添えれば、それでも真意は充分に伝わるものだ。
しかし、言葉を削ぐのは、他者に伝えるためだけではない。むしろ自分のためだ。
他者から誤解されること、他者から小さく見られることなど、実はそれほど大した事ではない。そんなことは日常茶飯事、他者が自分のことを正確に理解するなど、もとより期待できないのだから。それよりも恐ろしいのは、自分の綴った万の言葉に、自分自身が騙されてしまうことだ。
言葉を紡ぐという行為には、必ずフィクションの入り込む余地がある。多くの言葉を紡ぐなら、多くのフィクションが入り込む可能性があるということだ。
例えば、「自分のやりたいことは何か」と言った定番の質問に自問自答を帰納的に繰り返し、とても綺麗な結論を導き出す。その結論(「やりたいこと」)から今度は演繹的にやるべきことを定める。この長いステップの中に、人を間違いに導く分岐点がどれほど多く含まれていることだろうか。気付けば意に沿わぬ事をしている。ぼくはそんな回り道を、この人生で何度も何度…

感情

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 昨日、「なぜ人を殺してはいけないか」を考えた際、法的、社会的な面から考えるのみで、感情面についての考察が足りないことに思い至った。完全に片手落ち。論理のみで考えるからこうなるのだ。
もちろん、法的に許されていないから、もしくは「みんながダメだと思っているから」という説明が有効でないとは言わない。しかし、人を「傷付けたくない」という気持ちも、確実に存在する。
こうした気持ちを持たない人間がいるであろうことも、人の命が軽い地域や時代があることも承知の上だ。そういう点で、ぼくはカントのように「道徳とはアプリオリな存在である」などと言うつもりはない。
ただ、論理を突き詰めていくと感情の存在を無視しがちである、という傾向に抗うため、帰納を一旦エポケーして、人を傷つけまいという感情が半ば本能的に生じるという現実をそのまま受け入れたいのだ。
だから、例えば「人を殺してはなぜいけないか?」を問われた際、第三の回答 - 「だって嫌だから」というのが、あっても良い。極めて主観的で、極めて普遍性に欠け、極めて説得力のある答え。結局、主観的な感情をストレートに出した言葉に、論理は敵わないのだ。そりゃそうだ。客観というのは、結局この多様な世界を「普遍性」で乱暴に括ろうとする無謀に過ぎないのだから。

ルール

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 前回の思索に引き続き、ルールという現象について考える。
ルールには、罰を伴うものと伴わないものがある。罰を伴うルールは、良心とその呵責を連れてくる。良心の呵責とは、罰への恐れだ。他者に知られたら罰される、そういう恐れが、良心の呵責の正体だ。そういう意味で、罰を伴うルールは道徳的規範そのものであるとも言える。
ルールは人が定めるものであり、そこには必ず何らかの「意図」が作用する。なるべく、コミュニティの大多数の幸福に利する意図のみが法となるよう、「みんなで決める」という方式を採用しているのが民主主義である。
ルールの本質的な性質として、「ルールを守らねばならないというルール」は根本的に定義できないというものがある。そのため、ルール自体に対して「なぜこれを守らねばならないか?」を問うと、すぐに行き止まりにぶち当たる。「人を殺してはいけないのはなぜか?」という問いに対して、法を持ち出して答えても、「なぜその法を守らねばならないのか?」を問われればそこでギブアップだ。
しかし普通はそこまで考えない。多くの人に取って、法と罰則があれば、充分に法を遵守する理由になる。罰則があるならば、先の「なぜその法を守らなければならないのか?」という質問に対して、「罰されるから」と答えることで、罰=不快を避けたいという人間の原初的な本能が、ルールを守る根拠となる。そうして「守るのが得策」という状態を勝ち得ることが、「法を作る」という行為の一つの理想と言える。
ルールの遵守を強制させる方法として、懲罰以外に強力なのは、「みんながそのルールを守っている」という状態を作り上げることである。多くの人がそのルールに概ね満足し、守っているなら、それは大きな強制力となる。社会という存在が、ルールを「護る」のだ。
このように、ルールを皆が守る状況をを作るには、強力な警察力を備えると言った「懲罰」の面からのアプローチも考えられるが、「みんなが既にそれとなく守っている規範」を明文化するといった方法もある。ハイエクの言うところの自生的秩序というやつだ。懲罰によるアプローチと、自生的秩序によるアプローチが、それぞれ冷戦下の社会主義と自由主義のアプローチに重なるのは、決して偶然ではあるまい。
だから、「なぜ人を殺してはいけないか…

