2015年8月21日金曜日

感心したコピー・フレーズ 2015/08/21

マキアージュの

「レディにしあがれ。」

語呂の良さが良い。

「しあがれ」の部分、「しやがれ」に見間違えさせるところがニクい。「レディ」と「しやがれ」の組み合わせじゃ違和感が凄まじいので、二度見させられてしまう。その効果を狙ったのと、女性向けの柔らかさを醸し出すために、漢字で「仕上がれ」とはしなかったのだろう。かなり技巧的だ。

また、「レディに」と「しあがれ」の間に句点を打たなかったのは正解であるように思う。「レディに、しあがれ。」では、ちょっと「溜め」が大きすぎる(コピーライターは迷ったのではないかと思うが)。
個人的には、「レディに しあがれ。」と、半角スペースで表現するくらいの溜めが一番心地よく思えるが、日本語のフレーズに半角スペースを混ぜるのは、現在あまり一般的ではない。

とはいえ。このコピーがあまり強い印象を残さないのも事実。マキアージュ的には、「『なんにもしてないよ』なんて、ウソ。」というコピーがメインのようなので、サブコピーとして、印象が少し弱めなのはむしろ狙い通りというところか。

2015年8月19日水曜日

メモ 2015/08/19 無知

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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最近、自分がどこまでも無知であるということをよく思う。

無知の知、というやつだ。だからと言って、残念ながらソクラテスのレベルに自分が達したというわけでもなく、ただただ自分の無知を省みる機会が増え、どこまでいってもぼくは無知なのだ、というある種の諦念を身につけたというだけである。
 
元々、哲学的な思考に足を踏み入れたのは、エンジニア的な好奇心が強かったからであるように思う。エンジニアリングの知識を身につける上で(というか学業全般であろうが)重要なのは、本質的な理解である。それは、理系的な面からいうとこの世を支配している法則の理解であり、文系的な面からいうと創始者や創作者の思想を理解することに他ならない。

ある時、こうした本質理解の欲求が社会そのものに向いた時から、ごちゃごちゃ考える日々が始まった。その日々がもたらしたものは何なのか、今はまだよくわからない。

ただ一つ、最近感じることであるが、もし社会や人間の本質を多少なりとも理解したところで、大したことではないということだ。この世界を動かしているのは、ぼくを含む市井の人々の日々の行動であり、それらの行動はそれぞれ専門分化された知識体系を背景とする。それらの膨大な知識と行動は、「社会と人間の本質」とやらと何らかの関連を持っているかもしれないが、だからと言って本質を理解した人間がオールマイティになんでもできる訳ではない。哲学者が万能じゃないのは、考えるまでもない(むしろ役立たず?)。

結局、社会や人間の本質を理解して、それを自分の人生に応用したいと考えたが、結局そんな応用は叶うべくもなく、日々それらの職能に従事している人々こそが知恵と経験を蓄え行動していてエライ、ということを知るだけに終っただけでなく、そもそも本質理解とやらが可能なのかどうかすら怪しい、いやむしろ人間には多分無理ということが分かってきたというのが事の顛末である。

得られたものといえば、自分には知らない事だらけであり、知らぬまま死ぬのだという事実への気づきと、ぼくの知らない事を知っている他者という存在への驚きと敬意くらいであろうか。まあそれはそれで、得たものとしては悪くない。ただ、こんだけごちゃごちゃ考えて成果がそれだけというのはコスパ悪い事この上ない。もう少し、上手に人生の時間を使えないものなのか、自分。

2015年8月17日月曜日

今日の発見 2015/08/17 メイク

「鈍い」「無知」には自信のある白石が、日々の生活で気づいたことを、ただ、メモる。
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スタバに来ている。
前に並んでいる2人の女性(就活中の女子大生と思われる)の、片方がトイレに行った。

その間に、もう片方の女性はちょっとだけメイク直し。手早い。パパっとルージュを整える。

トイレ中の女性が帰ってきたら、「あ、メイク直したんだ」と気づくはずだ。そこを気づかれるのは恥ずかしくないのか。ぼくの感覚だと、ちょっとしたスキに「変身」して、それを気づかれるのはちょっと気恥ずかしいのだが。人と話している時にチャック開いてるの気づいて、それをこっそり直すのですら恥ずかしい。「あ、こいつ直しやがったな」とか思われそうで。

きっと、女性同士の暗黙の了解があるのだろうな。

2015年8月12日水曜日

メモ 2015/08/18 文学的

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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先日、「まれ」というドラマの脚本について妻と話していた時に、自分の口から「脚本に粘りが足りない」という言葉が飛び出した。

ただそれだけなのだが、ぼくが「まれ」について思っていた感想をズバリと言い表したような気がして、かなり気に入ったのを覚えている。
(万人が同様の感想を抱くわけじゃないというのは重々承知しつつ)

こういう、心の中にある言語化されていない感覚を、適切な言葉で表すセンスこそが、文学的センスというのだろう。いや、「適切」では足りない。受け手の予想を超えつつ、「まさにそれしかない」という表現を発想するセンスが、文学者には必要だ。

昔、川端康成の「雪国」の書き出しを読んだ時の衝撃が忘れられない。「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」。完璧すぎる。100年たっても色褪せないとはこのことだ。一文字の無駄もない。

翻って自分はどうか。ここ数年、コピーライターを自称していろいろ言葉を弄してはいるが、まだまだだな、と感じるだけでなく、だんだん衰えを感じるようにもなってきた。言葉をひねり出すのに必要な、膨大なエネルギーが、なかなか捻出できない(これはトシのせいなどではなく、色んなことを同時並行で考えなくてはならない立場だからだ…と思いたい)。

自分の書いたコピーで、今のところ一番のお気に入りは、htmlday向けに書いた「さあ、お祭りだ。」だ。htmldayとは何かを端的に表現しつつも、人を高揚させる力がある。HTML5 Japan Cupの「日本のWebを、たぎらせろ。」は悪くないが、「たぎらせろ」を全部ひらがなにした(滾らせろ、じゃ読めないと思って)せいで、力強さが損なわれている。「タギらせろ」と、カタカナを入れれば、力強さが補われてなお良かったのに。

昨日CMを見てふと思ったが、ランドセルに「天使のはね」と名付けた人は天才だと思う。子供を持つ親の気持ちを深く理解している。このネーミングは、企業に何十億円もの利益をもたらしたことだろう。

文学的センス、衰えさせている場合ではない。だが、コピーライティングに集中できるような立場ではないのも確か。人生はなかなか難しい。

いつもながら、とっ散らかった文章だな。

2015年8月10日月曜日

メモ 2015/08/10 価値

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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ここ最近の、意味や価値について考えている思索の続き。

人間は、日々実に多くの価値判断をしながら生きている。

人間が1日に行う価値判断の回数はどれほどだろう?100?200?1000?

人間は、なぜ事物に価値を見出すのか?
価値の源泉はどこにある?

そんな根本的な問いを投げかけたとしても、「客観的に正しい」定義に辿り着ける気がさっぱりしない。価値の概念は、あまりにふわっとしすぎている。ぼくはよく知らないが、マルクスの剰余価値説だとか、ベンサムの功利主義などは、モデルとしては良いが、価値という不可思議な現象をあまりに単純化しているのではないかという予感を禁じ得ない。

そう言いつつも、自らその「過度な単純化」という(魅力的な)愚行にぼくも手を染めてみる。

価値の源泉は、最終的には本能的な快、不快に基づくのではないかと思う。そこに、後天的な学習の成果が幾重にも積み重なることで、価値判断の速度と精度を人それぞれに高めていく。例えば通貨という概念を理解すると、通貨を引き換えに様々な「快」を得られることを学び、より多くの通貨に価値を感じるようになる、といった具合だ。更に、「ダイヤモンドは高いもの」という学びのあとでは、ダイヤモンドに多くの価値を感じるようになる。

価値の高低を測るには、多くの情報を要する。例えば絵画一つ取っても、誰が描いたのか、金額に換算したらどうか、制作時期はどうか、そこに使用されている技巧、作品のテーマ、などなど、素人考えでも沢山出てくる。ましてや、例えば日本国憲法の価値を測る、としたらどうだろう。数かぎりない情報や見解を集めた末、結局価値が「ある」か「ない」か、意見が収束することはまずあるまい。

そして、価値を測る対象に付帯する情報、それを「属性」と呼ぶなら、それらの属性は全て対象物とシーニュの関係を形作る、と言って差し支えあるまい。

2015年8月8日土曜日

メモ 2015/08/08 己

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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ぼくはちっぽけな人間なので、何か新しいことを始めると、人にアピールしてしまう。
早朝ジョギングを始めた時も、哲学に傾倒し始めた時も、投資家と会社を作った時も、ライター稼業を始めた時も、いつも、そうだった。
しかしそのうち、自分の中でそれが普通になると、また極端なことに、「自分のやっていることなど、誰にでもできること」と思うようになり、全然アピールしなくなる。

ぼくはまた、バイオリズムに大きな波を持つ人間である。一年のうちで2,3ヶ月、やる気がかなり減衰する時期があって、そんな時期は睡眠時間がやたらと長くなり、仕事や義務を可能な限り避けようとする。
若い頃は、こういう時期にひどく焦りを感じて、自分を叱咤激励したものだが、この歳になると、そういう時期にジタバタしても無駄だというのがわかってきて、あきらめて大人しくしている。