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
---- 法とは、ルールとは何か、というのは、ぼくの中で数年来に渡って残り続けている問題である。今も、会社に人を増やして組織を作っている最中なので、ルール作りの難しさや意義について日々考えている。
そんな中、ぼくの想像力を刺激してくれる、以下のような記事に出会った。
これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態 法よりも道徳が大事なの!? http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47434
著者は憲法学者の方だそうで、読み応えのある文章である。このようなテキストに出会うと、「考えたい」という欲求が刺激される。少し自分の意見も述べたくなってくる。知識も見解もこの記事の著者に及ぶべくもないと知りつつ、このブログは読者不在を心掛けているので、「素人が何を言うか」というそしりも恐れずに何事かを語ってみよう。
上の記事によれば、法と道徳の間には普遍性の有無という違いがあるとのことである。ぼくはここに疑問を覚える。上の記事の著者も、「『日本国内での』普遍性」という二重カッコ書きを意識的にか、無意識的にか除いているが、ぼくはそこを重視する。「限られた地域の中で、これまでの歴史を踏まえつつ、なるべく普遍であろうとする努力がなされている(が、そもそも人が決めるものなので、真に普遍的ということはあり得ないが)」などと、クドイけれど、述べてくれるならしっくりくる。「法と、道徳や地域法の違いは普遍性である」と言われると、そうではないように思えるのだ。
ぼくが考えるに、国の法とは、「国内共通のルールである」というこの一点のみが他との違いである。明文化されていること、強制するための実力機関を持つこと、罰則も合わせて定められること、民主的に決定されること、司法機関を伴うこと…といった事柄は、特に国法に限ったものではない。ただ単に、国がやるから、そのそれぞれに膨大なコストを掛けられるというたけだ。どれも「ルール」という、極めて人間的な社会現象に他ならない。
ぼくはその、「ルール」というやつそのものが気になる。ルールとは何か。その功罪は?

多弁

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- また書く。昨日2つも文章をしたためた事からもわかるが、今のぼくはどうやら多弁である。
こういうことは、これまでも何度もあった。新しい何かを発見したと感じた時、学んだと感じた時、それを人に喋りたくてしょうがなくなる。その「語るべきもの」が、本当に自分の血肉になる頃に、そうした多弁は鳴りを潜めるようになる。まあ、ぼくのような小人間にはありがちな話だ。
明らかに、新年始まってから「私記」という文章を書いたことが影響している。あの文章そのものに、大した価値はない。だが、あの文章を綴る過程で様々な思索に及び、自分の中で考えが深まったような気がしているから、今これほど多弁なのだ。(そしてその、深まった知恵とやらを数年後に根本的に覆したりするのも、いつものことだ)
まあこれはいつものことだし、そのうち収まるし、人に話した時の反応も貴重な体験になるし、悪いことでもない(そもそも最近善悪の区別に少し疎いのだ)ので、今はこのまま、思うところを語っていくとしよう。

ツール

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 今日は筆が乗る。こんな日もある。
前回のポストで、「書く」ことの功罪について考えた。
書くことに限らず、およそこの世にあるものはすべて、善悪長短両面持ち合わせている、という想いを強くしている。もはやそれはぼくの中でのドグマに近い。それは価値の相対化が自分の中で働き始めた結果だ。何事も、単純に割り切らなくなってきた。「良い」と思った瞬間その物事の悪い面を、「悪い」と思った瞬間にその物事の良い面に想いを巡らせる。そうした態度の積み重ねにより、特定の価値観に支配されない自分を作ろうという、些細な取り組みである。
物事にはすべて善悪両面ある、という態度が少しずつ身に付いてくるにつれ、次に湧き上がってきたのが、すべてはツールである、という気持ちである。
例えば書くことには功罪がある。では、もう書くべきではないのか?そうではない。むしろ、「書く」という行為の利点欠点を見据え、うまく利用すべきだと考える。書くことが思考を固定化させてしまうのであれば、その欠点には気を払いつつ、考えを一旦固定化させたいときに、意識的に「書く」という行為を行えば良い。例えば今書いているこの文章のように。書くことで一旦思索を収束させ、次の思索の起点とする。ぼくはこれを、「(書くことで)思索に結び目を作る」と呼ぼう。あとでほどきやすいよう、ゆるく結んでおくことが肝要だ。
ではここで、道徳という現象について考えてみる。ここ数年のぼくは、ニーチェよろしく道徳を攻撃するばかりで、その利点には目を向けてこなかった。改めて考えてみると、道徳とは、人が社会を営む上で蓄積された、価値観の集大成と言える。その地域が持つ歴史によって道徳の有り様は様々だが、その地域で社会生活を営むものは、その道徳を尊重する義務を負わされる。およそその地域に住むもの全て、道徳という一枚岩の価値観を、程度の差こそあれ共有している。道徳から外れれば、社会から阻害される。あまりに道徳的では、嘘臭い。道徳は人間の感情や愛着、幸福感、自由という概念とも密接に関連している…など。
道徳とは、こういう類のツールである。「ツールである」という、この突き放しが、大事なのだ。ツールならば、利用できる。道徳に支配されることなく、道徳をコントロールできる。
このように、全てがツ…