またぼくは、体験したがりのバカだ。あえてここでバカという言葉を使うのは、「自分で体験しないものを、なにも理解することができない」という、いわば一つの認知的な障害を持っているからだ。
大学時代、体験だけを目的に短期バイトに精を出し、30種類くらいのバイトをしたと思う。社会人になってからも、会社を転々としまくり、エンジニアにも飽きてライターをやったり、コミュニティリーダー、コピーライターやイベント企画、営業もかじった。今はスタートアップ経営をかじり中だ。ここまで体験してやっと最近、普通の社会人レベルに、社会のいろいろなことに関心が湧いてきた。普通の人並みに、多面的なものの見方が出来るようになってきた。(と書きつつも、普通並みにできてる自信はまだ全然ない)
そして、体験したがりだから、猛烈に飽きっぽい。ある程度経験すると、なんか分かったような気になってしまい、次の物事に興味が移ってしまう。

この歳になって、ようやくこうした己のクセみたいなものがわかってきた。全くもって、扱いづらい人間である。こんな人間と付き合わなければならない人々は大変だ、と同情を禁じ得ないが、こんな人間と一心同体であるぼく自身が一番大変なのである。一度しかない人生、どうにかこいつと付き合いながら、楽しく、周りの人になるべく笑顔でいてもらいつつ、生きていかなければならないのだ。

…などと書きながら、「ぼくって変でしょ」なんてくだらない自尊心がこの文章を書かせているのでは、と自分を疑いだし、そうやって疑う自分の疑り深さに呆れつつ、でもきっとそんな自尊心が少し頭をもたげているのだろうと呆れつつ。自分のことを語るとなると、結局いつもしかめ面にしかならない。

2015年8月6日木曜日

メモ 2015/08/04 意味2

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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昨日「意味」というものについて考えたが、まだ足りないので続き。

意味と価値

意味と価値は、時に同じような文脈で用いられる。「意味がない」は「価値がない」と同義であることがよくある。「それ、やる意味あんの?」という問いかけは、「それ、やる価値あんの?」と言い換えても違和感がないように思う。
この理由を探るために、価値判断のプロセスについて少し想いを巡らせてみる。

「価値があるかないか」は、対象の意味を解釈していないと判断できない。100円玉と50円玉のどちらが価値が高いかは、それらの硬貨が指す意味を理解していなければならない。ここから演繹すると、意味解釈は価値判断に先立って必要とされる。まさしく、「意味がわからなければ判断のしようがない」。

だから、「意味がない」は「価値がない」と近い文脈で用いることができるのであろう。本来、価値を判断するには、意味が必要とされる。意味がないのであれば、価値の判断のしようがない。価値判断ができない場合、人は価値判断を保留せざるを得ない。その状態は、「価値がある」ことを望む人にとっては満たされるものではない。

人は、「自分の人生を価値あるものにしたい、価値あるものだと人にも思われたい」と願うからこそ、自分の人生に意味付けを求めるのではないか。

意味付け

さて、「意味付け」という言葉が示す通り、意味は恣意的に設定することができる。人生の意味、プロジェクトの意味(ミッション)、会社の存在意味(意義)…などなど、事物が先行し、あとから意味を加えるという行為が実際に行われているのは、枚挙にいとまがない。

それもよく考えれば当たり前のことで、世界は実際に存在(実在)しており、出来事は実際に世界の中で絶え間なく起きているわけで、「意味を付ける」という行為に対して実在が先行するのは当然だ。

この、「意味付けは恣意的な行為である」ということに気づくと、色々なことに応用できる。例えばあるプロジェクトが失敗に終わったとする。プロジェクトメンバーは、プロジェクトに関わった時間が全て無意味だったのではないかという不安で落ち着かない気持ちになる。そこでリーダーが、「プロジェクトは失敗したが、次に繋がる多くの学びを得た。次に活かそう」と宣言したとする。すると、その失敗プロジェクトは、「次に繋がる多くの学びを得る(ためのものだった)」という意味付けを与えられ、メンバーはホッとする。プロジェクトに費やした時間が「無意味=無価値」ではなかった、ということに安心するのだ。

他の例を挙げよう。
スティーブ・ジョブズは、iPhoneを初めとした革新的な製品を世に送り出した、史上最も偉大な偉大なイノベーターである。もしこの文章が正しければ、スティーブ・ジョブズ(の人生)は、「史上最も偉大な偉大なイノベーター」という意味付けがなされたと言って良いだろう。「史上最も偉大なイノベータといえば」スティーブ・ジョブズ、といった具合である。ではこの意味付けはいつなされたのだろうか。また、誰がその意味付けをしたのか?こうした意味付けは、彼が実際に革新的な製品を世にいくつも送り出すにつれて、彼以外の多くの人びとによってなされたのである(そして彼が亡くなったあと、更に多くの人びとによって、その意味付けは不動のものとなった)。彼は産まれた時から偉大なイノベーターであるとみなされていたわけではない。

こうして考えると、シニフィアンとシニフィエの関係は、単に「固定されていない」というだけではなく、非常にダイナミックなものであると気づく。先行する実在に対して、それを言い表す(別の)言葉を与えた瞬間から、シニフィアンとシニフィエの関係が発生する。例えばそれは、新種の生物に対して命名を行うという行為かもしれないし、既に名前を与えられているもの(「スティーブ・ジョブズ」)に対して、別の「代名詞」(「史上最も偉大なイノベーター」)を与えることかもしれない。そして、そういう「意味付け」が行われたあとは、そのシニフィアンとシニフィエはイコールの関係となる。「スティーブ・ジョブズといえば最も偉大なイノベーターであり、最も偉大なイノベーターといえばスティーブ・ジョブズ」といった具合である。ただし、こうした意味解釈が通用するのは、特定のコミュニティ、特定の時代に限られたことであることは注意が必要だ。アフリカの原住民に「史上最も偉大なイノベーター」を訪ねても、スティーブ・ジョブズの名前が出てくることはまずあるまい。

ここでまた、人生の意味ということについて考える。人は誰でも、自分の人生を価値あるものにしたいと望むだろう。人によってその度合いは様々だが。
人生に対する価値判断を行うのは誰だろう?自分?他者?

自分が自分の人生に価値を認める、それがあるべき形だ。それは自分の人生に満足するということだ。

ただ、自分の人生に価値を認めるために、他者からの評価を必要とする人は実に多い。誰からも認めてもらえないまま、もしくは誰からも忘れ去られつつ、自分の人生に価値があったと満足して死ぬというのは、なかなかに難しかろう。

では、他人に価値を認めてもらう、しかもできるだけ多くの人に…という場合どうするか?

行動により、自分の存在を知らしめることだ。それは、その行動によって代名詞を獲得することと言って良い。「白石さん?ああ、○○の人ね」という具合に。これはつまり、先に述べた「意味づけ」と同じことだ。この「○○」が、ユニークであればあるほど、固有の意味を持つことになる。

つまり、自分の人生に価値を感じたい人が取る行動は意味の希求であり、それは人々の記憶に残るような代名詞の獲得である。

ただ、代名詞の獲得そのものが目的になってしまった場合、人は突拍子もない行動に出て、悪名すらも望むことがある。これが、功名心を動機とした犯罪の原因であろう。すると、犯罪者として名を残すことで、人生に一応の意味は付くものの価値が低い、ということになってしまう。

2015年8月3日月曜日

メモ 2015/08/03 意味

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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意味という現象には、恐ろしく多くの哲学者や言語学者が取り組んで来たであろう。ぼくはソシュールがシニフィアンとシニフィエを分けて考えたことくらいしか知らない。なので、今から論ずることは、既存の研究を一切あたることなく、意味という現象について考えた、素人の手なぐさみである。

まず、シニフィアン(記号)とシニフィエ(意味されるもの)の関係は必然的なものではない。限られた時代、共同体の中での強固な相互了解によって成り立つものである。

シニフィアンは言語であることが一般的だが、非言語、例えばジェスチャーとか、アイコンとか、擬音とか…も、特定の意味を指し示すことがある。あえてひどい例を持ち出すなら、「くぱぁ」という擬音は、一部の人々にとっては明確な意味を感じさせる。要は、「記号」であれば何でもシニフィアンになりうる。

ここで、「人生の意味」について考えてみたい。これは、「誰かの人生がシニフィアンであり、それが指し示す意味」ということになろう。固定のシニフィエを持たないシニフィアンが人生であり、「人生の意味を探す」というのは、「人生という記号が示すシニフィエ探し」であると言ってもよかろう。意味を問うた瞬間に、人生そのもの(「人生」という単語ではない)すらも記号になりうるとは!

もう一つ、「意味」と「価値」についても考えたい。この二つの単語は、似たようなコンテキストで使用されることが多い。「ぼくの人生には意味がない」というのは、「ぼくの人生には価値がない」と言っているのとほぼ変わらないように感じる。

「人生に意味がない」というフレーズを読み解くに、「人生」という記号に意味が伴わない、つまりシニフィエを伴わないシニフィアンであるということだ。ナンセンスな記号。

そうした記号は、人間の記憶に残らない。人間の記憶は、シニフィエの記憶だ。「言葉が出てこない」という現象は、「シニフィエは思い浮かんでいるのだが、そのシニフィアンたる言語を思い出せない」ということだ。意味のない記号は覚えていられない。

だから、「意味のない人生」は、人々の記憶に残らない。人はそれを嘆くのだ。その嘆きを避けるために、人生に意味を持たせたい、と多くの人は願うのだ。自分の人生を、少しでも「価値があった」と思いたいがために。