エクリチュール

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 書くとは不思議な行為だ。先日、「私記」と題した駄文を公開することで、自分の中に様々な変化が訪れたことを実感する。
書くということに限らず、何事にも良い面と悪い面がある。
書くことの良い面については、世の中の様々なところで語られているので割愛する。ここでは、世の中であまり語られていないように思える、書くことの悪い面について考えたい。
書くことの悪い面とは、思うに、考えが一度「形を成してしまう」ことだ。
様々に発散する可能性のある思索が、書くという行為によって一点に収束する。一度収束してしまうと、次の思索はその収束点を起点に考え始めてしまう。そこで論理の糸に一つ結び目が出来てしまう。その結び目から思索を開始する方が、毎回ゼロから考え直すよりも楽なので、役立つ拠点として何度も利用する。そのうちに、その拠点の「正しさ」を疑えなくなってくる。ドグマの誕生だ。
そして、形になり、人目に触れるようになった思索は、メディアとして一人歩きを始める。そうなると、社会からも一貫性を求められ(もしくは書き手がそう思い込み)、より、「書く以前」の自分に戻ることが難しくなる。
ぼく自身、書くことによって余計な思い込みを生み出し、そこから脱するのにどれほどの労力を費やしたか、計り知れない。人をマインドコントロールしたければ、「書かせる」「言わせる」のが一番だ。
かように、「書く」という行為は大きなリスクを伴うものと考えるが、世の中は不思議と書くことを礼賛する論評ばかり見かける気がする。この件に対峙したのはデリダくらいか。デリダは全く読んだことがなく、難解という印象が先行してなかなか手が伸びないのだが、一度挑戦してみるか。

私記(後)

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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中編からの続き)
前編) 価値観の相対化を進めた先にあった矛盾。それは、価値という概念の無謬性を確信し、存在を否定したい気持ちと、それでもなお価値感覚が自分の中に存在することを発見し、存在を否定できないというせめぎあいであった。
そして今ではその矛盾は、自分の中で折り合いがついている。それはただ、価値の存在を受け入れただけである。存在するものを否定しようとするから、矛盾に陥るのだ。受け入れてしまえばどうということはない。
確かに価値観とは相対的なもので、何かを論ずる際の絶対的な基盤とはなり得ない。だからと言って、絶対ではないからと言って、存在まで消しにかかる事はない。「ある」というのを受け入れてしまえばいい。
そもそも、なぜぼくは価値の存在を否定しようとしたのか。それは、絶対性が揺らいだときに、「実体がない」と捉えたこと、より踏み込んで言えば実在しないと捉えてしまったことにある。実在しないものの存在を信奉するという、この科学全盛の時代にそぐわない態度を、精神が拒絶しようとしたのだ。あたかも、霊魂や神の存在を拒絶するが如く。その存在否定が、価値感覚が存在するという事実と論理的に衝突し、矛盾を感じるに至ったのである。
しかしここで、存在を否定するという行為にストップをかけ、「事物に価値を感じる」という現象そのものを受け入れてしまえば、矛盾は解決する。「価値観というものは相対的なものだ、しかし、自分を含め、誰にでもその感覚は備わっている」という現実を受け入れることができる。
これは、フッサールだ。エポケーし、事象そのものへと向かったわけだ。なんのことはない、ぼくの数年間の葛藤は、フッサールの実践そのものであった。
先の、存在否定へと至る道筋も、フッサール的に解釈できる。「(価値は)実在しないから、存在を認めない」その態度が、現実との衝突を引き起こしたわけだが、そもそも実在と存在の間に確固たる違いなど、ない。その存在を確信する度合いが違うだけだ。
目に見え、手で触れるものは存在を強く確信でき、「実在する」と感じやすい。それすら、感覚器官に頼っているだけでしかないのだが。感覚器官を騙されれば、人は容易に実在を感じることだろう。
そうでないものについては、その人がどうい…

私記(中)

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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前編からの続き) 価値観の相対化(というと大げさだが、要はあらゆる価値観は絶対的なものではない、と考える努力をするということだ)がもたらした新たな問題、それは、善悪の価値観つまり道徳をも相対化して無価値と断ずることによる享楽主義、そして万物は無価値であると切り捨てることによるニヒリズム…ではなかった。そこまで思想を先鋭化するには少し年を取り過ぎていたし、思想を論理的に研ぎ澄ますことを望んでいたわけでもなかったからだ。(もちろん、多少のモラル低下や虚無感はあったのだが)
ぼくを悩ませたのは、価値観の相対化に伴って生じる矛盾の存在だ。 人間が生きていくためには、価値観の存在が不可欠だ…ぼくはそのことを身をもって知った。日常のあらゆる選択に、価値観という物差しが必要とされる。それが単に「今から何を食べるか」などの軽微な価値判断ばかりならいいが、事業作りなどの、価値判断に一貫した連続性が求められるような状況では、どうしても、意思決定者の価値観に根ざした判断が(頻繁に)求められる。
そこで、ある程度価値観を固定させようと試みると、とたんに「それは過ちだ」という心の声が聞こえてくる。ニーチェの思想では、相対的な価値観の存在も許さなかったと言われるが、まさにその状態である。一貫した、固定化した価値観を心の中に持ち育てること、それがいずれ絶対的なものに育ってしまうことを恐れるあまり、価値感覚を抱いたそばから否定するという状態になってしまった。これは、新しい種類の良心の声である。「価値観を抱くことは罪である」という、新しい道徳から生まれた、新しい良心の咎め。道徳やドグマを否定する行為そのものが、新たな道徳とドグマを生み出してしまったのだ。これが、ぼくが直面した大きな矛盾であった。
とはいえ、繰り返すが、価値判断なくして人間は生きてはいけない。新しく生まれた良心に咎められながらも、毎日を生きていくしかなかった。結局前述の矛盾は、日々の暮らしを続けているうちに「自然と」解消されていったのである。何かドラスティックな発見や啓示を受けて、乗り越えられたわけではない。「時が解決した」というやつだ。
だが今なら、自分の心に何が起こり、矛盾を乗り越えられた…というか折り合いを付けた…のかは多少言語化で…

私記(前)

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
---- 新年である。
昨年の総決算も、新年の抱負も、真面目に語るのがおこがましいという気持ちである。「価値」「価値観」といった言葉と内面的な格闘を繰り広げた結果、自分の人生には人に語るべきものなど何一つない、という結論に満足してしまっている自分がいる。よって、新年始まったところで、書くのは相変わらずの内的なメモである。人様に語って愉しませるようなものなど何も持ち合わせていない。自分に向かって書く。言語化そのものを目的として。
ここ数年、価値観について堂々巡りの思考を重ねてきた。この飽きっぽい自分が、目指すものを変えるたび、価値観も変化してきた。その変化のたびに、以前価値があると思っていたものが色褪せて見えたり、以前は嫌っていたものの価値を認めたり、という経験をしてきた。パラダイムシフト、というやつだ。
価値についてごちゃごちゃ考え始めたのは、単純に、この現象が不思議だったからだ。フッサール流に言うなら、主観の持ちようによって、全く違う世界像が結ばれると言おうか。 あと、自分とは違う価値観の存在を、どうにかして積極的に肯定できるようになりたいという気持ちもあった。自分とは違う価値観を否定してしまうことが、他者を傷つけたり、現実を直視する妨げになったり、という現象に悩まされてきたからだ。
しかし、自分と違う価値観の他者を無条件で肯定するのは、とても難しい。自分と他人に違う物差しを使うということであり(例えば「自分に厳しく他人に優しい」とのような)、そんな器用なことはぼくにはできなかった。
そこでぼくが一昨年から昨年前半くらいまでに身につけた所作が、価値観の相対化である。 絶対的な価値観などありはしない。自分が今感じている価値も含めて。核の炎に包まれたあとの荒野では、紙幣などケツを拭く紙にもなりゃしない。殺人が罪にならないとか、自殺が美徳だという世界だって、現実にある。 価値観とは、地域や時代によって移り変わるものであり、それに思考を縛られることこそが、自分の可能性を狭めるものに他ならない。
この考えを突き詰めることは、ぼくに精神的な自由をもたらした。 なにしろ、善悪の価値観も相対化されるので、道徳からも解放される。良心の声など幻聴に過ぎない。ぼくには、悪事をする自由も、不道徳をする…